マイリスト お城
兎侍@tetu さんの公開マイリスト
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【白山】越後国新潟城 令和6年(2024) 晩春
2024年の4月中旬、新潟県新潟市にある新潟城址を訪れました。天正9年(1581年)、上杉景勝に反旗を翻した新発田城主・新発田重家が築城したと伝わり、一族の新発田綱朝とその息子である新発田綱之が守備していました。天正11年(1583年)、上杉景勝自ら出陣して新潟城を攻めましたが、新発田勢が城を守り抜きました。天正13年(1585年)、徐々に上杉方の圧力が強くなり、計略により内応者が出て、城は落城したと伝わります。白山神社と白山公園の辺りに城があったとされ、正確な位置は分かりませんが、信濃川の河口を抑える要衝の地であることは分かりました。城の遺構は残っていませんが、日本海へ注ぐ巨大な信濃川の姿や、上杉景勝公が白山神社へ戦勝祈願し鏡等を寄進したと伝わるので、上杉勢と新発田勢の戦いの最前線の地であったと思うと感慨深いものがありました。白山公園には新潟最古の石灯籠や道しるべ等もあり、歴史の散策も非常に楽しめました。お城→mylist/37297571
8:02|2024年04月19日 18:00:00 投稿
【まほら】尾張国青塚砦 令和6年(2024) 仲春
2024年の3月下旬、愛知県犬山市にある青塚砦跡を訪れました。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの際に、秀吉方の砦として森長可が守備したと伝わります。尾張地方で第二位の規模を誇る青塚古墳の墳丘を利用した砦で、古墳は全長123m、高さは12mあり、往時は頂上からは濃尾平野を見渡せ、小牧山城もよく見えたと思います。青塚古墳は4世紀中頃に造られた前方後円墳で、往時は周囲に濠が巡っていたようですが、現在は古墳の西側に濠の名残と思われる池があります。現在、青塚古墳史跡公園として整備され、北側に無料の駐車場が普通車15台くらい、南東に「まほらの館」という青塚古墳について学習できるガイダンス施設(無料)があります。訪問時、係員の方がおらず、写真撮影禁止の案内もなかったので、内部の撮影をさせて頂きました。お城→mylist/37297571
8:30|2024年04月12日 18:00:00 投稿
【磨墨】尾張国羽黒城 令和6年(2024) 仲春
2024年の3月下旬、愛知県犬山市にある羽黒城址を訪れました。建仁2年(1202)に梶原景親が築城したとされ、以来、尾張梶原氏の居城となっていました。その後、梶原氏は織田信長の家臣となっていましたが、天正10年(1582)の本能寺の変で、城主・梶原景久(景義)は織田方として討死にし、羽黒城は廃城となったようです。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いで、羽柴方の砦として修復され、山内一豊や堀尾吉晴が守備したと伝わります。平城ですが、前方後円墳を活用しており、往時は古墳の頂上から濃尾平野が良く見えていたと思います。古墳の北側に大きな堀跡と西隣の興禅寺の北側にも土塁が残っています。また、羽黒城址の北隣の磨墨塚史跡公園には、平安時代末期の宇治川の戦いで活躍した梶原景季の愛馬である磨墨のお墓があり、磨墨塚史跡公園となっています。城址は非常によく整備されており、地元の方に大変感謝です。ありがとうございます。お城→mylist/37297571
17:03|2024年04月04日 18:00:00 投稿
【臥龍】尾張国清洲城 令和6年(2024) 仲春
2024年の3月上旬、愛知県清須市にある清洲城を訪れました。応永12年(1405年)尾張守護の斯波義重によって築城されたとされ、後に織田氏が居城とし、弘治元年(1555年)には織田信長が居城とし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、信長は清洲城から出陣しました。天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、清洲城にて清洲会議が行われ、城は信長の次男・織田信雄が相続しました。関ヶ原の合戦後の慶長12年(1607年)には徳川家康の九男・徳川義直が入城しますが、慶長15年(1610年)より清須城下町は名古屋城下に移転され、廃城となりました。現在、城址は公園として整備され、五条川の東側に模擬天守が建っています。動画の後半では、清須市に住んでいた鳥山明先生の追悼の内容となっています。動画は以下の内容となっています。清洲城土塁跡 → 日吉神社 → 清洲城 → 鳥山明先生追悼お城→mylist/37297571
26:39|2024年03月15日 18:00:00 投稿
【主殿助】三河国深溝城 令和6年(2024) 晩冬
2024年の1月下旬、愛知県額田郡幸田町にある深溝城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、13世紀か14世紀頃に大庭氏が築城したとされます。16世紀には松平氏が居城とし、深溝松平氏の拠点となっていました。城主には『家忠日記』で有名な松平家忠がいます。現在、城址は工場となっていますが、工場の西南に城址碑と案内板。また、城址の東側には土塁のような地形も残っています。動画では、深溝城址 → 長満寺(大庭氏菩提寺) → 三光院 → 幸田町郷土資料館 → 本光寺(深溝松平氏菩提寺)と訪れています。お城→mylist/37297571
26:01|2024年02月22日 18:00:00 投稿
【夏目】三河国六栗城 令和6年(2024) 晩冬
2024年の1月下旬、愛知県額田郡幸田町にある六栗城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、徳川家康の家臣の夏目氏の居城と伝わります。城主・夏目吉信(広次)は三方ヶ原の戦いで、徳川家康の身代わりとなって討死にした武将として有名です。吉信の死後、吉忠が跡を継ぎ家康に仕えますが、関ヶ原の合戦後の慶長7年(1603年)になくなっており、いつ頃に廃城になったのかは定かではありません。現在、城址に遺構はありませんが、菩提寺である明善寺が廃寺になるとのことで、岡崎市岩戸町東照寺の夏目氏の縁者の方が2023年に城址碑を建てました。上記の情報については、秦梨学区総代・蒲野様が確認して提供くださいました。改めてありがとうございます。近くの明善寺の南には夏目氏三代の墓があります。お城→mylist/37297571
10:49|2024年02月09日 18:00:00 投稿
【興十郎】尾張国前田城 令和5年(2023) 仲冬
2023年の12月下旬、愛知県名古屋市中川区にある前田城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、織田信長の家臣の前田氏の城と伝わります。城主は代々・前田興十郎を名乗っていたようで、天正12年(1584年)の蟹江城合戦では、前田長定は織田信雄・徳川家康陣営として、佐久間信辰と共に蟹江城を守備していましたが、秀吉方の滝川一益の調略により蟹江城を開城しますが、後に織田・徳川方に攻められ討死にしました(和睦後に殺害された説もあるようです)。前田城を守備していた長定の子の長種(または長俊とも)は徳川方の攻撃を受け開城し前田氏は退去しました。尾張前田家の本家とされる長種は一族の前田利家を頼り、後に越中富山城代、加賀小松城代となり、加賀藩の重臣である加賀八家の一つ前田対馬守家となりました。東に庄内川、西に新川に挟まれた輪中の中の平城で、遺構は残っていませんが、城址とされる前田速念寺に城址碑と前田興十郎と一族の墓があります。お城→mylist/37297571
11:18|2024年01月26日 18:00:00 投稿
【福留将監】尾張国助光城 令和5年(2023) 仲冬
2023年の12月下旬、愛知県名古屋市中川区にある助光城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、織田信長の家臣の福留将監の城と伝わります。昭和50年代(1975-1984)に土之宮神社の北の竹藪から「福留将監古城跡」の石碑が見つかり、神社の境内に城址碑が移されています。城の遺構はなく、城址の正確な場所もはっきりせず、北東100m程の距離に前田氏の前田城があるので、同じ織田信長の家臣の城がこんな近くにあるものなのかと疑問もありますが、わざわざ城址碑を残してくれた人がいるので、今後、解明されていくことを期待します。お城→mylist/37297571
8:27|2024年01月19日 18:00:00 投稿
【白厳】尾張国木之下城 令和5年(2023) 仲冬
2023年の12月下旬、愛知県犬山市にある木之下城址を訪れました。現地の説明では、文明元年(1469年)に築城され、織田広近が入城したといわれるようです。天文6年(1537年)、織田信長の叔父である織田信康が犬山城を築き移ったので、木之下城は廃城になったと考えられます。犬山駅の西南の平地に築かれた城ですが、主郭跡と思われる愛宕神社の本殿は周囲より一段高くなっており、城郭は南に構えられたと考えられるようです。城の明確な遺構はありませんが、愛宕神社さんは城址であることをアピールしてくれており、気持ちのいい訪問になりました。お城→mylist/37297571
10:30|2024年01月12日 18:00:00 投稿
【小六】尾張国宮後城 令和5年(2023) 仲冬
2023年の12月上旬、愛知県江南市にある宮後城址を訪れました。築城年は不明ですが、応永年間(1394 - 1428)頃に安井氏が居城していたとされます。戦国時代には、安井重幸の息子・安井重継が居城しており、重継の姉・安井御前は、夫・蜂須賀正利とともに居城していた蜂須賀城が織田信秀との対立により土地を奪われてしまったため、長男の蜂須賀正勝とともに宮後城へ移り住んだと伝わります。正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)は、この地で生まれたとされます。城の中心と想定される所は空き地となっていましたが、2023年2月の発掘調査後、住宅地となっていました。空き地にあった城の説明板が宮後八幡社に移されています。動画は蜂須賀家政公に所縁のある神社や寺等も紹介しています。宮後城址 → 宮後八幡社 → 曼陀羅寺 → 江南市歴史民俗資料館お城→mylist/37297571
20:40|2023年12月29日 18:00:00 投稿
【有馬】尾張国井上城 令和5年(2023) 仲冬
2023年の12月上旬、愛知県岩倉市にある井上城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、応永(1394年)から嘉吉(1441年)年間にかけて城があったとされ、城主は重松主水正や有馬主殿正と伝わります。現地の説明の碑だと、嘉吉3年(1443年)、有馬主殿正の時、尾張守護代・下津城の織田郷広に攻められ落城したとあり、城と言うよりも館のような館城のような城だったと考えられるようです。遺構かは分かりませんが、五条川沿いの一段高くなった所に祠があり、そこに井上城址の碑と下に城の説明の碑があります。動画の後半で、すぐ南西にある神明神社も訪れています。神明神社の西側に3~4台くらいの駐車場があります。お城→mylist/37297571
3:40|2023年12月22日 18:00:00 投稿
【武衛堤】尾張国熊之庄城 令和5年(2023) 仲冬
2023年の12月上旬、愛知県北名古屋市にある熊之庄城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、溝口氏の一族の溝口左京進の居城だったと伝わります。熊之荘の荘園を守る館城のような城だったと思われますが、開発により遺構は残っていないようです。応永年間の1428年頃に尾張守護の斯波義重が熊之庄の北西から南東にかけて堤を築き、斯波氏武衛家から「武衛堤(ぶえいづつみ)」と呼ばれていたようですが、戦後の土地開発により、この堤もなくなっているようです。動画の後半は熊之庄から北西にある岩倉市の大山寺の散策もしています。お城→mylist/37297571
13:23|2023年12月15日 18:00:00 投稿
【犬千代】尾張国荒子城 令和5年(2023) 晩秋
2023年の10月下旬、愛知県名古屋市中川区にある荒子城址を訪れました。天文年間(1532〜1555)に前田利家の父・前田利昌(利春)が築城したとされ、利昌・嫡男の利久・利家が城主となりました。天正3年(1575)、利家が越前国府中(福井県越前市)に、同9年に利家の嫡男・利長も同地に移るにおよび廃城となったとされています。東西約68m、南北約50mあり、一重堀を巡らしていたと伝わります。前田利家の出生地とされていますが、西に3km程にある前田城も利家の出生地と伝わるようです。現在、城址とされる場所には冨士権現天満宮が建っており、城の遺構はありませんが、城の説明板や前田利家出生地の大きな石碑があります。また、近くにある荒子観音の本堂は天正4年(1576)、前田利家が再建したと伝わり、多宝塔は天文5年(1536)に再建されたもので、名古屋市内に現存する最古の建物で国の重要文化財に指定されています。城址の近くには奥村の姓の方の土地もあるようで、前田氏の重臣で荒子城代を務めた奥村永福の一族の子孫の方が今も住んでいると思うと、感慨深いものがありました。※SDカードが壊れて、肝心の荒子城跡の写真は2枚だけです・・・ごめんなさい。お城→mylist/37297571
10:23|2023年11月10日 18:00:00 投稿
【姉小路】飛騨国松倉城 令和5年(2023) 晩秋
2023年の10月中旬、岐阜県高山市にある松倉城を訪れました。天正7年(1579)、飛騨の国人姉小路頼綱が築城したとされ、姉小路氏の飛騨統一の拠点でした。織田信長の死後、越中の佐々成政と結んだ頼綱は羽柴秀吉と敵対することとなり、天正13年(1585)、羽柴方の越前大野城主・金森長近が飛騨に侵攻しました。松倉城は頼綱の息子である姉小路秀綱が守備しており、父の頼綱が羽柴方に降伏した後も籠城して戦っていましたが、城内から金森方への寝返りで城に放火され、落城しました。城主・秀綱は信濃へ落ち延びようとしますが、途中で殺害されたと伝わります。金森長近は秀吉より飛騨一国を与えられ、高山城を新たに築城し、松倉城は廃城になったとされます。松倉城は高山市の中心から南西にある松倉山に築かれた山城で、標高は856m、高山市街地との比高は280m程あります。麓の飛騨の里辺りは当時の城下町があったとされ、城の中枢部には野面積みのかなり大規模な石垣が残っています。本丸からは高山市街と3000m級の飛騨山脈が一望でき、西は白山、南東は御嶽山も見ることができます。車ではシンボル広場まで登れて、そこから本丸までは徒歩10分程です。飛騨の里の奥の遊歩道からだと、本丸まで30分程です。お城→mylist/37297571
22:45|2023年11月02日 18:00:00 投稿
【海道一】駿河国駿府城 平成30年(2018) 晩秋
2018年の10月下旬、静岡県静岡市に駿府城を訪れました。戦国時代に駿河国守護の今川氏が館を構えていた地に、天正13年(1585)に徳川家康が築城し、豊臣秀吉による関東への国替えを挟み、慶長12年(1607)に隠居城として天下普請で築城し直しました。三重の堀をもつ輪郭式の典型的な城で、天下普請で造られた城だけあり、その縄張りは広大で散策も時間がかかります。現在は駿府城公園として市民の憩いの場となっていますが、東御門や巽櫓、坤櫓等が復元されています。動画の後半では浅間神社や小梳神社等の駿府城周辺も散策しています。お城→mylist/37297571
15:01|2023年10月27日 18:00:00 投稿
【やなせ浦】尾張国山名瀬砦 令和5年(2023) 晩秋
2023年の10月中旬、愛知県江南市にある山名瀬砦跡を訪れました。築造年代等は不明ですが、天正12(1584)年の小牧長久手合戦時に、織田・徳川方の砦として、織田信雄の家臣・前野義康が守ったと伝わります。すぐ北に同じく前野義康方の五丁堀砦があり、最前線の砦の一つだったようです。現在、周辺は田圃や会社の敷地となっていますが、山名瀬砦址の碑が現地に建てられています。羽柴方に対したであろう北側には土塁・堀跡の名残のような土地の起伏があり、城址碑の歌にやなせ浦とあるので、往時は水の多い湿地帯のような所で攻め辛い場所だったのかもしれません。動画の後半では、砦跡のすぐ北にある前野清助の墓を訪れています。お城→mylist/37297571
7:16|2023年10月20日 18:00:00 投稿
【遊佐河内守】尾張国大道寺砦 令和5年(2023) 仲秋
2023年の9月上旬、愛知県丹羽郡扶桑町にある大道寺砦跡を訪れました。築造年代等は不明ですが、戦国時代に織田信長の尾張統一に対抗した犬山城の織田信清の砦だったようです。名鉄・柏森駅の西にある踏切の辺りに大道寺があり、砦も周辺にあったとされるようです。数年前までは柏森駅の西の踏切の北辺りに大道寺を偲んで建てられた薬師如来と五輪塔がありましたが、宅地化が進み、北の駐車場の一画に移動しています。さらに北にある専修院も大道寺砦跡とされるようで、犬山城の矢来門が東門として移築されています。動画の後半では大道寺砦の戦いで信長方として活躍した生駒氏の家臣と伝わる遊佐河内守教光の墓碑がある江南市の布袋駅の近くにある道音寺を訪れています。お城→mylist/37297571
13:37|2023年09月22日 18:00:00 投稿
【巴江】三河国田原城 令和5年(2023) 初秋
2023年の8月下旬、愛知県田原市にある田原城を訪れました。文明12年(1480)頃に戸田宗光が築城したとされ、戸田氏の三河湾支配の拠点となりました。1550年頃に今川義元に攻略され、今川氏の支配下となったようですが、桶狭間の合戦の後に東三河に勢力を伸ばした徳川家康の勢力化となり、徳川家康が関東移封後は、池田輝政の領地となり、家臣の伊木忠次が城主となったようです。江戸時代になると、戸田氏、三宅氏が城主となり、明治になるまでの約200年間、三宅氏1万2千石の居城でした。現在、本丸・二の丸・三の丸は往時の縄張がほぼ現存し、本丸に巴江神社、二の丸に田原市博物館、三の丸に護国神社が建っています。戦国時代後期~江戸時代前期の物と思われる石垣も見ることができ、二の丸と三の丸の南に水堀が残り、桜門や二の丸櫓が復元されています。動画では城宝寺 → 八幡社 → 田原城 → 渡辺崋山幽居跡地 → 蔵王山の順に訪れています。お城→mylist/37297571
45:55|2023年09月08日 18:00:00 投稿
【布引】摂津国滝山城 令和5年(2023) 晩夏
2023年の7月下旬、兵庫県神戸市にある滝山城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、正慶2(1333)年、「正慶乱離志」に赤松円心則正が護良親王の令旨を受けて、挙兵した時のことが記載されています。西方の再度山城、東方の摩耶山城を両翼におき、大阪湾を往来する船を監視することができる拠点で、南北朝の動乱期から戦国時代まで戦火の舞台となりました。戦国時代には三好長慶が家臣の松永久秀に命じて、滝山城の改修を行ったようです。天正8(1580)年の花隈城城の戦いで、花隈城が落城後に滝山城が記録に現れないので、その頃に廃城になったと考えられます。標高約330mの山城で曲輪は多く残っており、山の途中から南の大阪湾から和歌山まで一望することができます。近くに布引の滝もあるので、観光としても楽しめる所だと思います。お城→mylist/37297571
19:31|2023年08月25日 18:00:00 投稿
【謎】摂津国花隈城 令和5年(2023) 晩夏
2023年の7月下旬、兵庫県神戸市にある花隈城址を訪れました。戦国時代後期に和田惟政か荒木村重が築城したと伝わり、天正6年(1578年)、荒木村重が織田信長に背いた時、城主・荒木元清は荒木村重方に味方しましたが、花隈城は池田恒興などに攻められ、天正8年(1580年)に落城しました。城は海に面して突き出たハナクマの名の通りの台地で、海陸の要害地でした。別所長治と織田信長が戦った三木合戦では、毛利氏から海路によって運ばれた兵糧を三木城に運ぶ中継地点となりました。城の規模は古地図によると、本丸の西北隅に天守、東南隅に櫓を設け、二の丸、三の丸と北に続き、その東に侍屋敷や足軽町があり、城域は東西約350m、南北約200m程だったとされるようです。近世城郭の形態を完備していたと伝えられますが、建物等の遺構は残っていません。現在、福徳寺が天守跡と伝わり、城域の一部に花隈公園が整備され、城址碑と模擬石垣と模擬天守台があります。お城→mylist/37297571
9:01|2023年08月18日 18:00:00 投稿
【梓弓】播磨国鷹尾山城 令和5年(2023) 晩夏
2023年の7月下旬、兵庫県三木市にある鷹尾山城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、戦国時代には一帯を支配していた別所氏の城でした。天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦である三木合戦の舞台の一つとなりました。三木城の南東に位置した山に築かれた山城で、三木城主・別所長治の弟である別所友之が守備していたと伝わります。現在、鷹尾山城だった伝わる所には三木市役所や図書館等が建設され、市民体育館の西側に主郭跡とされる所に土塁や堀や曲輪の遺構が残っています。木で三木城の眺めが見えませんが、往時はここから三木城が良く見えたはずで、三木城落城直前に羽柴秀吉が鷹尾山城に入り、開城勧告を行ったと伝わります。お城→mylist/37297571
7:59|2023年08月10日 17:30:00 投稿
【釜山】播磨国三木城 令和5年(2023) 晩夏
2023年の7月下旬、兵庫県三木市にある三木城を訪れました。15世紀末に別所則治が築城したと伝わり、戦国時代には別所氏が城主で一帯を支配していました。織田信長の播磨進出に別所氏は協力していましたが、天正6(1578)年、三木城主・別所長治は織田氏に反旗を翻し、毛利氏についたので、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦である三木合戦の舞台となりました。織田方の羽柴秀吉は三木城を兵糧攻めし、三木の干殺し(みきのひごろし、ほしごろし)と呼ばれ、1年10ヶ月に及ぶ籠城戦の末、城主・別所長治は城兵の助命を条件に開城し、一族とともに切腹しました。現在、本丸には井戸の遺構や伝天守台跡、別所長治公像等があり、二の丸にはみき歴史資料館等が建っていますが、曲輪の形状はよく残っています。新城は宅地化され、遺構は見当たりませんでした。鷹尾山城は動画が長くなったので、別動画に編集しました。お城→mylist/37297571
40:48|2023年08月04日 18:00:00 投稿
【天王】尾張国廣井城 令和5年(2023) 仲夏
2023年の6月下旬、愛知県名古屋市にある廣井城址を訪れました。築城年代等ははっきりしないようですが、天文年間(1532-1555)頃まで中村氏が城主だったようです。熱田台地の西端にあり、高低差を活用した城だったようですが、遺構等は残っておらず、城跡とされる所には洲崎神社が建っています。すぐ西に流れる堀川には、尾張名古屋藩の御船手役所跡があり、堀川を北に行くと福島正則像、南に行くと日置城があります。お城→mylist/37297571
6:31|2023年07月28日 18:00:00 投稿
【萩か荻か】尾張国五丁掘砦 令和5年(2023) 晩春
2023年の4月下旬、愛知県江南市にある五丁堀砦址を訪れました。築城年代等は不明ですが、天正12(1584)年の小牧長久手合戦時に、五丁の堀を備え、織田・徳川方の砦として、前野義康が300の手勢で守ったと伝わります。西に800m程の所にある宮後城は羽柴方の蜂須賀氏の城なので、羽柴方と織田・徳川方の最前線に位置していたようですが、五丁堀砦では合戦は発生しなかったようです。現在、周辺は住宅地と畑が広がり、堀の名残もありませんが、五丁堀砦址の碑が現地に建てられています。お城→mylist/37297571
7:20|2023年07月21日 18:00:00 投稿
【三管領】河内国高屋城 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、大阪府羽曳野市にある高屋城址を訪れました。築城年代等ははっきりしないようですが、応仁の乱後の文明11(1479)年頃に、畠山義就(はたけやまよしひろ・よしなり)が築城したと推定されているようです。天文21(1552)年、畠山高政(はたけやまたかまさ)が城主となりますが、後に三好氏が落城させ、三好氏が支配しました。永禄11(1568)年、高政の弟の畠山秋高(はたけやまあきたか)が入城しますが、元亀4(1573)年、河内守護代の遊佐信教(ゆさのぶのり)により殺害され、三好康長が入城しました。天正3(1575)年、高屋城の戦いで、織田信長の軍勢が三好方の高屋城を攻め落とし、高屋城は廃城になったと考えられます。城は標高47m程の河岸段丘を活用した縄張りで、最高所にある北の古墳(幅100m、全長122m)を本丸に活用し、本丸の南に二の丸(東西350m、南北200m)、さらに南に三の丸(東西250m、南北250m)と非常に大規模な城でした。現在、城址周辺は宅地化が進んでいますが、所々に土塁の跡等を確認することができます。お城→mylist/37297571
22:35|2023年06月23日 18:00:00 投稿
【環濠都市】和泉国堺 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、大阪府堺市にある堺環濠都市跡を訪れました。中世に貿易港として発展し、栄華を極め、室町時代には日本の重要な港である三津七湊の一つに数えられました。戦国時代には環濠都市となり、会合衆と呼ばれる有力商人たちにより自治的な都市運営が行われました。織田信長が武力によって服属を要求し、堺は信長の傘下となり、信長の死後は豊臣秀吉の傘下となりました。大坂の陣の「堺焼き討ち」で全焼し、江戸時代になって復興され、現在見られる町割りは戦国時代ではなく、江戸時代の物です。お城→mylist/37297571
28:15|2023年06月16日 18:00:00 投稿
【城蹟山】和泉国綾井城 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、大阪府高石市にある綾井城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、戦国時代には、織田信長の家臣となった沼間日向守任世が城主だったようです。天正4(1576)年の第一次木津川口の戦いで、任世の息子である沼間義清は織田方として参戦しますが、毛利氏との戦いで討ち死にしました。後に、義清の子の興清は中村一氏の家臣となり、江戸時代には徳川家の旗本となりました。現在、城跡は専稱寺となっていますが、山号の「城蹟山」と東の堀に城の名残をとどめています。お城→mylist/37297571
5:38|2023年06月09日 18:00:00 投稿
【七五三兵衛】和泉国真鍋城 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、大阪府泉大津市にある真鍋城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、戦国時代には、和泉国南部の淡輪(たんなわ)の豪族である真鍋氏が織田信長の家臣となり、信長の命で大津城(真鍋城)に入ったようです。天正4(1576)年の第一次木津川口の戦いで、城主・真鍋貞友(七五三兵衛)は真鍋水軍を率いて織田方として参戦しますが、毛利氏の村上水軍との戦いで討ち死にしました。真鍋貞友の子・真鍋貞成は信長の死後は、豊臣家の家臣となり、江戸時代には紀州藩主・徳川頼宣の家臣となったようです。城址は南溟寺となっており、真鍋城址の碑があります。土塁のような地形もありますが、遺構かは分かりませんでした。お城→mylist/37297571
6:39|2023年06月07日 18:00:00 投稿
【千亀利】和泉国岸和田城 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、大阪府岸和田市にある岸和田城を訪れました。築城年代等は不明ですが、戦国時代には、三好氏や松浦氏、織田信長の家臣である蜂屋頼隆や羽柴秀吉の家臣の中村一氏や小出秀政が城主でした。江戸時代には、松平氏や北条氏が城主になりますが、寛永17(1631)年、岡部宣勝が6万石で入城し、幕末まで240年間、岡部氏13代の居城でした。往時は五重の天守があったようですが、江戸時代に落雷により焼失し、現在は、三重の復興天守が建てられています。何重もの水堀に囲まれた城でしたが、現在は本丸と二の丸に水堀が残っています。本丸の堀沿いでは小学生が遊んでいたり、二の丸の広場ではピクニックを楽しむ家族がいたりと、良い雰囲気のお城でした。環水平アークという珍しい現象も見ることができました。お城→mylist/37297571
19:06|2023年06月02日 18:00:00 投稿
【南海の鎮】紀伊国和歌山城 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、和歌山県和歌山市にある和歌山城を訪れました。天正13(1585)年、豊臣秀吉の弟である豊臣秀長が築城し、翌年、秀長の家臣である桑山重晴が城代となりました。関ヶ原の合戦後、浅野幸長が37万6千石で紀州に配され、和歌山城の改修を行いました。元和5(1619)年、浅野氏が広島に転封になると、徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、徳川御三家の一つの紀州徳川家となりました。明治の後も天守等は残っていましたが、太平洋戦争の和歌山大空襲により、天守等が焼失しました。昭和33(1958)年、天守群が鉄筋コンクリートで再建されました。お城→mylist/37297571
45:04|2023年05月25日 21:19:02 投稿
【八咫烏】紀伊国雑賀城 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、和歌山県和歌山市にある雑賀城(さいかじょう)址を訪れました。築城時期等は不明ですが、戦国時代に雑賀党・鈴木氏の鈴木重意(鈴木佐太夫)が居城としていたと伝わります。妙見山を利用した山城ですが、曲輪となりそうな平坦地は、南の妙見堂、消防望楼の周辺、望楼から西にある平場、城山の西端の平場くらいで、はっきりと城の遺構と分かるものもありませんでした。城としての造りも謎が多いですが、雑賀党の鈴木氏も謎の多い集団なので、雑賀党らしい城なのかなと妙に納得しました。個人的には小学生の時に鈴木佐太夫と雑賀城を知って以来、ずっと来たかった城の一つなので、一つの夢が叶い。とても幸せな訪城になりました。お城→mylist/37297571
12:07|2023年05月19日 18:00:00 投稿
【太田左近】紀伊国太田城 令和5年(2023) 初夏
2023年の5月初旬、和歌山県和歌山市にある太田城址を訪れました。築城時期等は不明ですが、戦国時代には、雑賀衆の一人である太田左近宗正が城主でした。天正13(1585)年の第二次太田城の戦いでは、羽柴秀吉の紀伊征伐軍との戦いで水攻めを受け、1ヶ月の籠城の末、開城しました。現在、主郭跡と伝わる辺りは来迎寺が建っており、和歌山駅から近いので開発により遺構は残っていませんが、太田城から北東に500m程離れた出水地域に羽柴軍が水攻めの為に築いた堤の跡が残っています。お城→mylist/37297571
8:24|2023年05月12日 17:47:18 投稿
【藤左衛門】尾張国小田井城 令和元年(2019) 仲秋
2019年の9月中旬、愛知県清須市にある小田井城址を訪れました。築城時期は応永年間(1394 - 1428)で、尾張国守護代「織田大和守家」当主の織田敏定が清洲城の支城として築城したと伝わります。その弟とされる「織田藤左衛門家」当主の織田常寛が城主となります。以来、「織田藤左衛門家」の居城として子孫の織田寛故、織田信張、織田信直らが城主となりますが、天正12(1584)年頃、織田忠辰が羽柴秀吉によって追われ廃城になったとされます。現在、城があったとされる古城交差点付近は開発の為、遺構は消滅し、交差点付近にあった城址碑が城址から東にある城跡公園に移設されています。お城→mylist/37297571
3:20|2023年04月26日 20:26:02 投稿
【却敵】美濃国加治田城 令和5年(2023) 晩春
2023年の4月初旬、岐阜県加茂郡富加町にある加治田城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、戦国時代には斎藤氏の家臣である佐藤忠能(さとうただよし)が城主でした。織田信長の美濃侵攻に対抗する為、関城の長井道利、堂洞城の岸信周と盟約を結びますが、佐藤忠能は織田方に内応し、長井軍らの斎藤方に攻められますが、城を守ったと伝わります。公民館の東の大手道の登城道の民家付近の入口は、35°29'37.9"N 136°59'34.3"E 城主館跡(5:24) → 大手道入口(7:06) → 大手曲輪(11:02) → 主郭(15:52) → 龍福寺(27:04) → 富加町郷土資料館(30:53) おまけのビデオパート 加治田城遠景(33:24) → 主郭(34:02)お城→mylist/37297571
36:06|2023年04月14日 18:00:00 投稿
【岸勘解由】美濃国堂洞城 令和5年(2023) 晩春
2023年の4月初旬、岐阜県加茂郡富加町にある堂洞城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、戦国時代には斎藤氏の家臣である岸信周(きしのぶちか)が城主でした。織田信長の美濃侵攻に対抗する為、関城の長井道利、却敵城の佐藤忠能と盟約を結びますが、佐藤忠能が織田方に内応し、佐藤・織田両軍に攻められ城は落城し、岸信周や一族、城兵も多く討死にしました。お城→mylist/37297571
18:11|2023年04月07日 20:07:02 投稿
【山中八幡】三河国山中城 令和5年(2023) 仲春
2023年の3月中旬、愛知県岡崎市にある山中城址を訪れました。15世紀半ばに、三河国の守護代である西郷氏が築城したとされ、大永4(1524)年、松平清康の命を受けた、家臣・大久保忠茂等の奇襲で一夜にして落城しますが、森山崩れで清康が亡くなると、今川氏が領有し、桶狭間の合戦で、今川義元が討死にすると、徳川氏が領有し、1564(永禄7)年、以後は酒井忠次が山中を領し、酒井氏が維持管理したと思われます。徳川氏の関東移封後に廃城になったと考えられます。標高約195m(比高約100m)の山に築かれ、北の鎌倉街道、南の吉良街道を抑える山城で、曲輪等の遺構が良好に残り、愛知県内でも最大級の戦国時代の山城と言われています。地元の方が綺麗に整備してくれているので、スニーカーで登山が可能です。名電山中駅(0:30) → 東部市民センター(0:47) → 舞木口(3:10) → 東郭(8:49) → 二の郭・主郭(9:28) → 北東尾根の郭(13:57) → 八幡口(15:42) → 山中八幡宮(16:15) の順に散策しています。紙芝居じゃにゃー、ビデオパートは主郭のみ(19:42)お城→mylist/37297571
21:03|2023年03月31日 15:00:42 投稿
【天正九年】遠江国高天神城 令和5年(2023) 仲春
2023年の3月中旬、静岡県掛川市にある高天神城を訪れました。築城年代等ははっきりしませんが、戦国時代には今川氏に服属した小笠原氏が城主を務めていました。今川氏滅亡後、小笠原氏は徳川氏の家臣となりますが、天正2(1574)年、武田勝頼の攻撃により、小笠原氏は降伏し、そのまま武田氏の家臣となりました。天正9(1581)年、徳川家康は武田方の岡部元信が守備する高天神城の周囲に砦を築き、兵糧攻めをして、城方は城主・岡部元信以下一斉突撃をかけ、討死に落城しました。徳川氏と武田氏の壮絶な遠江覇権の攻防の場となりましたが、徳川氏が遠江を掌握後は廃城になったと考えられます。標高130m程の鶴翁山(かくおうざん)に築かれた山城で、元々の主郭想定地である東の山と、武田氏の改修と考えられる西の山の二つの山からなる一城別郭の城でした。特に西の山は技巧的な防御造りの遺構が残っており(土塁・堀・堀切等)、とても見所のある城となっています。お城→mylist/37297571
40:04|2023年03月24日 18:00:00 投稿
【埋もれゆく古城】尾張国宮後城 令和5年(2023) 晩冬
2023年の1月下旬、愛知県江南市にある宮後城址を訪れました。築城年は不明ですが、応永年間(1394 - 1428)頃に安井氏が居城していたとされます。戦国時代には、安井重幸の息子・安井重継が居城しており、重継の姉・安井御前は、夫・蜂須賀正利とともに居城していた蜂須賀城が織田信秀との対立により土地を奪われてしまったため、長男の蜂須賀正勝とともに宮後城へ移り住んだと伝わります。正勝の長男・蜂須賀家政(後の阿波徳島藩祖)は、この地で生まれたとされます。城の中心と想定される所は空き地となっていましたが、訪問時に発掘調査をしており、案内看板等は撤去されていました。江南市に問い合わせると令和5年中に宮後八幡者に新しい案内看板を設置するとのことで、空き地は分譲住宅地になる予定とのことでした。宮後城址 → 宮後八幡社と訪れた後に、近くの井出神社やしみず公園等も散策しています。お城→mylist/37297571
16:54|2023年02月17日 18:00:00 投稿
【将右衛門】尾張国前野屋敷跡 令和5年(2023) 晩冬
2023年の1月下旬、愛知県江南市にある前野屋敷跡を訪れました。戦国時代に豊臣秀吉に仕えた前野長康で有名な前野氏の本拠で、平安時代後期・鎌倉時代初期の1200年頃に前野高長(良岑高長)がこの地を前野郷と称したと伝わります。前野氏は岩倉織田氏の家老を務めた家柄でもあり、近隣豪族の生駒氏・蜂須賀氏・安井氏・坪内氏等と姻戚関係を持ち、地域の開発・発展に貢献したと伝わります。現在、前野屋敷跡は前野家の子孫の吉田家の屋敷となっており、ここの蔵から「武功夜話」が発見されました。前野屋敷跡の後に、前野天満社、前野氏の菩提寺である観音寺を訪れています。お城→mylist/37297571
9:59|2023年02月10日 18:00:00 投稿
【竹腰摂津守】尾張国柳津城 令和5年(2023) 晩冬
2023年の1月上旬、岐阜県岐阜市にある柳津城址を訪れました。築城時期は文亀年間(1501年頃)と伝わり、城主の竹腰摂津守(竹腰道鎮)は斎藤氏に仕えていましたが、弘治2(1556)年の長良川の戦いで、斎藤義龍の先陣として出陣し討死にしました。城主は叔父の成吉摂津守尚光に代わりますが、尚光(のちに竹腰尚光に改名)も斎藤氏に仕えたそうです。往時は城の北に船着き場があり、直接、境川に出られたようです。戦国時代、柳津城は尾張国でしたが、天正13(1585)年、木曽川の洪水により境川(古木曽川)の流れが変わり、豊臣秀吉により柳津城の一帯は美濃国に編入されました。現在、城址は光澤寺となっており、遺構は確認できませんが、城址碑や縄張り図や案内看板があります。お城→mylist/37297571
3:53|2023年02月03日 18:00:00 投稿
【釘貫き】尾張国奥田城 令和5年(2023) 晩冬
2023年の1月上旬、愛知県稲沢市にある奥田城址を訪れました。応永年間(1394~1428)頃に斯波氏(奥田氏)によって築城されたと伝わります。戦国時代には、織田信長の一族である織田(飯尾)定宗が城主でしたが、城主・飯尾定宗は桶狭間の合戦で鷲津砦を守備し、今川軍の攻撃を受け砦は落城。討死にしました。定宗の死後は、子の重宗が継いだようですが、加賀国に移った後、廃城となったようです。現在、城の遺構はなく、堀畑神社辺りが城の跡地と伝わりますが、大門町や堀畑、馬場町等の地名に城の名残を感じることができます。また、城主の斯波(奥田)氏種の子孫が堀(奥田)直政と伝わり、越後村上藩堀氏に所縁のある地でもあるようです。親戚の野瀬氏の初代・右近である野瀬氏吉はここ奥田村から奉公に出たと野瀬家の家伝に伝わっているので、親戚に所縁のある所を訪れることができました。お城→mylist/37297571
8:29|2023年01月13日 21:05:03 投稿
【服部党】尾張国荷之上城(服部家住宅) 令和4年(2022) 初冬
2022年の11月中旬、愛知県弥富市にある荷之上城(にのうえじょう)跡を訪れました。築城年代等は不明ですが、服部氏の居城と伝わります。永禄3(1560)年、城主・服部友貞は桶狭間の合戦では今川方に属し、織田信長と交戦しました。永禄11(1568)年、友貞は北畠具教に年賀の挨拶をするために霧山城へと登城する最中に、織田軍の刺客に囲まれ伊勢国米野の陰涼庵で自害に追い込まれたと伝わります。長島の一向一揆では、服部党は一揆側に参加し、織田軍によって荷之上城周辺は荒廃し、一族は離散したようです。天正4(1576)年、一族の服部正友が荷之上城跡に居を構え、江戸時代には代々・庄屋を務める家柄だったようです。第四代当主・服部定元は尾張徳川家から、八代藩主の徳川宗勝の養育をここで行ったと伝わります。現在、城址は服部家住宅となっており、天正の頃より服部氏の子孫の方が住み続けています。服部家住宅はその貴重さから重要文化財に指定され、通常は非公開ですが、年に数度公開しており、今回は秋の特別公開(要予約)に予約して住宅の中へ入らせて頂きました。住宅の内部の撮影は禁止ですが、天正の頃より存在し続けている住宅と思うととても感慨深い思いがありました。はっきり言って「最高」です。住宅の北側の水路は城の堀跡の遺構と伝わるそうです。お城→mylist/37297571
14:59|2022年11月26日 11:41:02 投稿
【丸山】三河国不相城 令和4年(2022) 晩秋
2022年の10月下旬、愛知県蒲郡市にある不相城(ふそうじょう)を訪れました。築城年代等は不明ですが、鵜殿氏の一族である不相鵜殿氏の居城と伝わります。桶狭間の合戦後の松平氏と今川氏の争いで上ノ郷城の鵜殿家本家と不相鵜殿氏は今川方となりますが、下ノ郷城や柏原城の同族は松平氏に付きました。上ノ郷城が落城後、不相鵜殿氏の鵜殿長成は今川方の吉田城へ退却したようです。現在、城址は蒲郡クラシックホテルが建っていますが、西の庭園にある池等は古城図にある堀の可能性もありそうです。比高30m程の丘の上にあるので、すぐ南の三河湾が一望できる城だったと思われます。お城→mylist/37297571
6:52|2022年11月18日 09:43:07 投稿
【長存】三河国下ノ郷城(蒲形陣屋) 令和4年(2022) 晩秋
2022年の10月下旬、愛知県蒲郡市にある下ノ郷城(しものごうじょう)を訪れました。永正年間(1504年〜1521年)に鵜殿長存によって築かれたと伝わり、戦国時代には今川氏の家臣である鵜殿(うどの)氏の一族である下ノ郷鵜殿氏が城主だったようです。桶狭間の合戦後の松平氏と今川氏の争いで上ノ郷城の鵜殿家本家は今川方となりますが、下ノ郷城や柏原城の同族は松平氏に付きました。天正18(1590)年の徳川氏の関東移封に伴い、下ノ郷鵜殿氏の鵜殿長龍も下総国相馬に移封となりました。慶長17(1612)年、松平清昌(まつだいら きよまさ)が5千石で当地に封じられ、下ノ郷城跡の近くに蒲形(かまがた)陣屋を築き、幕末まで竹谷松平家が領していました。現在、城址は蒲郡高校の辺りと言われており、高校の南の神社近くに土塁も現存していますが、陣屋跡の土塁と想定されているようです。陣屋の門も蒲郡市博物館に移築されています。お城→mylist/37297571
8:56|2022年11月12日 14:34:02 投稿
【藤太郎】三河国上ノ郷城 令和4年(2022) 晩秋
2022年の10月下旬、愛知県蒲郡市にある上ノ郷城(かみのごうじょう)を訪れました。築城年代等は不明のようですが、戦国時代には今川氏の家臣である鵜殿(うどの)氏が城主で、蒲郡一帯を領していたようです。桶狭間の合戦後の松平氏と今川氏の争いで上ノ郷城の鵜殿家本家は今川方となりますが、下ノ郷城や柏原城の同族は松平氏に付きました。永禄5(1562)年に松平元康の攻撃により、落城し、城主・鵜殿長照は討死にしたと伝わります。現在、城址はミカン畑となっていますが、土塁等の遺構は残っており、中世城郭であった名残は感じることができます。城の北から東・南と川が流れて堀の役割をしていたとされ、古城図では西側も堀があり、城の周囲を堀で守っていたようで、主郭からは蒲郡の街と三河湾まで見通すことができるので守りやすく攻め難い城であったと思います。お城→mylist/37297571
19:29|2022年11月05日 10:45:02 投稿
【金吾】美濃国松尾山城 令和4年(2022) 晩秋
2022年の10月中旬、岐阜県不破郡関ヶ原町にある松尾山城を訪れました。応永年間(1394~1428)に富島氏が築城したと伝わり、戦国時代には織田信長や浅井長政が領し、天正元年(1773)には信長が不破光治を警護に当たらせました。慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では、大垣城主・伊藤盛正が入り、西軍総大将の毛利輝元を迎える為に整備したようですが、小早川秀秋が伊藤盛正を追い出し陣を構えました。標高293mの山城ですが、比高は190m程で良く整備されているのでスニーカーでの登山でも大丈夫です。関ヶ原駅から松尾山登山口まで徒歩約30分。登山口から主郭まで徒歩約30分程です。松尾山登山口(5:38) → 山之神神社(8:35) → 主郭跡(11:53)おまけのビデオパート城下の風景(18:48) → 山之神神社の先の土橋と堀(19:25) → 主郭からの眺め(20:13) → 主郭の桝形虎口(23:00) → 主郭跡(23:57)美濃の蝮さんから「小早川の松尾山」のリクエスト頂いていたのですが、リクエストもらってから半年くらい経ってしまってすいません。個人的に好きな小早川秀秋公の動画を紹介 → https://www.nicovideo.jp/watch/sm575994お城→mylist/37297571
25:09|2022年10月27日 23:05:03 投稿
【亀城】三河国刈谷城 令和4年(2022) 仲秋
2022年の9月上旬、愛知県刈谷市にある刈谷城を訪れました。天文2(1533)年、水野忠政により築城されたとされ、徳川家康の生母・於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁しています。桶狭間の合戦後、今川氏の家臣で鳴海城主・岡部元信が撤退途中で刈屋城を攻め、城主・水野信近を討ち取りました。その後、織田信長の家臣・佐久間信盛が領有したもののまた水野氏の領地となり、江戸時代には水野勝成が刈谷藩の初代藩主となりました。以後、深溝松平家、久松松平家、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏、土井氏が入封し、明治を迎えました。 現在、城址は亀城公園として整備され、本丸と水堀の一部が残っており、以下の手順で散策しています。城の中心部だけ見たい方は22:40辺りから、写真の紙芝居じゃなく動画じゃないとやだ!て方は31:52からご覧ください。 刈谷市駅(0:56) → 十念寺(藩主・土井氏菩提寺)(1:24) → 椎の木屋敷跡(於大の方屋敷跡)(5:16) → 刈谷城・町口門跡(7:48) → 刈谷城・大手門跡(9:25) → 刈谷郷土資料館(10:35) → 刈谷城・主要部(22:40) → おまけの動画(31:52)お城→mylist/37297571
37:39|2022年10月08日 12:23:02 投稿
【池鯉鮒】三河国知立城 令和4年(2022) 仲秋
2022年の9月上旬、愛知県知立市の知立城跡を訪れました。築城年代等は不明ですが、知立神社の神官でもある永見氏の居城だったようで、桶狭間の合戦の後に、織田方の水野氏に接収されたようです。永見氏には、徳川家康の側室となり、結城秀康を産んだ長勝院(於万の方)がいます。江戸時代には東海道の39番目の宿場町池鯉鮒(ちりゅう)宿として整備され、城址には将軍上洛時の宿泊御殿が建てられました。現在、城址は公園となっており、遺構はありませんが、城址碑や目の前を通る東海道等に往時の様子を偲ぶことができます。また、城址の近くに知立名物の大あんまきの小松屋本家がありお勧めです。お城→mylist/37297571
9:22|2022年09月16日 18:10:03 投稿
【勘三郎】尾張国上社城 令和4年(2022) 初秋
2022年の8月中旬、愛知県名古屋市の上社城跡を訪れました。築城年代等は不明ですが、加藤勘三郎という人物が城主と伝わります。勘三郎は城主の世襲名だったようで、15世紀に高針城に移った勘三郎や、1582年の本能寺の変で二条城で死亡した主君・織田信忠を探して京に上り行方不明になった勘三郎等も伝わっているようです。城の場所もはっきりと分かっていないようですが、観音寺から上社公園の辺りにあったと推測されているようで、観音寺も上社公園もどちらも訪れましたが、確かに城だったと思われるような地形をしていました。お城→mylist/37297571
5:19|2022年08月27日 09:22:03 投稿
【権六】尾張国下社城 令和4年(2022) 初秋
2022年の8月中旬、愛知県名古屋市の下社城址を訪れました。築城年代等は不明ですが、織田信長の重臣だった柴田勝家の先祖が築城した城と伝わり、柴田勝家もこの城で誕生したと伝わります。台地の西端に位置した城で、城から北、西、南の三方を一望することができます。西側には植田川が流れているので、西からの敵に非常に有効な城と感じました。東側はおそらく台地でつながっているようですが、南東方面も見ることが可能なので、桶狭間の戦いの際にも有効に機能した城の一つだったのではないかと思います(敵方の監視という役目で)。お城→mylist/37297571
13:21|2022年08月20日 21:14:03 投稿
【温古】尾張国名古屋城西北隅櫓編 令和元年(2019) 初冬
2019年の11月上旬、愛知県名古屋市にある名古屋城を訪れました。今回は御深井丸(おふけまる)にある西北隅櫓を堀の外から眺めたり、限定公開されている内部も見学しています。西北隅櫓(戌亥櫓)は、元和5年(1619)、尾張徳川家の大工頭・沢田庄左衛門が建てたものと伝わり、現存する三階櫓の中では、熊本城の宇土櫓に次いで全国に2番目に大きいと言われています。今回は御深井丸(おふけまる)にある西北隅櫓を堀の外から眺めたり、限定公開されている内部も見学しています。 お城 → mylist/37297571
14:32|2022年08月05日 18:00:00 投稿
【麝香猫】尾張国名古屋城西南隅櫓編 令和元年(2019) 初冬
2019年の11月上旬、愛知県名古屋市にある名古屋城を訪れました。今回は本丸にある西南隅櫓と本丸御殿で期間限定公開中だった「麝香猫図(じゃこうねこず)」を見学しました。 お城 → mylist/37297571
10:57|2022年07月30日 20:01:03 投稿
【蛍】尾張国名古屋城外堀編 令和元年(2019) 初冬
2019年の11月上旬、愛知県名古屋市にある名古屋城を訪れました。今回は三の丸の外側の外堀沿いに散策しています。 お城 → mylist/37297571
17:53|2022年07月22日 20:20:03 投稿
【雲龍】尾張国日置城 平成31年(2019) 晩春
2019年の4月中旬、愛知県名古屋市にある日置城跡を訪れました。築城年・築城者のいずれも不明で、城主も織田寛定(尾張守護代・織田敏定の嫡男)と織田忠寛(尾張楽田城主・織田寛貞の子)の2説があるようです。弘法大師御手植えとされ、樹齢1000年以上とも言われる樹高20メートル、幹周り7メートルの大楠があり、織田信長が桶狭間の戦いの前に出陣に際してこの大樹に戦勝祈願をしたとも伝わるようですが、近在の日置神社の話と混ざっている可能性もあるようです。堀川東岸の熱田台地の縁に位置しており、台地と濃尾平野の高低差を活かした城だったようですが、現在、遺構等は残っていないようです。日置城跡の他に、近くを流れる堀川を開削したと伝わる福島正則の銅像や、日置城に近い日置神社も訪れています。 お城 → mylist/37297571
3:41|2022年07月16日 20:30:02 投稿
【堀水抜】豊前国小倉城 平成30年(2018) 仲春
2018年の3月中旬。福岡県北九州市の小倉城を訪れました。九州への上陸地点であり、陸海交通の要衝である小倉城は、鎌倉時代に築城されたと伝わりますが、資料に登場するのは、永禄年間(1558-1570)に毛利氏が小倉津の平城に南条勘兵衛を在城させたことが宗像大社の記録に残っています。後に高橋鑑種(あきたね)が入城し、豊臣秀吉の九州征伐後は、毛利勝信が入城しました。関ヶ原後は細川忠興が39万9千石で入り、細川氏の肥後転封後は、小笠原氏が15万石で入城し、幕末までの230年間、小笠原氏の居城となりましたが、慶応2年(1866)長州藩との戦いで自焼しました。現在の天守は1959年に再建された復興天守です。今回の訪城時、堀の水を抜いており、貴重な状態を見ることができたので動画にしてみました。同行者がおり、散策範囲は狭いので詳しく見たい方はちょっと古いですが、以前投稿した小倉城の動画を参照して頂ければと思います。2013年の小倉城 → sm23369646お城→mylist/37297571
9:02|2022年06月26日 21:48:03 投稿
【三十六見附】武蔵国江戸城日比谷見附 平成30年(2018) 仲冬
2018年の12月初旬、東京都千代田区にある江戸城の日比谷見附址を訪れました。三十六見附と呼ばれる江戸城の城門の一つで、江戸城の外郭城門の一つでした。日比谷見附の近くには仙台藩の屋敷跡があり、伊達政宗の終焉の地でもあります。日比谷公園に石垣が残っており、堀も心字池として利用されています。公園になっているのでゆっくり散策できました。お城→mylist/37297571
6:33|2022年06月18日 19:40:02 投稿
【三十六見附】武蔵国江戸城牛込見附 平成30年(2018) 仲冬
2018年の12月初旬、東京都千代田区にある江戸城の牛込見附址を訪れました。寛永13(1636)年に、阿波徳島藩主・蜂須賀忠英によって築かれました。三十六見附と呼ばれる江戸城の城門の一つで、田安門を起点とする「上州道」の出口でもありました。江戸城外堀跡の見附の中でも、最も良く当時の面影を残しているそうです。通行人が多いので、写真や動画を撮りたい方は夏場の早朝に訪れることをお勧めします。お城→mylist/37297571
7:40|2022年06月10日 20:23:02 投稿
【矢場】尾張国小林城 平成30年(2018) 初冬
2018年の11月中旬、愛知県名古屋市にある小林城跡を訪れました。天文17(1548)年、織田信秀の家臣である牧長義(まきながよし)が築城したとされ、その子、長清(ながきよ)も前津小林四千石の居城としていました。長清は織田信長の妹である「おとくの方」を妻とし、夫人は小林殿と呼ばれていたそうです。織田氏とのつながりも深い小林城ですが、長清の死後に廃城になったと考えられるようです。江戸時代には尾張藩の剣術師範を務めた柳生兵庫(利厳)の屋敷となり、その後、清浄寺(しょうじょうじ)が建てられました。地下鉄や百貨店や大須がすぐ近くにある繁華街の真っ只中にある城跡なので、遺構らしいものは見られませんが、東側は車道より高くなっており、城跡らしさを実感することができます。また、城主の牧氏の墓も清浄寺の境内にあります。小林城跡の散策後、近くにある政秀寺(織田信長が家臣の平手政秀を弔う為に建立した寺)と三輪神社の尾張徳川家の矢場跡も訪れています。お城→mylist/37297571
6:32|2022年06月04日 20:22:02 投稿
【地黄八幡】相模国玉縄城 令和4年(2022) 初夏
2022年の5月中旬、神奈川県鎌倉市にある玉縄城址を訪れました。永正9(1512)年に北条早雲(伊勢盛時)により築かれたとされ、城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出すことが可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となり、鎌倉に近いことから鎌倉を防衛する城でもありました。後北条氏一門の重要人物が城主として置かれ、3代城主である北条綱成は「地黄八幡(じきはちまん)」と呼ばれ、不敗の闘将とも言われる名将でした。その後、氏繁・氏勝と続きますが、小田原征伐にて、北条氏勝は徳川家康に開城し、江戸時代の一国一城令により廃城となりました。城の東西に川が流れ、玉縄城の周囲には標高60m前後の丘が土塁のように乱立し、二伝寺砦や長尾砦等の砦もあり、非常に攻め難い地形に築かれた城でした。主郭は清泉女子学院中学高等学校の敷地となっていますが、事前に予約すれば、校内に残る遺構を見学することが可能です。お城→mylist/37297571
29:34|2022年05月31日 20:48:02 投稿
【蜂蝶】越前国敦賀城 令和4年(2022) 晩春
2022年の4月中旬、福井県敦賀市にある敦賀城跡を訪れました。天正11(1583)年、羽柴秀吉の家臣だった蜂屋頼隆が敦賀の地に入り三層の天守を持つ敦賀城を築城しました。蜂屋頼隆には子がなく断絶となり、代わりに大谷吉継が5万石の城主として敦賀城に入城しました。関ヶ原の合戦で大谷吉継が戦死し敦賀城も没収となり、元和2(1616)年に一国一城令により、敦賀城は破却されました。江戸時代には城跡に敦賀の代官が置かれたようですが、現在、城の遺構はほとんど見られません。城跡の北西の真願寺に城跡碑と城の礎石があります。お城→mylist/37297571
6:16|2022年04月29日 17:28:02 投稿
【金ヶ崎崩れ】越前国天筒山城 令和4年(2022) 晩春
2022年の4月中旬、福井県敦賀市にある手筒山城跡を訪れました。築城時期等は分かりませんが、 治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのために金ヶ崎城を築いた時に築城されたものと思われます。南北朝時代の新田氏と足利氏の戦いがあり、戦国時代は朝倉氏の城でしたが、織田信長の越前侵攻に より落城しました。敦賀湾の東の標高171mの手筒山に築かれた山城で、曲輪跡や堀切の跡等を確認することができます。山頂からは金ヶ崎城や敦賀湾・敦賀の街を一望でき、水の手があれば、敦賀を抑えるのは金ヶ崎城ではなく、この山城だと実感しました。お城→mylist/37297571
18:20|2022年04月28日 18:15:00 投稿
【金ヶ崎崩れ】越前国金ヶ崎城 令和4年(2022) 晩春
2022年の4月中旬、福井県敦賀市にある金ヶ崎城跡を訪れました。 治承・寿永の乱(源平合戦)の時、平通盛が木曾義仲との戦いのためにここに城を築いたのが始まりと伝えられます。 延元元年(1336)、足利尊氏の入京により恒良親王、尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞が入城も、翌年の3月3日、足利方が城内に攻め込み、兵糧攻めによる飢餓と疲労で城兵は次々と討ち取られ、尊良親王(たかよししんのう)、新田義顕(にったよしあき・義貞嫡男)、城兵300名は城に火を放ち自害、恒良親王(つねよししんのう)は捕縛され、3月6日、落城しました。 戦国時代には、朝倉氏一族の朝倉景恒(あさくらかげつね)が城主でしたが、織田信長の越前侵攻に開城しました。その直後、近江の浅井長政が朝倉に助力することになり、織田信長は近江朽木を通り撤退しました。 敦賀湾に突き出した海抜86mの小高い丘(金ヶ崎山)に築かれた山城で、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪、堀切などが残り、1934年には国の史跡に指定されています。お城→mylist/37297571
18:34|2022年04月23日 11:15:02 投稿
【今孔明】美濃国菩提山城 令和4年(2022) 仲春
2022年の3月下旬、岐阜県不破郡垂井町にある菩提山城跡を訪れました。永禄2(1559)年、前年に 岩手弾正を滅ぼた竹中重元が菩提山に菩提山城を再構築しました。永禄3(1560)年、重元が病没し、子の重治(半兵衛)が家督を継ぎ城主となります。天正7(1579)年、 重治が播磨三木城攻め(三木合戦)の陣中にて病没し、子の重門が家督を継ぎ城主となりましたが、慶長5(1600)年、重門は関ヶ原の戦いにて東軍につき、徳川家康に菩提山城を提供し、戦後は麓の竹中氏陣屋に居を移し、菩提山城は廃城となりました。関ヶ原の古戦場の北東に位置し、標高402mの菩提山の山頂に主郭等が構築されました。土塁や竪堀、曲輪も良好に残っており、本曲輪からは名古屋や岐阜の街まで一望できます。お城→mylist/37297571
18:51|2022年04月16日 09:20:02 投稿
【岩手】美濃国竹中陣屋 令和4年(2022) 仲春
2022年の3月下旬、岐阜県不破郡垂井町の竹中陣屋跡を訪れました。天正16(1588)年、竹中半兵衛の息子である竹中重門が菩提山城の山麓に岩手城を築きますが、江戸時代になり、竹中氏は不破郡岩手6000石の旗本となり城持ちとなることができなかったので、城は陣屋と呼ばれることになりましたが、幕末まで竹中氏が代々領主となりました。陣屋とはいえ、水堀の一部と石垣が残り、また櫓門も現存しており、見所の多い貴重な陣屋となっています。動画の後半では、竹中半兵衛が松寿丸(後の黒田長政)を匿った伝説を伝える五明稲荷神社と、竹中氏の前の領主である岩手氏の館跡も訪れています。お城→mylist/37297571
8:13|2022年04月08日 20:28:02 投稿
【名のために】美濃国垂井城 令和4年(2022) 仲春
2022年の3月下旬、岐阜県不破郡垂井町の垂井城跡を訪れました。築城年代等ははっきりしていませんが、今須領主(鎌倉氏族)長江氏の一族の長屋景頼が、垂井の領主になってから築かれたとされています。天文年間に長屋景興が相羽城に居を移したが、1547年(天文16年)に斎藤道三の侵攻により相羽城で景興が戦死し、長屋氏は没落。この時に垂井城も廃城もしくは機能が大きく損われたとされているようです。その後、1600年(慶長5年)に平塚為広が垂井領1万2千石で入封すると、垂井城を居城として整備拡張したと思われるが、同年の関ヶ原の戦いで為広が討死したため廃城となりました。遺構は分かりませんが、専精寺境内が城跡と推定されており、城跡碑と城主・平塚為広公の句碑が建っています。動画の後半では、足利尊氏に所縁のある長屋氏屋敷跡も訪問しています。お城→mylist/37297571
7:01|2022年04月01日 21:06:02 投稿
【豊場】尾張国溝口城 令和4年(2022) 初春
2022年の2月上旬、愛知県西春日井郡豊山町にある溝口城跡を訪れました。 築城年代等ははっきりしていませんが、天正初期(1573年頃)に溝口氏の一族である溝口富之助が築城したとされているようです。遺構はなく、城跡碑等もありませんが、濃尾平野に築かれた平城だったと思われます。城跡の訪問後、近くにある八所神社と溝口氏の菩提寺である常安寺にも寄っています。城跡は30秒くらいでほとんど周囲の散策となっていますが、八所神社は伊藤萬蔵氏寄贈の石碑等があり特におすすめです。今回は新型ウィルス流行中の影響もあり、自宅の近くの城跡を自転車で巡っています。お城→mylist/37297571
8:52|2022年03月25日 19:59:03 投稿
【功嶽】尾張国如意城 令和4年(2022) 初春
2022年の2月上旬、愛知県名古屋市にある如意城(にょいじょう)跡を訪れました。 築城年代等はっきりしていないようですが、明徳年間(1390〜1394)頃に南朝方の越中・木舟城の石黒重行が敗れて当地に来て、長谷川氏と名乗り、斯波氏に仕えて館を構えたのが城の始まりのようです。戦国時代には子孫の石黒重成が天正12(1584)年の小牧・長久手の戦いで織田信雄・徳川家康連合軍に加わり、小牧より先陣を率いて、旗を藤山に建て、武功をあげたと伝わります。城跡は瑞應寺の北東一帯にあったされ、その辺りに石黒氏が後に名乗った姓の豪邸があったので、城跡がそのまま子孫の方のお宅になっているのかもしれません。今回は新型ウィルス流行中の影響もあり、自宅の近くの城跡を自転車で巡っています。お城→mylist/37297571
5:23|2022年03月19日 20:18:02 投稿
【鉄鉢袋】尾張国比良城 令和4年(2022) 初春
2022年の2月上旬、愛知県名古屋市にある比良城跡を訪れました。 天文年間(1532 - 1555)に織田信長の家臣の佐々成政の父である佐々成宗によって築かれたとされ、天正3(1575)年に成宗の子、成政が越前府中に在城を命ぜられた際、廃城になったと考えられています。現在の光通寺一帯が城跡で、東西75メートル、南北80メートルの規模であったと伝わります。動画の始めには、比良城の近くにある織田信長が大蛇を探した逸話で有名な蛇池にも立ち寄っています。今回は新型ウィルス流行中の影響もあり、自宅の近くの城跡を自転車で巡っています。お城→mylist/37297571
5:20|2022年03月12日 13:28:02 投稿
【塙直政】尾張国大野木城 令和4年(2022) 初春
2022年の2月上旬、愛知県名古屋市にある大野木跡を訪れました。 築城年代等は不明ですが、織田信長の家臣の塙直政(ばんなおまさ)の城でした。塙直政は織田信長の畿内進出で畿内3ヶ国に支配圏を持ち、九州の名族の原田姓を信長から与えられる等、有力な武将でしたが、天正4年(1576年)、石山本願寺との合戦で討ち死にしました。庄内川の近くにあった平城だったようで、遺構は残っていませんが、城跡は福昌寺(ふくしょうじ)となっており、塙団右衛門の生母の墓があります。今回は新型ウィルス流行中の影響もあり、自宅の近くの城跡を自転車で巡っています。お城→mylist/37297571
4:35|2022年03月05日 11:58:03 投稿
【蜀魂】尾張国九之坪城 令和4年(2022) 初春
2022年の2月上旬、愛知県北名古屋市にある九之坪城跡を訪れました。 築城年代等は不明ですが、織田信長の家臣で、桶狭間の戦いで今川義元の本陣の位置の情報を掴み、織田軍の勝利に貢献したとされる簗田政綱(やなだまさつな)の城と伝わります。周囲は濃尾平野の真っ只中の平地であり、平城だったと思われます。遺構はありませんが、北名古屋市 高齢者活動センターふれあいの家の前に城跡碑があり、西城屋敷という地区に地主の方の好意で盛土が残され城跡を示すように大きな石が置かれています。桶狭間の戦いでの勝利に大きく貢献した簗田政綱がこの辺り一帯を領して城館を構えていた場所と思うと感慨深いものがありました。また、南にある松元院には戦国時代に里村紹巴が訪れており、簗田政綱の息子(広正?)が紹巴をもてなし、紹巴が「蜀魂 声うへ渡す 門田かな」と歌を残しており、その歌碑がありました。今回は新型ウィルス流行中の影響もあり、自宅の近くの城跡を自転車で巡っています。お城→mylist/37297571
6:42|2022年02月25日 23:19:02 投稿
【織田筆頭家老】尾張国沖村城(林通勝邸跡) 令和4年(2022) 初春
2022年の2月上旬、愛知県北名古屋市にある沖村城跡(林通勝邸跡)を訪れました。 築城年代等は不明ですが、織田信長の筆頭家老だった林秀貞(林通勝)の館跡と伝わります。松林寺の西隣に林通勝邸跡の碑がありますが、城跡や館跡の遺構は残念ながら見当たりません。城跡は石碑の場所から北へ50m程の所だったとの情報や西等の情報もネット上にありましたが、詳細は不明です。周囲は濃尾平野の真っ只中の平地であり、平城だったと思われます。遺構はありませんが、林秀貞がこの辺り一帯を領して城館を構えていた場所と思うと感慨深いものがありました。また、松林寺の南には沖村の偉人である高田知文翁の像もあり(大正から昭和にかけて沖村から九之坪まで道を造った方だそうです)、沖村の歴史も知ることができました。今回は新型ウィルス流行中の影響もあり、自宅の近くの城跡を自転車で巡っています。お城→mylist/37297571
5:41|2022年02月19日 19:54:03 投稿
【副将軍】常陸国水戸城 令和4年(2022) 仲冬
2022年の1月上旬、茨城県水戸市にある水戸城跡を訪れました。 平安時代末期に馬場資幹が築いた馬場城が起源と考えられ、その後、江戸氏が城主となり、戦国時代末期には佐竹義宣が入城し、城名を水戸城に改めました。江戸時代には徳川御三家の一つの水戸徳川氏の居城となり、明治になり廃城しました。城は河岸段丘である水戸台地に築かれており、佐竹氏の前の居城である太田城との類似点も興味深いです。また、三の丸と二の丸、二の丸と本丸間の堀はもの凄く大きな規模です。2020年に大手門、2021年に二ノ丸南西角櫓が復元されていますが、今回は早朝の訪城となったので、角櫓への門は閉まっており訪問できませんでした。東日本大震災復興支援 2012Jリーグスペシャルマッチを鹿島スタジアムに見に行った時に、水戸城と偕楽園を訪れて以来、10年振りの訪城でした。震災で倒壊した学生警鐘や瓦等が復旧しており、大手門や角櫓が復元され、ますます見所の多くなった水戸城に大満足でした。2012年夏の水戸城 → sm21235924佐竹氏の前の居城・太田城 → sm39991397佐竹氏の次の居城・久保田城 → sm26949128お城→mylist/37297571
23:34|2022年02月10日 20:46:02 投稿
【坂東太郎】常陸国太田城 令和4年(2022) 仲冬
2022年の1月上旬、茨城県常陸太田市にある太田城跡を訪れました。 城の起源は明らかではありませんが、天仁2(1109)年に藤原通延(藤原秀郷の四世)が、下野国から太田郷に入り、太田大夫と称して築城したのが始まりであると伝わります。後に佐竹隆義が当時の太田城主・藤原通盛(通延の孫)を服属させたのち、通盛を小野台地(瑞竜中学校周辺)に移して「小野崎氏」を名乗らせ、自らが太田城に入りました。以降、佐竹氏代々の居城でしたが、戦国末期の当主・佐竹義宣が水戸城に本拠を移しました。その後、江戸幕府の一国一城令により廃城となりましたが、城の機能は一部残され「太田御殿」と呼ばれ、水戸藩の附家老の中山氏が管理していたようです。本郭は現在の太田小学校一帯。 二の郭は内堀町から若宮八幡宮一帯。 三の郭は栄町の大部分で北側が搦手とよばれている。 これらの郭は明治の初期に国から町の有志に払い下げられ、土塁をくずし堀を埋めて宅地や道路が造られたが、大正末期まで土塁や郭の一部が残っていたとのことですが、発掘調査により、江戸時代の古地図にはない大規模な堀跡等も発見されており、今後の調査によって縄張が大きく変わる可能性もある城です。常陸太田駅から、鯨ヶ丘・法然寺・若宮八幡宮・太田城・駒柵(帰願寺)・久昌寺・西山公園・三峯神社・梅照院と訪れています。城は鯨ヶ丘という南北に長い河岸段丘の上に築かれており、長野県の飯田城や後の佐竹氏の居城である水戸城との類似点も興味深かったです。佐竹氏の次の居城・水戸城 → sm21235924佐竹氏の次の次の居城・久保田城 → sm26949128お城→mylist/37297571
26:17|2022年02月04日 20:39:02 投稿
【奥州探題】陸奥国名生城 令和4年(2022) 仲冬
2022年の1月上旬、宮城県大崎市にある名生城(みょうじょう)跡を訪れました。 築城年代ははっきりしませんが、南北朝時代の1351頃に大崎家兼が築城したと伝わります。戦国時代には奥州探題の大崎義直や大崎義隆が居城としていました。天正18年(1590)、豊臣秀吉による奥州仕置で、秀吉家臣の木村吉清の城となりますが、葛西大崎一揆では一揆側が籠城し、蒲生氏郷が鎮圧し、伊達政宗を警戒してそのまま立て籠もった城としても知られています。その後、伊達氏の領地となりますが、その頃に廃城となったようです。現在、遺構は堀や土塁の跡等を見ることができますが、大崎城があった所に7世紀末頃から名生館官衙遺跡(みょうだてかんがいせき)があったと発掘調査で判明した為、名生館官衙遺跡が国指定史跡、名生城が市の史跡となっています。名生館官衙遺跡が国指定史跡になった理由は、この遺跡が多賀城より古い時代の官衙(古代の役所)であり、多賀城以北まで内国化が進んでいたことが明らかになったからです。お城→mylist/37297571
12:55|2022年01月28日 19:56:02 投稿
【大年寺山】陸奥国茂ヶ崎城 令和3年(2021) 仲冬
2021年の12月下旬、宮城県仙台市にある茂ヶ崎城(もがさきじょう)跡を訪れました。 築城時期は不明ですが、中世の時代に名取郡北方三十三郷の領主・粟野大膳が城主だったと伝わります。標高120m(比高約100m)の大年寺山に築かれた山城で、空堀や土塁等の遺構が残っています。江戸時代には、仙台伊達藩第4代当主・伊達綱村が大年寺を創建しました。現在、大年寺も麓の惣門と山頂に伊達家当主の墓があるだけで、大年寺山公園として整備されています。また、大年寺山の北の麓に宗禅寺があり、城主・粟野重国(大膳)公の供養塔があるそうです。粟野重国の平城の北目城跡 → sm39897518お城→mylist/37297571
9:30|2022年01月21日 18:00:36 投稿
【粟野大膳】陸奥国北目城 令和3年(2021) 仲冬
2021年の12月下旬、宮城県仙台市にある北目城跡を訪れました。 築城時期は不明ですが、江戸時代に書かれた「仙台領古城書上」などによると天正年間(16世紀後半)までは粟野重国の居城だったようですが、伊達政宗に敗れ、以後は伊達政宗の城として、関ヶ原の合戦に際し、上杉勢と対峙する拠点とされていたようです。城は東西約370m、南北約280mの平城で、平成4~5年の発掘調査によって、近世初期の複雑な構造の堀跡(幅10~14m、深さ2.5~3m)が発見され、障子堀もあったようです。現在、周囲は開発され確認できる遺構はほとんど残っていませんが、近くには7世紀後半に作られた官衙(昔の役所)の郡山遺跡もあり、そちらも紹介しており、郡山遺跡の方が内容が多いかもしれません・・・お城→mylist/37297571
5:15|2022年01月14日 20:25:03 投稿
【安桜山】美濃国関城 令和3年(2021) 仲冬
2021年の12月下旬、岐阜県関市にある関城跡を訪れました。 享禄元年(1528年)に長井長弘が築いたと伝えられる、標高152m(比高90m程)の山城です。永禄8年(1565年)、織田信長の美濃侵攻で加治田城主・佐藤忠能が織田方へ内通すると、関城主・長井道利は開城し退却しました。その後は特に城主は配置されなかったようで廃城になったと考えられます。山自体は岩肌が多く、攻めるのは難しいですが、井戸も確認できず曲輪跡と見られる所も大きくはなかったので長期の籠城には不向きだったのかもしれません。しかし、山頂近くに設けられた展望台からは東の尾根以外の三方を見渡すことができ、ちょうど比高が同じくらいの尾張の小牧山城のような印象を受けました。また、麓の大雲寺には弓で有名な戦国武将・大島光義(雲八)公の墓もあり、関の町が刃物が特産なので、刀剣等をたくさん見ることができました。アニメ・鬼滅の刃の主題歌を歌っているLiSAの出身地でもあります。お城→mylist/37297571
25:40|2022年01月06日 20:40:02 投稿
【長島一向一揆】伊勢国長島城 令和3年(2021) 初冬
2021年の11月下旬、三重県桑名市長島町にある長島城跡を訪れました。 寛元3年(1245)に藤原道家が館を築いたことが城の起源とされ、文明14年(1482)、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建されました。元亀元年(1570)、一向宗・願証寺の証意によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となりましたが、1571~1574年までの三度による織田信長の長島侵攻により、長島城は落城、一向宗も壊滅し、信長配下の滝川一益や織田信雄が城主となりました。江戸時代には菅沼氏が2万石で当地に封じられますが、元和7年(1621)、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となりました。慶安2年(1649)、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興し、元禄15年(1702)には、4代将軍家綱の生母の弟・増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至り廃城となりました。今回は尾張から長島へ入り、砦跡や御坊跡等を見ながら長島城周辺も散策しています。 殿名砦跡(#2:04) → 押付砦跡(#4:53) → 善明寺(#5:30) → 蓮正寺・長島城大手門移築(#6:35) → 深行寺・長島城書院移築(#9:23) → 願證寺(#11:12) → 久我屋敷(#14:04) → 長島城跡(#17:13) → 大智院(#21:58) → 光栄寺(#22:36) → 小田御崎砦跡(#23:04) → 小田江神崎神社(#23:58) → 八幡神社(#25:02) → 近鉄長島駅織田信長の長島侵攻の拠点の一つ・鯏浦城跡 → sm39705611お城→mylist/37297571
27:36|2021年12月10日 20:28:02 投稿
【大楠】尾張国鯏浦城 令和3年(2021) 初冬
2021年の11月下旬、愛知県弥富市にある鯏浦城跡を訪れました。 永禄8年(1565)に織田信長がこのあたりに勢力のあった服部友貞の率いる服部党・一向門徒勢を攻めるため築城したとされ、信長の弟の織田信興が城主となっていたようです。元亀元年(1570)、服部党が鯏浦城主・織田信興を小木江城に攻め殺したことを機に、信長は攻勢を強め、長島の一向一揆討伐戦へと進んでいきました。廃城時期については定かではありませんが、長島一向一揆の終息とともに城としての重要性が低下し、使用されなくなっていったと思われます。現在は木曽川から距離がありますが、往時はこの城の辺りに海岸線があったと伝わり、城跡を伝える大楠に織田軍が船を繋いだという言い伝えもあるようです。お城→mylist/37297571
5:30|2021年12月03日 20:21:02 投稿
【城の城】陸奥国陣が峯城 令和3年(2021) 晩秋
2021年の10月中旬、福島県河沼郡会津坂下町にある陣が峯城跡を訪れました。 築城年代や城主等については不明なようですが、発掘調査によって12世紀の中国の陶磁器等が出土されており、12世紀の城館であったと推定されているようです。地元では越後の城長茂の城との伝承があり、「城(じょう)の城(しろ)」と呼ばれているそうです。12世紀の城館遺構が残る遺跡としては全国でも珍しく貴重であるとして、2007年(平成19年)7月26日、陣が峯城跡(じんがみねじょうあと)として国の史跡に指定されました。現在でも、二重の堀と土塁が良好な状態で残っており、主殿跡は畑に、馬場跡には公民館が建っていましたが、国史跡の指定を受けて引っ越したようで、今は使われていないようです。訪問時、畑で作業している方がおり、入口にパンフレットが置いてあることや、出土品が会津坂下町埋蔵文化財センターに展示されていること等を教えて頂きました。動画の最初は城跡、中盤は会津坂下町埋蔵文化財センター、終盤は恵隆寺と旧五十嵐住宅を訪問しています。12世紀にはあまり思い入れがないのですが、それでも城の遺構と出土品の内容に大変感動しました。歴史好きの方にはぜひともお勧めしたい会津坂下町でした。近くにある同じく国史跡の会津新宮城 → sm31901142お城→mylist/37297571
15:00|2021年10月22日 20:07:02 投稿
【逢瀬】尾張国小折城(生駒屋敷) 平成31年(2019) 晩冬
2019年の1月上旬、愛知県江南市にある小折城跡(生駒屋敷跡)を訪れました。 築城年代等は不明ですが、戦国時代に生駒氏の居城でした。弘治2年(1556年)、小折城主・生駒家宗の娘である生駒吉乃は夫の土田弥平次が戦死した後、織田信長の側室となり、織田信忠や信雄を産んだとされています。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いの際には戦いの最前線となり城は大幅に改修されたとされ、古地図には本丸・二の丸・三の丸・西の丸等の曲輪があります。江戸時代に入り、生駒利勝は尾張藩主徳川義直に仕え、子孫が家老となり4,000石を領しました。一国一城令により小折城は廃城となりますが、周辺領地と遺構は縮小されるもそのまま生駒氏下屋敷として隠居所の機能を果たしながら存在し、明治を迎えました。現在、城跡は布袋東保育園等になっていますが、中門が広間家に移築されており、菩提寺である久昌寺には生駒氏や吉乃の墓等がありますが、2021年、久昌寺は老朽化に伴い維持管理が難しくなったため取り壊しが決まり、跡地は市に売却され公園として整備される見込みとのことです。また、近くにある龍神社には清州城代を務めたとされる埴原加賀守常安の塚の碑があり、屋敷もその近くにあったと伝わります。お城→mylist/37297571
8:33|2021年09月24日 21:02:02 投稿
【68万石】越前国福井城 令和3年(2021) 晩夏
2021年の8月上旬、福井県福井市にある福井城跡を訪れました。 慶長6年(1601年)、結城秀康(徳川家康・次男)が築城に着手し、6年の歳月をかけて越前国68万石の本城にふさわしい巨大な城を天下普請で造りました。北ノ庄城の跡地に築城したので、そのまま北ノ庄城と呼ばれていたようですが、江戸時代に福井藩第3代藩主・松平忠昌が「北」の字が「敗北」にあたり不吉であるとして「北ノ庄」から「福居」に改名され、さらに後に「福井」と改名されたと伝わります。現在、外堀は埋められ、内堀と本丸や天守台が残るのみですが、本丸跡には福井県庁、県会議事堂、県警察本部などがあり、公園としても整備されています。福井城の前にあった柴田勝家の北ノ庄城 → sm39314682お城→mylist/37297571
14:56|2021年09月17日 20:25:03 投稿
【鬼柴田】越前国北ノ庄城 令和3年(2021) 晩夏
2021年の8月上旬、福井県福井市にある北ノ庄城跡を訪れました。 天正3年(1575年)に、織田信長の家臣・柴田勝家が越前国49万石の居城として築城し、七層の天守(一説には九層とも)をもつ、安土城に匹敵するような居城だったと伝わります。天正11年(1583年)4月、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗れると、秀吉はそのまま越前に攻め入り、勝家も北ノ庄城に籠城しますが、落城し、妻・お市の方とともに自害し、家臣の中村 文荷斎(なかむら ぶんかさい)が介錯しました。江戸時代になり、北ノ庄城の跡地に福井城が築城されましたが、現在柴田神社がある所が北ノ庄城の本丸跡と推定され、北ノ庄城の堀や石垣を展示したり、北の庄城址資料館があります。お城→mylist/37297571
10:10|2021年09月10日 20:46:02 投稿
【三盛木瓜】越前国一乗谷城 其の四 一乗谷城山~茶会編 令和3年(2021) 晩夏
2021年の8月上旬、福井県福井市にある一乗谷城を訪れました。 築城年代は不明ですが、15世紀前半には築かれていたと考えられる山城で、西の谷合に館や城下町がありました。城下町は南の上城戸(かみきど)と北の下城戸(しもきど)と呼ばれる二つの谷の入口に守られており、往時は1万人もの人々が城下に住んでいたと伝わるようです。天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により、一乗谷は炎上、当主・朝倉義景は大野に逃れますが、一族の朝倉景鏡に裏切られ自害しました。後に越前を治めた柴田勝家が北ノ庄城に本拠を構えた為、一乗谷は荒廃し、田畑の下に埋もれていましたが、昭和42年(1967)に発掘が開始され、城下町全体が一乗谷朝倉氏遺跡として、国の特別史跡、特別名勝、重要文化財(出土品2343点)の三重指定を持つ全国6史跡の一つとなっています。今回は復原街並から、朝倉館跡、英林塚、一乗谷城山を散策し、最後に朝倉氏が所持した茶器の紹介とともに茶会を開催しています。一乗谷城其の一 下城戸~朝倉景鏡館跡編 → sm39179238一乗谷城其の二 平面復元地区~朝倉館跡編 → sm39216353一乗谷城其の三 中の御殿跡~復原街並編 → sm39255706お城→mylist/37297571
15:00|2021年09月03日 21:02:02 投稿
【三盛木瓜】越前国一乗谷城 其の三 中の御殿跡~復原街並編 令和3年(2021) 晩夏
2021年の8月上旬、福井県福井市にある一乗谷城を訪れました。 築城年代は不明ですが、15世紀前半には築かれていたと考えられる山城で、西の谷合に館や城下町がありました。城下町は南の上城戸(かみきど)と北の下城戸(しもきど)と呼ばれる二つの谷の入口に守られており、往時は1万人もの人々が城下に住んでいたと伝わるようです。天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により、一乗谷は炎上、当主・朝倉義景は大野に逃れますが、一族の朝倉景鏡に裏切られ自害しました。後に越前を治めた柴田勝家が北ノ庄城に本拠を構えた為、一乗谷は荒廃し、田畑の下に埋もれていましたが、昭和42年(1967)に発掘が開始され、城下町全体が一乗谷朝倉氏遺跡として、国の特別史跡、特別名勝、重要文化財(出土品2343点)の三重指定を持つ全国6史跡の一つとなっています。今回は中の御殿跡、諏訪館跡、上城戸、復原街並等を散策しています。一乗谷城其の一 下城戸~朝倉景鏡館跡編 → sm39179238一乗谷城其の二 復原街並~朝倉館跡編 → sm39216353一乗谷城其の四 城山~茶会編 → sm39282345お城→mylist/37297571
15:00|2021年08月29日 13:23:02 投稿
【三盛木瓜】越前国一乗谷城 其の二 平面復元地区~朝倉館編 令和3年(2021) 晩夏
2021年の8月上旬、福井県福井市にある一乗谷城を訪れました。 築城年代は不明ですが、15世紀前半には築かれていたと考えられる山城で、西の谷合に館や城下町がありました。城下町は南の上城戸(かみきど)と北の下城戸(しもきど)と呼ばれる二つの谷の入口に守られており、往時は1万人もの人々が城下に住んでいたと伝わるようです。天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により、一乗谷は炎上、当主・朝倉義景は大野に逃れますが、一族の朝倉景鏡に裏切られ自害しました。後に越前を治めた柴田勝家が北ノ庄城に本拠を構えた為、一乗谷は荒廃し、田畑の下に埋もれていましたが、昭和42年(1967)に発掘が開始され、城下町全体が一乗谷朝倉氏遺跡として、国の特別史跡、特別名勝、重要文化財(出土品2343点)の三重指定を持つ全国6史跡の一つとなっています。今回は平面復原地区から、瓜割清水、朝倉館跡、湯殿跡庭園を散策しています。一乗谷城其の一 下城戸~朝倉景鏡館跡編 → sm39179238一乗谷城其の三 中の御殿跡~復原街並編 → sm39255706一乗谷城其の四 城山~茶会編 → sm39282345お城→mylist/37297571
15:00|2021年08月21日 16:17:02 投稿
【三盛木瓜】越前国一乗谷城 其の一 下城戸~朝倉景鏡館編 令和3年(2021) 晩夏
2021年の8月上旬、福井県福井市にある一乗谷城を訪れました。 築城年代は不明ですが、15世紀前半には築かれていたと考えられる山城で、西の谷合に館や城下町がありました。城下町は南の上城戸(かみきど)と北の下城戸(しもきど)と呼ばれる二つの谷の入口に守られており、往時は1万人もの人々が城下に住んでいたと伝わるようです。天正元年(1573)、織田信長の越前侵攻により、一乗谷は炎上、当主・朝倉義景は大野に逃れますが、一族の朝倉景鏡に裏切られ自害しました。後に越前を治めた柴田勝家が北ノ庄城に本拠を構えた為、一乗谷は荒廃し、田畑の下に埋もれていましたが、昭和42年(1967)に発掘が開始され、城下町全体が一乗谷朝倉氏遺跡として、国の特別史跡、特別名勝、重要文化財(出土品2343点)の三重指定を持つ全国6史跡の一つとなっています。今回は一乗谷駅から西山光照寺跡、金吾谷(朝倉宗滴館跡)、安波賀春日神社、下城戸跡、朝倉景鏡館跡を散策しています。一乗谷城其の二 平面復元地区~朝倉館跡編 → sm39216353一乗谷城其の三 中の御殿跡~復原街並編 → sm39255706一乗谷城其の四 城山~茶会編 → sm39282345お城→mylist/37297571
15:00|2021年08月14日 15:23:02 投稿
【下方左近】尾張国上野城 令和3年(2021) 晩夏
2021年の7月下旬、愛知県名古屋市にある上野城址を訪れました。 天文元年(1532)頃に、小豆坂の戦いにおいて小豆坂七本槍の一人として活躍した下方貞清が築城したと伝わります。 東西約120メートル、南北約214メートルの規模の長方形をしており、眺望の良い崖の上に建てられ、二重の堀を巡らせていたそうですが、現在、城跡の遺構は残っていません。上野小学校辺りが上野城と伝わり、近くの永弘院に城跡碑があります。 今回は、清明神社、永弘院、上野城跡、天満緑道、上野天満宮、矢田河原の順で訪れており、道中、ドラマ「キッズ・ウォー」のロケ地も訪れています。お城→mylist/37297571
17:35|2021年08月07日 20:44:03 投稿
【森山崩れ】尾張国守山城 令和3年(2021) 晩夏
2021年の7月下旬、愛知県名古屋市にある守山城址を訪れました。築城時期は不明ですが、天文4年(1535)には、織田信長の父・織田信秀の弟である織田信光の居城となっていたようです。松平清康(徳川家康の祖父)が亡くなった「森山崩れ」の舞台に関連する城として有名です。天正元年(1573)には、お市の方と三人の娘(茶々、初、江)が城主・織田信次に保護され、守山城に1年間程滞在していたと伝わります。天正2年(1574)信次が長島の合戦で戦死し廃城となったと考えれているようです。現在、城跡とされる場所には松平清康を弔う為に建立された宝勝寺があり、宝勝寺の北にある城跡荘というアパートの敷地に城跡碑があり、私有地ですが、ありがたいことに見学が可能となっています。城の南を流れる矢田川の河原沿いには、かって尾張藩の鉄砲稽古場があったそうで、稲富流砲術の開祖である稲富祐直が徳川義直から拝領され稽古場として利用していたそうです。お城→mylist/37297571
9:21|2021年07月30日 22:00:02 投稿
【守愚今春】三河国秦梨城と秦梨郷 令和3年(2021) 仲春
2021年の3月下旬、愛知県岡崎市秦梨町にある秦梨(はだなし)城址を訪れました。築城時期は不明ですが、鎌倉時代に三河守護の足利氏の被官である粟生(あおう)氏がこの地に築城したと伝わり、南の山には詰めの山城もあったようです。戦国時代には秦梨城主・粟生永信(将監)は今川義元に属していましたが、弘治2年(1556年)に織田方に属した奥平氏等に攻められた(日近合戦)ものの撃退したと伝わります。永録4年(1561)板倉弾正の岡崎城撤退に伴って,粟生将監も松平方に城を明け渡し,駿河に去った。その後,酒井図書が秦梨城に入るが,この頃から次第にこの両城とも必要性が薄れ,やがて廃城となってしまったようです。現在、城址には城跡碑と供養塔があり、遺構は城の東側に堀切が明瞭に残っています。作手街道と乙川を眼下に抑える尾根の西端に秦梨城があり、さらに南に城山がありますが、城山は情報が少なく登城していません。今回は秦梨城跡だけでなく、秦梨小学校のHPの史跡を参考に以下の順で訪れています。 鏡山神社(2:00) → 南朝忠臣碑(7:50) → 須佐之男神社(8:35) → 薬師堂兼公民館(9:57) → 同楽山人句碑(11:27) → 福正寺(13:02) → 秦梨城(13:58) → 才栗のムクノキ(21:50) → 常夜燈(23:00) → 聖洞寺(23:36) → 白髭神社(24:04) → 神明宮(岩戸城跡)(25:50) → 正蔵寺(27:00) → 秦梨小学校(29:20) → 秦梨八幡宮(友久城跡)(29:58) → 河合中学校(30:55) → 昭和堂菓子舗(31:49)と訪れています。最後(32:24)からは鏡山神社参道・秦梨城跡・乙川と桜・河合中学校のビデオの映像です。 秦梨は大学の友人の故郷なので、今回の動画は友人に語りかける形式となっており、敬語ではなく、自分の西国言葉(筑前と関西少しだけ)が炸裂しているので、苦手だと思ったらごめんなさい。※kou殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
34:38|2021年05月13日 21:12:03 投稿
東日本大震災からの復興を願い、被災地の城を訪ね歩く あれから10年編
2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴う津波、福島第一原子力発電所事故等、第二次世界大戦以来の危機に日本が直面した東日本大震災から今日で10年の月日が経過しました。城好きが被災地にできることは被災地の城を訪れることでした。地味ではありますが、それが自分なりの復興支援でした。一人の城好きとして全ての被災地の復興を願っています。青森県/弘前城,三戸城岩手県/盛岡城,九戸城秋田県/久保田城,土崎湊城址,角館城,横手城,大館城宮城県/青葉城,若林城,岩出山城,白石城,石巻城山形県/山形城,長谷堂城,米沢城福島県/鶴ヶ城,神指城,猪苗代城,向羽黒山城,鴫山城,赤館城,棚倉城,相馬中村城,小高城,会津新宮城,白河小峰城,須賀川城,二本松城,三春城,福島城茨城県/水戸城,結城城栃木県/宇都宮城,飛山城,佐野城,唐沢山城,小山城※いろいろと突っ込みたいことがあるかもしれませんが、平にご容赦を<(_ _)>※kou殿、花よ咲け殿、霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡
10:00|2021年03月11日 00:10:03 投稿
【五奉行筆頭】尾張国浅野城 平成30年(2018) 初夏
2018年の5月下旬、愛知県一宮市にある浅野城址を訪れました。築城時期は不明ですが、戦国時代の武将である浅野長勝・長政親子の屋敷跡と伝わります。浅野長政が近江国に転封となった後は、杉浦五左衛門道祐(織田信雄・秀信の家臣)の居城となっていたようですが、道祐が関ヶ原の戦いの前哨戦で竹ヶ鼻城で戦死した後、廃城となったようです。現在、城址は浅野公園として整備されており、浅野氏関連の石碑等があります。城というより、城館や屋敷という規模ですが、周囲は水堀が残っており、屋敷内にも土塁跡のような小山があるので、周辺の屋敷跡より城郭らしさを感じることができました。※kou殿・霞舞伎殿・Fire Keeper殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
6:38|2021年02月19日 21:25:03 投稿
【織田伊勢守】尾張国岩倉城 令和2年(2020) 初冬
2020年の11月下旬、愛知県岩倉市にある岩倉城址を訪れました。文明11(1479)年頃、尾張国上四郡(丹羽、葉栗、中島、春日井)を支配する織田伊勢守家の織田敏広が築城し、岩倉織田氏の本拠としました。城は東西約91m、南北約171m、標高10m程の平城で、内外二重の堀に守られていたようです。岩倉城主・織田信安、信賢父子は織田信長の弟、織田信行に味方した為、永禄2(1559)年、信長に攻められ城は落城しました。こうして尾張下四郡を支配した織田大和守家と共に尾張守護代として勢力を誇った織田伊勢守家は滅亡し、その家臣だった堀尾吉晴や岩倉で誕生したと伝わる山内一豊が浪人することになりました。2016年に訪城した動画を投稿済みですが、今回は前回より詳しく周囲を散策し、城主・織田信安公夫妻の墓がある誓願寺や室町時代の農家の形式を残した古民家がある岩倉市史跡公園も訪れています。※aaaaaa殿・kou殿・JT殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡2016年の岩倉城と井上城 → sm29220006山内一豊が城主を務めた長浜城 → sm31336330山内一豊が築城した高知城 → sm30999485織田大和守家の清洲城 → sm28121483お城→mylist/37297571
19:25|2020年12月06日 21:46:04 投稿
【諌死】尾張国志賀城(平手政秀邸跡)平成二十八年(2016) 晩夏
2016年の7月下旬、愛知県名古屋市北区平手町にある平手政秀邸跡(志賀公園)を訪れました。平手政秀は織田信秀(織田信長の父)に仕えた重臣で、天文3年(1534)、信長が誕生すると傅役となり、次席家老を務めました。信秀が死去して織田家中が不穏となる中で、天文22年(1553)に自刃しました。享年62。自刃の理由は奇行が多い信長を諌める為とも言われています。信長は小牧に政秀寺を建立し、菩提を弔いました。小牧・長久手の戦いで政秀寺は焼失しますが、清洲へと移転し、現在は愛知県名古屋市中区栄三丁目にあり、政秀の墓は名古屋市千種区の平和公園にあります。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571史跡 → mylist/56292183
3:33|2016年09月11日 22:24:06 投稿
【川上之嘆】陸奥国富沢館 令和二年(2020) 仲夏
2020年5月末、宮城県仙台市にある富沢館(とみざわたて)跡を訪れました。江戸時代には仙台藩士入生田家の在郷屋敷として使われており、館の造営について『館記』『入生田家之故実』では北目城主であった粟野大膳による造営かという記載があるが、造営者や造営時期等の詳細は不明です。仙台の平野部で確認されている中世の館城のなかでも最大級のもので、土塁や堀跡の形状が良く観察されることでも知られていましたが、訪問時、土塁は保存されていましたが、周囲の開発が進み、堀跡は住宅地等になっていました。地下鉄の駅があり、近くにコンビニが2つあり新しい家がどんどん建つ中、土塁が残されたのだけでも奇跡的なのかもしれません。タイトルの四文字熟語が後ろ向きな意味に感じるかもしれませんが、富沢館跡には前向きな印象を受けました(土塁が保存されたこと、周囲は若い家族が多くて活気あり幸せな雰囲気を感じたこと)。仙台市には土塁を保存しつつ、子供が遊べる公園等に整備してくれるよう期待したいです。9月以降はまた家庭の事情の為、投稿をしばらく中断する予定です。新型ウィルス流行以前に訪れた城の動画か、前々から作りたかった信長の野望のゲーム関連の動画を作成できたら、また投稿するかもしれませんが、気長にお待ち頂ければと思います<(_ _)>※kou殿・masa_ru3殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡タグの追加もありがとうございます<(_ _)>お城 → mylist/37297571
7:46|2020年08月23日 18:50:02 投稿
【丹羽帯刀】尾張国赤池城 令和元年(2019) 仲冬
2019年12月、愛知県日進市にある赤池城跡を訪れました。天文年間(1532-1555)に丹羽氏が築城したとされ、天正元年(1573)頃には丹羽帯刀秀信が城主であったと考えられ、その後、廃城になったと考えられます。現在、城跡は中部電力日進変電所となっており、変電所の南に城跡碑がありますが、城の遺構は見当たりませんでした。前半は丹羽秀信が創建した龍淵寺を訪れ、赤池城自体の部分は少なく、後半も地元の方との会話での所感等の内容となっています。戦国時代の城跡で信長の野望にも出て来ない武将の城の動画を投稿するのは初めてかもしれません・・・少し時間ができたので投稿を再開しますが、9月以降はまた家庭の事情の為、投稿をしばらく中断する予定です。※aaaaaa殿・masa_ru3殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
8:28|2020年08月16日 20:33:03 投稿
【信長元服】尾張国古渡城 平成三十一年(2019) 晩春
2019年の4月、愛知県名古屋市にある古渡城跡を訪れました。天文3年(1534)、織田信秀(織田信長の父)が今川方への備えとして築城し、天文15年(1546)、織田信長は古渡城にて13歳で元服したとされます。天文17年(1548)、信秀は末森城を築城し、居城を移した為、古渡城はわずか14年で廃城になったと伝わります。現在、城跡は真宗大谷派名古屋別院(通称:東別院)と下茶屋公園となっており、東別院の南西隅に城跡碑があります。また、名古屋築城の際に集められた石垣用石材の残石で刻印のある石が境内と公園に計29個あるそうです。個人的には下茶屋公園の東側を外側から見ると高低差があり、公園内も城跡らしさが東別院より残っていると思うので、下茶屋公園まで見ることをお勧めします。少し時間ができたので投稿を再開します。9月以降はまた家庭の事情の為、投稿をしばらく中断する予定です。※masa_ru3殿・aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡織田信秀が移った末森城 → sm34190577織田信長が居城とした那古屋城 → sm30284154お城 → mylist/37297571
6:30|2020年08月08日 15:21:03 投稿
【黒田節】筑前国福岡城 平成三十年(2018) 仲春
2018年の3月、福岡県福岡市にある福岡城を訪れました。慶長5年(1600)、 黒田孝高・長政父子が関ヶ原の戦いの功績により、豊前国中津16万石から筑前一国52万3千石で筑前名島に入封、旧領主の小早川氏の名島城を廃し、福崎丘陵を新たな居城地に選定し、慶長6年(1601)には築城が開始され、慶長12年(1607)に竣工しました。現在、城跡は舞鶴公園と大濠公園となっており、三ノ丸の東側の旧平和台球場跡からは平安時代の外交施設である鴻臚館(こうろかん)の遺構が発見され、福岡城とともに二重の国史跡となっています。福岡城に行く前に博多駅で『黒田節像』、櫛田神社で『博多べい』を見ているので、城が始まるのは4分くらいからです。また、動画の後半4分くらいは完全に自己満足に陶酔したパートになっているので、合わないと思った方はごめんなさい。ちょっと時間ができたので動画を作成しました。普段は見やすいように15分くらいで動画を分けるのですが、今回は久しぶりに25分オーバーの動画を1本にしたので、「長いわ」思たらごめんなさい<(_ _)>※aaaaaa殿・masa_ru3殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡黒田家関連の城城主を務めた姫路城 → sm36789458豊前入国で入城した中津城 → sm30569596筑前入国で入城した名島城 → sm283388872012年夏の福岡城 → sm21071168お城 → mylist/37297571
27:00|2020年07月25日 18:56:02 投稿
【白鷺】播磨国姫路城 其の五 男山編 令和二年(2020) 仲春
2020年の3月、兵庫県姫路市にある姫路城を訪れました。1346年、赤松貞範が姫山に築城した姫山城が城の起源とされ、小寺氏・黒田氏・羽柴秀吉等が城主を務め、慶長5年(1600)、池田輝政が三河吉田15万石(愛知県豊橋)から播磨52万石で入城、広大な近世城郭へ改修し、本多氏・榊原氏・酒井氏が城主を務めました。現存12天守・国宝5城・日本100名城の一つであり、1993年には世界遺産に登録されました。※訪問時、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、姫路城では大天守や西の丸百間廊下など建造物の公開を休止していました。今回は清水門跡から男山に登り、背隠曲輪を通り、イーグレひめじから姫路城を眺めました。動画の最後に書かせて頂きましたが、家庭の事情により、しばらく動画の投稿を中断させて頂きます。※kou殿・aaaaaa殿・霞舞伎殿・masa_ru3殿、広告ありがとさんでござんす♡前回・姫路城 其の四 二ノ丸~清水門編 → sm36916126お城 → mylist/37297571
13:11|2020年06月07日 22:09:03 投稿
【白鷺】播磨国姫路城 其の四 二ノ丸~清水門編 令和二年(2020) 仲春
2020年の3月、兵庫県姫路市にある姫路城を訪れました。1346年、赤松貞範が姫山に築城した姫山城が城の起源とされ、小寺氏・黒田氏・羽柴秀吉等が城主を務め、慶長5年(1600)、池田輝政が三河吉田15万石(愛知県豊橋)から播磨52万石で入城、広大な近世城郭へ改修し、本多氏・榊原氏・酒井氏が城主を務めました。現存12天守・国宝5城・日本100名城の一つであり、1993年には世界遺産に登録されました。※訪問時、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、姫路城では大天守や西の丸百間廊下など建造物の公開を休止していました。今回は二の丸を散策した後、喜斎門跡を出て内濠を反時計回りに進み、清水門跡まで散策しました。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・masa_ru3殿、広告ありがとさんでござんす♡次回・姫路城 其の五 男山編 → sm36995354前回・姫路城 其の三 備前丸編 → sm36876668お城 → mylist/37297571
13:09|2020年05月24日 17:29:02 投稿
【白鷺】播磨国姫路城 其の三 備前丸編 令和二年(2020) 仲春
2020年の3月、兵庫県姫路市にある姫路城を訪れました。1346年、赤松貞範が姫山に築城した姫山城が城の起源とされ、小寺氏・黒田氏・羽柴秀吉等が城主を務め、慶長5年(1600)、池田輝政が三河吉田15万石(愛知県豊橋)から播磨52万石で入城、広大な近世城郭へ改修し、本多氏・榊原氏・酒井氏が城主を務めました。現存12天守・国宝5城・日本100名城の一つであり、1993年には世界遺産に登録されました。※訪問時、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、姫路城では大天守や西の丸百間廊下など建造物の公開を休止していました。今回は内曲輪の備前丸等を散策しています。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・masa_ru3殿、広告ありがとさんでござんす♡次回・姫路城 其の四 二の丸編 → sm36916126前回・姫路城 其の二 西の丸編 → sm36835882お城 → mylist/37297571
15:11|2020年05月17日 17:35:02 投稿
【白鷺】播磨国姫路城 其の二 西の丸編 令和二年(2020) 仲春
2020年の3月、兵庫県姫路市にある姫路城を訪れました。1346年、赤松貞範が姫山に築城した姫山城が城の起源とされ、小寺氏・黒田氏・羽柴秀吉等が城主を務め、慶長5年(1600)、池田輝政が三河吉田15万石(愛知県豊橋)から播磨52万石で入城、広大な近世城郭へ改修し、本多氏・榊原氏・酒井氏が城主を務めました。現存12天守・国宝5城・日本100名城の一つであり、1993年には世界遺産に登録されました。※訪問時、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、姫路城では大天守や西の丸百間廊下など建造物の公開を休止していました。今回は内曲輪の下山里曲輪から西の丸等を散策しています。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・masa_ru3殿、広告ありがとさんでござんす♡次回・姫路城 其の三 備前丸編 → sm36876668前回・姫路城 其の一 外曲輪~内曲輪編 → sm36789458お城 → mylist/37297571
15:22|2020年05月10日 14:34:02 投稿
【白鷺】播磨国姫路城 其の一 外曲輪~内曲輪編 令和二年(2020) 仲春
2020年の3月、兵庫県姫路市にある姫路城を訪れました。1346年、赤松貞範が姫山に築城した姫山城が城の起源とされ、小寺氏・黒田氏・羽柴秀吉等が城主を務め、慶長5年(1600)、池田輝政が三河吉田15万石(愛知県豊橋)から播磨52万石で入城、広大な近世城郭へ改修し、本多氏・榊原氏・酒井氏が城主を務めました。現存12天守・国宝5城・日本100名城の一つであり、1993年には世界遺産に登録されました。※訪問時、新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、姫路城では大天守や西の丸百間廊下など建造物の公開を休止していました。今回は外曲輪の外濠跡の近くである姫路駅から、外曲輪・中曲輪・内曲輪と散策しています。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・masa_ru3殿、広告ありがとさんでござんす♡次回・姫路城 其の二 西の丸編 → sm36835882お城 → mylist/37297571
15:30|2020年05月03日 11:56:03 投稿
【二十一万石】能登国小丸山城 令和元年(2019) 晩秋
2019年の10月、石川県七尾市にある小丸山城址を訪れました。天正9年(1581)に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が、能登畠山氏の本拠だった要害の七尾城に代わる拠点として、天正10年(1582)に築城しました。七尾の港に近い比高20m程の丘に築かれた平山城で、独立した4つの曲輪(本丸・天性丸・宮丸・大念寺山)から成り、北の海以外の三方を御祓川(みそぎかわ)を堀としていました。天正11年(1583)、利家が尾山城(金沢城)へ本拠を移した後は、兄の前田安勝が城主となりました。慶長4年(1599)、利家の次男・前田利政が羽咋(はくい)・鹿島郡1万五千石を分与されて城主となりましたが、翌年の関ヶ原の役に参加しなかった為、領地を没収され、能登は兄の前田利長に与えられました。元和元年(1615)、一国一城令に従い廃城となり、現在は小丸山公園として整備されています。開発された大念寺山以外の曲輪は形を良好に残していますが、土塁等の遺構は天性丸の北西の一部でしか見ることはできませんでした。見所は本丸と天性丸の堀切、そしてなんといっても七尾城下と七尾城の眺めでしょうか。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・masa_ru3殿、広告ありがとさんでござんす♡「君は放課後インソムニア」の2巻で、丸太が星空を撮影した小丸山公園です。動画でも丸太がおそらく撮影場所にしていた乾の展望台や舞台のモデルとなった七尾高校の天文台の屋根が見えています。前田利家の金沢城 → sm32221765お城 → mylist/37297571
12:21|2019年12月22日 18:49:02 投稿
【十三夜】能登国七尾城 其の二 本丸編 令和元年(2019) 晩秋
2019年の10月、石川県七尾市にある七尾城址を訪れました。正長年間(1428~1429)頃に能登国守護の畠山満慶が築城したとされ、以後約150年間にわたって能登畠山氏の領国支配の本拠となりました。七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城で、山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っています。天正4年(1576)、越後の上杉謙信に包囲され、一年にわたって持ちこたえますが、畠山氏の中でも親上杉派であった遊佐続光の内応によって、9月13日に落城しました。その後、織田家家臣の前田氏が城に入りますが、天正17年(1589)に廃城となりました。現在、城跡に建物等は残っていませんが、本丸等の曲輪に石垣等の遺構を見ることができます。五大山城の名に恥じない歴史、城の規模を誇る名城です。今回は温井屋敷跡から本丸等を散策します。※aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡「君は放課後インソムニア」の2巻で、白丸先輩が「おじゃまします」と言った時に「ここは!」と気付きました。ここ七尾城が登場します。七尾城其の一 大手道~二ノ丸編 → sm36059841五大山城上杉氏の越後国・春日山城 → sm21440268浅井氏の近江国・小谷城 → sm31173083六角氏の近江国・観音寺城 → sm34419623尼子氏の出雲国・月山富田城 → sm20998611お城 → mylist/37297571
15:34|2019年12月15日 12:17:02 投稿
【天宮】能登国七尾城 其の一 大手道~二の丸編 令和元年(2019) 晩秋
2019年の10月、石川県七尾市にある七尾城址を訪れました。正長年間(1428~1429)頃に能登国守護の畠山満慶が築城したとされ、以後約150年間にわたって能登畠山氏の領国支配の本拠となりました。七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城で、山麓に城下町「千門万戸」が一里余りも連なり、山頂にそびえる七尾城の威容は「天宮」とまで称されたと記録に残っています。天正4年(1576)、越後の上杉謙信に包囲され、一年にわたって持ちこたえますが、畠山氏の中でも親上杉派であった遊佐続光の内応によって、9月13日に落城しました。その後、織田家家臣の前田氏が城に入りますが、天正17年(1589)に廃城となりました。現在、城跡に建物等は残っていませんが、本丸等の曲輪に石垣等の遺構を見ることができます。五大山城の名に恥じない歴史、城の規模を誇る名城です。今回は七尾駅から山麓まで歩き、大手道から二の丸周辺まで散策します。※aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡七尾城其の二 本丸編 → sm36088356五大山城上杉氏の越後国・春日山城 → sm21440268浅井氏の近江国・小谷城 → sm31173083六角氏の近江国・観音寺城 → sm34419623尼子氏の出雲国・月山富田城 → sm20998611お城 → mylist/37297571
15:31|2019年12月08日 19:51:02 投稿
【天正十年】越中国魚津城 令和元年(2019) 晩秋
2019年の10月、富山県魚津市にある魚津城址を訪れました。建武2年(1335)、椎名孫八入道によって築城されたとされ、椎名氏の城でした。戦国時代は富山城の神保長職が椎名氏の領地に度々侵攻したので、椎名氏は越後の上杉氏に援軍を要請し、上杉氏が神保氏を敗退させました。永禄11年(1568)、椎名康胤が上杉氏から離反すると上杉氏に攻められ上杉家臣・河田長親が城主となりました。天正10年(1582)の魚津城の戦いでは、織田軍と上杉軍が凄まじい攻防戦を繰り広げ、魚津城兵が玉砕しました。その後、佐々氏、前田氏の領地となり、元和の一国一城令により廃城となったとみられます。現在、遺構は残っていませんが、本丸跡の大町小学校に城址碑等があり、往時を偲ぶことができます。今回の動画はテキストが多めとなっています。※霞舞伎殿・aaaaaa殿・JT殿、広告ありがとさんでござんす♡上杉氏の春日山城 → sm21440268神保氏の富山城 → sm35998141お城 → mylist/37297571
11:46|2019年11月30日 21:21:02 投稿
【涼風一陣】越中国富山城 令和元年(2019) 晩秋
2019年の10月、富山県富山市にある富山城址を訪れました。富山城は天文12年(1543)頃に、神保長職(じんぼうながもと)が、家臣の水越勝重(みずこしかつしげ)に命じて築城したとされています。神保長職は越中東部の椎名氏への圧迫を強めますが、椎名氏を支援する越後の長尾氏(上杉氏)が富山城を攻略した後は、上杉氏と一向一揆勢が富山城を争奪しました。天正10年(1582)、織田信長の家臣・佐々成政(さっさなりまさ)が富山城に入城し、常願寺川に堤防(佐々堤)を築く等の治水工事を行う等、富山城下を整備しました。天正13年(1585)、佐々成政が豊臣秀吉に攻められ降伏すると、越中は前田氏に与えられ、江戸時代を経て明治の廃城まで前田氏の城となりました。現在は本丸跡等が富山城址公園と整備され、天守を模した富山市郷土博物館が建てられています。※aaaaaa殿・JT殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
18:48|2019年11月24日 20:28:02 投稿
【琴浦】摂津国尼崎城 令和元年(2019) 仲秋
2019年の9月、兵庫県尼崎市にある尼崎城を訪れました。元和3年(1617年)、戸田氏鉄(うじかね)が5万石で入封し築いた城で、三重の堀に囲まれ四層の天守があったそうですが、明治の廃城令で取り壊されてしまいました。2019年3月に西三の丸跡地に天守が復元されました。家電量販店・旧ミドリ電化(現エディオン傘下)創業者の安保詮(あぼあきら)氏が、創業の地に恩返しがしたいと考え、10億円以上の私財を投じて天守を再建したそうです。また、尼崎は城郭復元画家として高名な荻原一青(おぎわらいっせい)画伯の故郷でもあり、氏は失われた尼崎城を愛していたので、天守の4階に氏の尼崎城絵図等のギャラリーがあります。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・JT殿、広告ありがとさんでござんす♡戸田氏鉄の大垣城 → sm30763005お城 → mylist/37297571
14:58|2019年11月17日 19:45:02 投稿
【日本一の兵】摂津国茶臼山陣城と道頓堀 令和元年(2019) 仲秋
2019年の9月、大阪府大阪市にある茶臼山陣城(大塚城)跡を訪れました。天文15年(1546)、細川晴元の家臣・山中又三郎が茶臼山古墳の後円部に城を築いたと伝わります。大坂冬の陣では徳川家康の陣城として、また大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の陣城として使用され、近くの安居神社が真田信繁戦死の地と伝わります。現在は天王寺公園として市民の憩いの場となっています。動画の後半では大坂の陣で商人ながら大坂城に籠城し討死にした安井道頓が開削した道頓堀を訪れています。※aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
11:54|2019年11月04日 20:06:07 投稿
【日和山】陸奥国石巻城とサン・ファン・バウティスタ号 令和元年(2019) 初秋
2019年の8月、宮城県石巻市にある石巻城址を訪れました。築城年代は不明なようですが、奥州の名家・葛西氏の居城であったと推定されています。文治5年(1189)の奥州合戦の恩賞として源頼朝の家人・葛西清重が所領を得てから天正18年(1590)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで約400年の間、葛西氏の重要な所領でした。江戸時代には仙台藩の治水事業に多大な貢献をした仙台藩士・川村重吉(かわむら しげよし)が北上川の治水工事を行なって仙台藩の石高を大きく向上させ、石巻の築港を行い、石巻の発展に大きく貢献しました。2011年3月11日に起った東日本大震災で石巻市も津波の被害を受けますが、石巻城のあった日和山(ひよりやま)が津波からの避難所となり、多くの命を救う「命の山」となりました。動画の後半では、石巻市にある宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)を訪れています。大航海時代に世界中の海を航海したガレオン船(帆船)のサン・ファン・バウティスタ号(仙台藩士・支倉常長公の慶長遣欧使節団を乗せて太平洋を横断した船で、日本に漂着したスペインの冒険家セバスティアン・ビスカイノの監督の下、驚くべきことに日本人が建造!)の復元船を見ることができます。つい最近のサザエさんのOPでもサン・ファン・バウティスタ号に乗る支倉常長公のシーンがあったので、記憶している方もいるかもしれません。東日本大震災の津波とその後の強風により、船は大きく損傷し、2017年3月から乗船は禁止され、2020年まで現状を維持するものの、その後は解体することが有力視されているそうです。ガレオン船が今後、日本で建造される可能性は非常に低いと思われるので、大航海時代や慶長遣欧使節団等に興味がある方は、解体される前に是非足を運ばれてください!※霞舞伎殿・aaaaaa殿・鉢巻ヤンベェ殿・JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
15:00|2019年10月26日 21:03:03 投稿
【松川の戦い】陸奥国福島城 令和元年(2019) 初秋
2019年の8月、福島県福島市にある福島城址を訪れました。築城年代は不明なようですが、応永20年(1413)に伊達松犬丸(後の伊達持宗)が懸田定勝と共に鎌倉公方へ反乱を起こした際に立て籠もった大仏城が後の福島城と伝わるようです。文禄元年(1592)に蒲生氏郷配下の木村吉清が信夫郡(現在の福島市)5万石を与えられ、居城を大森城から杉目城へ移し、杉目を「福島」と改称した為、杉目城が福島城となりました。慶長3年(1598)、蒲生氏の代りに会津120万石・上杉景勝の領地となり本庄繁長が福島城主を務めました。 慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦後に伊達政宗が信夫郡に侵攻してくると福島城は「松川の戦い」の舞台となり、本庄繁長と梁川城代の須田長義の活躍により伊達勢を退けました。上杉氏の統治の後は江戸幕府の天領・本多氏・堀田氏となり、元禄15年(1702)に板倉重寛が福島藩3万石の領主として入城し、幕末までの約170年間は福島藩板倉氏の居城として機能しました。現在は城跡は福島県庁等、開発されてしまっていますが、城址碑や解説板の他に遺構としては県庁の南西に土塁が現存しています。※aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
8:30|2019年10月19日 21:16:03 投稿
【狐戻】越後国津川城 令和元年(2019) 初秋
2019年の8月、新潟県新潟県東蒲原郡阿賀町にある津川城址を訪れました。建長4年(1252)、会津佐原氏の一族・金上盛弘が越後進出の足掛りとするために築城し、以来金上氏代々の居城となりました。天正17年(1589)、会津葦名氏の重臣で津川城主・金上盛備(かながみ もりはる)は摺上原の戦いで討死し、伊達氏の原田宗時が城主となりました。会津に蒲生氏郷時が入封すると北川平左衛門、上杉景勝時代には藤田信吉・鮎川帯刀、蒲生秀行時代には岡重政が城主となりますが、寛永4年(1627)、加藤嘉明が入封すると廃城となりました。阿賀川と常浪(つねなみ)川の合流部の麒麟山に築かれた山城で、土塁や堀や曲輪や少ないながらも石垣の遺構も残っていました。本丸上の展望台からの眺めも素晴らしいですが、麒麟山山頂付近からの眺めは眺望絶佳です。ただし、山頂への道は登山靴と手袋が必須で、過去には滑落による死亡事故も起きている危険な道ですので、行かれる方は十分注意してください。別名の狐戻城は、狐が引き返す程険しい城というのが由来のようです。津川は「狐の嫁入り行列」が有名で、津川代官所跡は「狐の嫁入り屋敷」になっており、その裏側には越後と会津の交易の中継地点として栄えた河港跡があります。※aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
15:00|2019年10月12日 00:26:02 投稿
【大構】武蔵国岩槻城 令和元年(2019) 初秋
2019年の8月、埼玉県さいたま市にある岩槻城址を訪れました。築城年代についてははっきりしませんが、長禄元年(1457)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により築城されたとされているようです。戦国時代に後北条氏が武蔵に侵攻してくると、岩槻城主・太田資正はここを拠点に後北条氏に対抗しました。後に後北条氏が城に入り、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に、今も残る新曲輪や鍛冶曲輪が造られたようで、後北条氏の築城技術の名残を確認することができます。江戸時代には徳川家の譜代大名が城主を務め、城の大構(惣構え)は周囲8kmにも及ぶ広大な城郭となりました。明治になり廃城となり、本丸・二ノ丸・三ノ丸等の主要な曲輪は開発され消滅しましたが、新曲輪と鍛冶曲輪が比較的良く残っており、岩槻城址公園として整備され、土塁や堀跡等の遺構を確認することができます。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・こぱすてっく殿・JT殿、広告ありがとさんでござんす♡道灌堀のある江戸城 → sm34363339お城 → mylist/37297571
14:58|2019年10月06日 20:24:02 投稿
【奇襲厳島】安芸国宮尾城 令和元年(2019) 晩夏
2019年の7月、広島県廿日市市にある宮尾城跡を訪れました。築城年ははっきりとは分かりませんが、天文24年(1555)の厳島の戦い以前から存在していたようで、同合戦では毛利方の己斐直之と新里宮内少輔が城を守備していました。宮尾城を攻める陶軍の総大将・陶晴賢は厳島の塔の岡に陣を構え宮尾城を攻略していましたが、嵐の中、厳島の東岸の包ヶ浦に上陸した毛利元就・毛利隆元・吉川元春の本隊が博奕尾(ばくちお)の山を越え、塔の岡の本陣を奇襲し、意表を突かれた陶方が総崩れとなり、総大将の陶晴賢や弘中隆包等、多くの武将が討死にしました。厳島の合戦に勝った毛利氏は瀬戸内海の制海権を掌握し、中国地方の大大名へと大きく前進しました。動画では宮尾城跡、厳島神社、陶軍本陣跡の塔の岡にある豊臣秀吉の命で安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が建立した千畳閣を訪れています。※霞舞伎殿、aaaaaa殿、JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
13:53|2019年09月29日 11:38:01 投稿
【鯉】安芸国広島城 令和元年(2019) 晩夏
2019年の7月、広島県広島市にある広島城を訪れました。天正17年(1589)、中国地方の120万石の大大名・毛利輝元の居城として、穂井田元清と二宮就辰を普請奉行とし、豊臣秀吉の家臣・黒田官兵衛も縄張の思案に参加する等して築城が開始され、慶長4年(1599)に全工事が完了し落成しました。関ヶ原の合戦後に毛利氏の代りに安芸広島・備後鞆49万8千石で福島正則が城主となり、福島氏改易後は、浅野氏の安芸広島42万石6000石の居城となりました。太田川下流域の三角洲に築かれた平城で、毛利氏120万石に相応しい巨大な城郭を福島氏・浅野氏が改修しました。江戸時代が終わった後も天守は現存していましたが、太平洋戦争での原子爆弾の広島投下により天守は倒壊し、城も甚大な被害を受けてしまいました。現在は、天守や櫓等が復元され、往時の威容を取り戻した姿を見せてくれます。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
19:15|2019年09月22日 13:59:01 投稿
【長篠の戦い】三河国長篠城 其の二 本丸編 令和元年(2019) 晩夏
2019年の7月、愛知県新城市にある長篠城を訪れました。永正5年(1508)、菅沼元成が築城したと伝わり、菅沼氏が居城としました。天正3年(1575)、武田勝頼が長篠城を攻め、長篠・設楽原の戦いの契機となりました。豊川と宇連川の合流地点の突端に築かれた城で、堀等の遺構が残っています。今回は、長篠城駅から長篠城を散策し、馬場信房の墓を訪れます。※二度寝子殿・JT殿・aaaaaa殿・霞舞伎殿・V. Tereshkov殿、広告ありがとさんでござんす♡長篠城 其の一 鳶ヶ巣山砦編 → sm35619570お城 → mylist/37297571
13:30|2019年09月08日 20:04:02 投稿
【強右衛門】三河国長篠城 其の一 鳶ヶ巣山砦編 令和元年(2019) 晩夏
2019年の7月、愛知県新城市にある長篠城を訪れました。永正5年(1508)、菅沼元成が築城したと伝わり、菅沼氏が居城としました。天正3年(1575)、武田勝頼が長篠城を攻め、長篠・設楽原の戦いの契機となりました。豊川と宇連川の合流地点の突端に築かれた城で、堀等の遺構が残っています。今回は、鳥居駅から鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の墓や磔跡地、牛渕橋から長篠城を眺めた後、鳶ヶ巣山砦から長篠城を俯瞰します。※ 霞舞伎殿・JT殿・aaaaaa殿・V. Tereshkov殿、広告ありがとさんでござんす♡長篠城 其の二 長篠城本丸編 → sm35655668お城 → mylist/37297571
11:25|2019年08月31日 22:08:02 投稿
【兵糧入れ】尾張国大高城 令和元年(2019) 仲夏
2019年の6月、愛知県名古屋市にある大高城を訪れました。築城年代は不明ですが、花井備中守や水野氏が城主となっており、織田信秀の支配化となっていました。桶狭間の合戦の前に、鳴海城主山口教継の調略で大高城は沓掛城とともに今川方の手に落ちたので、織田信長は大高城を牽制する為、鷲津砦と丸根砦を築きました。桶狭間の合戦の直前には、大高城を守る鵜殿長照に松平元康(後の徳川家康)が織田方の包囲を突破し、大高城に兵糧を運び入れることに成功しました。桶狭間の合戦後、しばらくして廃城となったと考えられています。昭和13年(1938年)に国の史跡に指定され、現在は「大高城址公園」として整備されており、遺構は土橋や空堀等を見ることができます。※ JT殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡桶狭間の戦いを辿る旅→sm35517964岡部元信が守備した・鳴海城→sm32472616お城 → mylist/37297571
11:24|2019年08月24日 23:01:02 投稿
【九鬼水軍】志摩国鳥羽城 平成31年(2019) 晩冬
2019年1月中旬、三重県鳥羽市にある鳥羽城を訪れました。中世に、鳥羽湾に面した桶の山に橘氏が居館が築いていた所に、文禄3年(1594年)、九鬼嘉隆が鳥羽城を築城しました。縄張が海に面しており、大手門が海に向かって開いていた、まさに海城でした。断崖の上にある本丸からは鳥羽湾が一望でき、水軍大名の居城にふさわしい城でした。往時は本丸に三重の天守や御殿があったようですが、現在は建物は残っておらず、本丸の石垣や家老屋敷跡の石垣が良好に残っています。城址の散策の後、フェリーに乗って城主・九鬼嘉隆の眠る答志島(とうしじま)に渡り、九鬼嘉隆の胴塚と首塚をお参りしました。※霞舞伎殿、aaaaaa殿、広告ありがとさんでござんす♡お城 → mylist/37297571
16:40|2019年01月27日 20:09:02 投稿
【夢幻】近江国安土城 平成30年(2018) 仲冬
2018年12月下旬、滋賀県近江八幡市にある安土城址を訪れました。天正4年(1576)、織田信長は家臣の丹羽長秀に安土城築城を命じ、天正7年(1579)には天主が完成し、一応の完成をみたのは天正10年(1582)でした。同年の本能寺の変後の混乱で安土城は焼失し、天正13年(1585)、八幡山城築城により廃城となりました。今回は東門跡を散策しようとしたのですが、年末の為か立入禁止になっていました・・・雪の日だったので、登城する人も少なかったのですが、雪で写真はピントが合わせ辛かったです。※aaaaaa殿、霞舞伎殿、Fire Keeper殿、麒麟殿、永井春香殿、麻観りみゆ@rimiyu殿、ぜっと缶殿、えーき殿、、招き猫殿、広告ありがとさんでござんす♡ 旅行たくさん行ければいいですが、ボチボチですね。お金と時間が・・・ 2021/2/7追記 「麒麟がくる」最終回日の粋なコメントありがとさんです。 広告pt見て一瞬頭が混乱しました・・・かたじけない。 2021/2/8追記 広告のおかげで1日の再生数が投稿からの2年間分を 超えましたw 霞舞伎殿、オブリガード♡ 2021/2/13追記 ニコニコ動画に投稿して8年、初めて動画の再生回数が 2525を突破しましたwありがとうございました<(_ _)>初秋の安土城 → sm34434991お城 → mylist/37297571
13:56|2019年01月20日 11:07:02 投稿
【近江守護】近江国観音寺城 其の二 平井丸~本丸編 平成30年(2018) 仲冬
2018年12月下旬、滋賀県近江八幡市にある観音寺城址を訪れました。標高432mの繖(きぬがさ)山(比高約330m)に築かれた山城で、近江守護六角氏の居城でしたが、織田信長の京上洛途中に攻略され、落城しました。信長が安土城を築いた安土山のすぐ隣にある大きな山が繖山で、城域は安土城を凌ぐ巨大城郭だったことが分かります。標高300mを越える高所にも石垣がたくさん残り、安土城築城以前に既にこのような石垣の城が古代朝鮮式山城以外にあったことに驚きました。今回は平井丸から三ノ丸、本丸、観音正寺を散策し、繖山山頂から安土城側の登山道へ下城しています。※霞舞伎殿、aaaaaa殿、広告ありがとさんでござんす♡ 広告履歴にたいそうなコメントが、かほどのコメントを賜るとは拙者はまことに果報者でござる<(_ _)>観音寺城其の一 追手道~池田丸編 → sm34419623お城 → mylist/37297571
13:37|2019年01月06日 14:42:01 投稿
【近江守護】近江国観音寺城 其の一 追手道~池田丸編 平成30年(2018) 仲冬
2018年12月下旬、滋賀県近江八幡市にある観音寺城址を訪れました。標高432mの繖(きぬがさ)山(比高約330m)に築かれた山城で、近江守護六角氏の居城でしたが、織田信長の京上洛途中に攻略され、落城しました。信長が安土城を築いた安土山のすぐ隣にある大きな山が繖山で、城域は安土城を凌ぐ巨大城郭だったことが分かります。標高300mを越える高所にも石垣がたくさん残り、安土城築城以前に既にこのような石垣の城が古代朝鮮式山城以外にあったことに驚きました。今回は安土駅から徒歩で観音寺城の南の登城口から登城し、御屋形跡から追手道を通り、大石垣、池田丸まで散策しています。※霞舞伎殿、aaaaaa殿、広告ありがとさんでござんす♡観音寺城其の二 平井丸~本丸編 → sm34434991お城 → mylist/37297571
13:43|2019年01月03日 13:21:03 投稿
【天下無双】武蔵国江戸城 乾通り一般公開秋 平成30年(2018)
2018年12月上旬、江戸城の皇居乾通り一般公開2018秋に行きました。坂下門から乾門まで、普段は入ることができない乾通りを歩くことができる貴重な機会です。乾門は江戸時代にはなかった門(門自体は西ノ丸裏門を改装移築)なので、西桔橋門跡を通って、本丸へ抜けました。西桔橋門跡を通ることも、この乾通り一般公開の期間しかできません。坂下門から富士見櫓、富士見多聞、道灌堀、西桔橋門跡、柚木門跡を経由して本丸に入り、北桔橋門までの動画になります。※aaaaaa殿・霞舞伎殿・こぱすてっく殿、広告ありがとさんでござんす♡ 江戸城其の一・西の丸下編→sm28993126江戸城其の二・内堀編→sm29038662江戸城其の三・本丸編→sm30167992江戸城其の四・北の丸編→sm32398282お城 → mylist/37297571
7:47|2018年12月23日 21:46:02 投稿
【同床異夢】尾張国末森城 平成30年(2018) 初冬
2018年11月上旬、愛知県名古屋市にある末森城址を訪れました。天文17年(1548年)、織田信長の父・織田信秀が築城し、信秀死後は信長の弟・織田信勝(信行)が城主となりました。永禄元年(1558年)、信勝は信長に謀反を疑われ謀殺され、廃城となったとされていますが、後に小牧・長久手の合戦の際、尾張を領有していた織田信雄によって整備されたと考えられているようです。名古屋城から東に6km程にある、標高45m(比高20m)の丘の上に築かれた平山城で、現在は城山八幡宮となっていますが、空堀跡等の遺構が良好に残っています。すぐ近くを地下鉄が通る街中に、これほどの中世城郭の遺構が残っていることに非常に感動しました。※Z.O.E.殿、ロース殿、霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす❤清洲城→sm28121483 名古屋城→sm30284154お城 → mylist/37297571
11:03|2018年11月18日 17:48:03 投稿
【小島一万石】駿河国小島陣屋 平成30年(2018) 晩秋
2018年10月中旬、静岡県静岡市にある小島陣屋跡を訪れました。宝永元年(1704年)、小島藩2代藩主・松平信治が築城し、小島藩1万石の陣屋ながらも枡形虎口や高い所で4mもある石垣が築かれ、幕末に廃藩を迎えるまで滝脇松平家の藩政の中心地でした。1万石の陣屋ながらも枡形虎口や石垣が良好に残っていることから、平成18年(2006年)に国の史跡に指定されており、 御殿の書院が小島町公会堂に移築されています。※2018年10月の訪問時、車のカーナビで「小島陣屋」が検索されなかったので、Google Mapで「小島陣屋跡」を目的地に設定しましたが、小島陣屋南の表門側に誘導されました。表門側には駐車スペースがなかったので、戻ろうとした所、近所の方が「駐車していいよ」と仰ってくれたので、駐車させて頂き足早に散策しましたが、陣屋の北側に5~6台は軽く止められる駐車スペースがありました。静岡市のHPには駐車場はないと記載してあったのですが、史跡としての整備が進んでいる所なので、行かれる方は事前に確認した方がよいと思います。※霞舞伎殿、飲兵衛、aaaaaa殿、広告ありがとさんでござんす❤お城 → mylist/37297571
5:15|2018年11月11日 17:53:02 投稿
【東照大権現】駿河国久能山城(久能山東照宮) 平成30年(2018) 晩秋
2018年10月中旬、静岡県静岡市にある久能山城址を訪れました。武田信玄が今川氏真の駿河に侵攻した後、永禄12年(1569年)頃に駿河湾を見下ろす久能山に築城しました。城から南は駿河湾と伊豆半島の西側を一望でき、北条水軍と徳川水軍を監視するのに絶好の場所で重要な拠点だったと思われます。武田氏滅亡後は徳川家康が支配し、家臣が城主を務めますが、元和2年(1616年)、徳川家康死去の際の遺言により、久能山城に家康は埋葬され、久能山城は廃城、久能山東照社になりました。正保2年(1645年)、今川直房(今川氏真嫡孫)と大老・酒井忠勝の交渉により、朝廷より宮号の宣下があり、東照社から東照宮となりました。現在、久能山城は久能山東照宮となり、中井正清が創建した御社殿は静岡県唯一の国宝建造物に指定されており、多くの観光客が訪れています。久能山城の遺構としてはっきりとしたものは残っていませんが、二ノ丸跡の石垣が城の石垣と伝わり、武田信玄の軍師の山本勘助が掘ったと伝わり、勘助の名がついた井戸等があります。※aaaaaa殿、霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす❤お城 → mylist/37297571
15:00|2018年11月04日 17:55:02 投稿
【枯樹生花】陸奥国三春城 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、福島県三春市にある三春城を訪れました。築城年は不明ですが、戦国時代には田村氏の居城だったようです。田村氏は小田原征伐に参加しなかったので、豊臣秀吉による奥州仕置で改易されました。蒲生氏時代には田丸具直や蒲生郷成が城主を務め。江戸時代には松下氏・秋田氏が居城としました。城は大志多山(おおしだやま)に築かれていますが、城山から見る周囲は山がちで平野は少なく、守るには不利な(各個撃破されやすく、すぐに城まで攻め込まれる)地形であるし、ここで勢力が大きくなることは難しいと思われ、戦国時代に伊達氏や蘆名氏や相馬氏や岩城氏に囲まれた田村氏は生き残りの為に苦労したのだろうと往時が偲ばれました。幕末の秋田氏の奥羽列藩同盟からの脱退も、田村氏の苦悩を時を越えて再現したかのように思えました。現在、城址は本丸等が公園として整備されており、蒲生氏時代の石垣等を見ることができます。※飲兵衛殿・aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす❤お城 → mylist/37297571
15:00|2018年10月28日 19:29:02 投稿
【直違】陸奥国二本松城 其の三 搦手~大隣寺編 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、福島県二本松市にある二本松城を訪れました。応永21年(1414年)頃、二本松満泰が築城したとされています。天正13年(1585年)、伊達政宗の父・伊達輝宗を二本松城に拉致しようとした二本松義継は、政宗によって輝宗と共に射殺され、翌年、二本松城も政宗の攻勢の前に開城しました。政宗は片倉景綱、伊達成実を城代としますが、政宗が岩出山に転封されると、蒲生氏郷家臣の蒲生郷成・町野重仍が城主を務めました。次いで上杉景勝が下条忠親を城代にしますが、再び蒲生氏が領主に復帰しました。寛永4年(1627年)、蒲生氏の代わりに加藤氏が会津に入ると松下重綱や加藤明利が城主となり、加藤氏の時代に大きな改修があったようです。寛永20年(1643年)、加藤氏が改易となり、丹羽光重が10万700石で入城し、三重の天守を築く等、大改修を行ったようです。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、丹羽氏は奥羽列藩同盟側として戦いますが、大半の藩兵が白河口に出陣している隙をつかれ、わずかな兵で応戦しますが、二本松城は落城・焼失してしまいます。守備兵の少ない二本松城での戦いでは、少年隊士が多数死傷しましたが、会津の白虎隊のような隊名もなかったようで、戦後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになったとのことです。現在、城跡は県立霞ヶ城公園として、箕輪門と附櫓の復元や本丸の天守台の石垣が整備されています。今回は本丸を下りて搦手門跡を通り丹羽氏菩提寺の大隣寺で、二本松少年隊の墓等をお参りします。※aaaaaa殿、霞舞伎殿、mogumogu殿、広告ありがとさんでござんす❤二本松城其の一 大手~三ノ丸編 → sm33981066 二本松城其の二 新城館~本丸編 → sm34018456お城 → mylist/37297571
15:00|2018年10月21日 19:33:02 投稿
【直違】陸奥国二本松城 其の二 新城館~本丸編 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、福島県二本松市にある二本松城を訪れました。応永21年(1414年)頃、二本松満泰が築城したとされています。天正13年(1585年)、伊達政宗の父・伊達輝宗を二本松城に拉致しようとした二本松義継は、政宗によって輝宗と共に射殺され、翌年、二本松城も政宗の攻勢の前に開城しました。政宗は片倉景綱、伊達成実を城代としますが、政宗が岩出山に転封されると、蒲生氏郷家臣の蒲生郷成・町野重仍が城主を務めました。次いで上杉景勝が下条忠親を城代にしますが、再び蒲生氏が領主に復帰しました。寛永4年(1627年)、蒲生氏の代わりに加藤氏が会津に入ると松下重綱や加藤明利が城主となり、加藤氏の時代に大きな改修があったようです。寛永20年(1643年)、加藤氏が改易となり、丹羽光重が10万700石で入城し、三重の天守を築く等、大改修を行ったようです。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、丹羽氏は奥羽列藩同盟側として戦いますが、大半の藩兵が白河口に出陣している隙をつかれ、わずかな兵で応戦しますが、二本松城は落城・焼失してしまいます。守備兵の少ない二本松城での戦いでは、少年隊士が多数死傷しましたが、会津の白虎隊のような隊名もなかったようで、戦後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになったとのことです。現在、城跡は県立霞ヶ城公園として、箕輪門と附櫓の復元や本丸の天守台の石垣が整備されています。今回は新城館から本丸を散策します。※ aaaaaa殿・mogumogu殿・ひまわっり殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす❤二本松城其の一 大手~三ノ丸編 → sm33981066 二本松城其の三 搦手門~大隣寺編 → sm34055371お城 → mylist/37297571
14:28|2018年10月14日 18:42:03 投稿
【直違】陸奥国二本松城 其の一 大手~三ノ丸編 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、福島県二本松市にある二本松城を訪れました。応永21年(1414年)頃、二本松満泰が築城したとされています。天正13年(1585年)、伊達政宗の父・伊達輝宗を二本松城に拉致しようとした二本松義継は、政宗によって輝宗と共に射殺され、翌年、二本松城も政宗の攻勢の前に開城しました。政宗は片倉景綱、伊達成実を城代としますが、政宗が岩出山に転封されると、蒲生氏郷家臣の蒲生郷成・町野重仍が城主を務めました。次いで上杉景勝が下条忠親を城代にしますが、再び蒲生氏が領主に復帰しました。寛永4年(1627年)、蒲生氏の代わりに加藤氏が会津に入ると松下重綱や加藤明利が城主となり、加藤氏の時代に大きな改修があったようです。寛永20年(1643年)、加藤氏が改易となり、丹羽光重が10万700石で入城し、三重の天守を築く等、大改修を行ったようです。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、丹羽氏は奥羽列藩同盟側として戦いますが、大半の藩兵が白河口に出陣している隙をつかれ、わずかな兵で応戦しますが、二本松城は落城・焼失してしまいます。守備兵の少ない二本松城での戦いでは、少年隊士が多数死傷しましたが、会津の白虎隊のような隊名もなかったようで、戦後に「二本松少年隊」と呼ばれるようになったとのことです。現在、城跡は県立霞ヶ城公園として、箕輪門と附櫓の復元や本丸の天守台の石垣が整備されています。今回は二本松駅から大手門跡、久保丁門跡、箕輪門を通り、麓の三ノ丸跡等を散策します。※飲兵衛殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。二本松城其の二 新城館~本丸編 → sm34018456 二本松城其の三 搦手門~大隣寺編 → sm34055371お城 → mylist/37297571
14:58|2018年10月07日 19:08:03 投稿
【松明あかし】陸奥国須賀川城 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、福島県須賀川市にある須賀川城を訪れました。応永6年(1399年)、二階堂行続が築城したと伝わり、二階堂氏の居城だったようですが、天正9年(1581年)、城主・二階堂盛義が死去後は、後室である大乗院(伊達晴宗の娘・阿南姫)が城主を務めましたが、伊達政宗の攻撃を受け、佐竹氏の援軍と共に防戦するも須賀川城は落城し、大乗院は佐竹家を頼り落ちのびていきました。伊達政宗は石川昭光に須賀川城を守らせますが、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置により、須賀川城は蒲生氏郷領となり、田丸具直が城主となりました。慶長3年(1598年)、上杉景勝が会津に入り、部下の栗田国時が愛宕山の城から一帯を統治しました。慶長6年(1601年)、蒲生秀行が会津藩主となると、家臣の蒲生郷成が須賀川城に入りました。寛永4年(1627年)、加藤嘉明が会津藩主となった後、まもなく廃城となったようです。現在、本丸跡は二階堂神社となっており、城の大部分は宅地化されていますが、周囲の寺院・神社に土塁や堀等の城の名残を見ることができます。また、二階堂神社は須賀川城攻防戦の故事に由来する「松明あかし」と呼ばれる須賀川の祭りで、ご神火を奉受する場所となっています。お城 → mylist/37297571
8:20|2018年09月30日 13:46:02 投稿
【小山評定】下野国小山城(祇園城) 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、栃木県小山市にある小山城(祇園城)を訪れました。築城時期は不明ですが、14世紀後半には記録に見える城のようです。15世紀頃に小山氏の本拠になったと考えられ、戦国時代には越後の上杉氏や相模の北条氏等に攻略されました。天正4年(1576)に、北条氏照によって祇園城は落城し、城主・小山秀綱は追放されました。小田原の役で、北条方についた小山氏は所領を没収され、旧小山領は弟である結城晴朝に与えられました。慶長12年 (1602)頃、 本多正純が入封しますが、 元和5年(1619)、宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となりました。 城は西の思川を天然の水堀として、南北に長い台地を堀切で区切った縄張になっており、現在は公園として整備されています。規模の大きな堀切や土塁は遺構として残っており、各曲輪の位置等は確認することができます。また、御殿跡も整備されており、御殿跡の隣の小山市役所には関ヶ原の決戦の直前に徳川家康が東軍諸将を集めて、西軍の石田三成との対決を決めた小山評定跡地の碑があり、歴史を感じられました。※飲兵衛 殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。お城 → mylist/37297571
15:00|2018年09月23日 20:14:02 投稿
【結城合戦】下総国結城城 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、茨城県結城市にある結城城を訪れました。治承年間(1177~1180)、結城朝光によって築城されたと伝わり、室町時代には結城氏は関東八屋形(宇都宮氏・小田氏・小山氏・佐竹氏・千葉氏・長沼氏・那須氏・結城氏)の一つに数えられる程に勢力を振るいましたが、 永享13年(1441)、結城合戦にて室町幕府と争い敗れ、結城城は落城し、一時衰退してしまいます。戦国時代には勢力を再び回復し、小田原合戦後に関東に入封した徳川家康の次男・秀康を養子に迎えました。関ヶ原の合戦後に秀康は越前移封となり、結城城は廃城となりましたが、 元禄13年(1700)、結城に転封となった水野勝長が結城城を再興しました。幕末には、結城城は佐幕派が籠りましたが、新政府軍に攻められ落城し、廃城となりました。今回の訪問は結城駅から水辺公園で掘割の跡を見学後、結城城址を散策し、結城蔵美館で天下三名槍の一つ「御手杵の槍」の複製品を見た後、最後に常光寺を訪れています。※霞舞伎殿・masa_ru3殿、広告ありがとさんでござんす。お城 → mylist/37297571
14:56|2018年09月16日 18:37:02 投稿
【避来矢】下野国唐沢山城 其の二 本丸~南城編 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、栃木県佐野市にある唐沢山城を訪れました。延長5年(927年)、藤原秀郷が築城したと伝わりますが、16世紀の中頃に現在の形に整えられたと考えられており、秀郷の子孫である佐野氏の居城でした。戦国時代には、上杉謙信が3万を超える北条軍に包囲された唐沢山城を敵中突破し救援したとされる伝説の舞台でもあり、城主・佐野昌綱は上杉・北条間で離反離合を繰り返し、戦国時代を生き抜きました。江戸時代に入り、江戸の大火に唐沢山城から気付いた城主・佐野信吉が江戸に早馬を出した所、江戸を見下ろせることを危惧した徳川家康により、廃城にさせられたとの逸話も伝わります。今回は本丸から長門丸・金の丸・南城を散策します。※aaaaaa殿、広告ありがとさんでござんす唐沢山城其の一 → sm33787143 佐野氏の佐野城 → sm33748431お城 → mylist/37297571
10:09|2018年09月09日 18:10:02 投稿
【避来矢】下野国唐沢山城 其の一 城下~二の丸編 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、栃木県佐野市にある唐沢山城を訪れました。延長5年(927年)、藤原秀郷が築城したと伝わりますが、16世紀の中頃に現在の形に整えられたと考えられており、秀郷の子孫である佐野氏の居城でした。戦国時代には、上杉謙信が3万を超える北条軍に包囲された唐沢山城を敵中突破し救援したとされる伝説の舞台でもあり、城主・佐野昌綱は上杉・北条間で離反離合を繰り返し、戦国時代を生き抜きました。江戸時代に入り、江戸の大火に唐沢山城から気付いた城主・佐野信吉が江戸に早馬を出した所、江戸を見下ろせることを危惧した徳川家康により、廃城にさせられたとの逸話も伝わります。今回は吉水駅から佐野氏の先祖の藤原秀郷公のお墓に参ってから、佐野氏の清水城址を見学後、唐沢山城の二の丸跡までを散策します。※霞舞伎殿、aaaaaa 殿、広告ありがとさんでござんす佐野氏の佐野城 → sm33748431唐沢山城其の二 → sm33829226 お城 → mylist/37297571
14:42|2018年09月01日 21:11:02 投稿
【春日岡】下野国佐野城 平成30年(2018) 初秋
2018年の8月中旬、栃木県佐野市にある佐野城を訪れました。慶長7年(1602年)、佐野信吉が築城した城で、南北に長い独立した丘陵を利用した平山城でした。主要部は南から三の丸・二の丸・本丸・北出丸と造られ、二の丸~北出丸間は大きな堀切で区切られています。慶長19年 (1614年)、佐野氏は突如として改易となり、佐野城も廃城となりました。現在、城址は佐野城山公園として整備され、南の佐野駅から三の丸に直結しています。訪問した当日は「さの秀郷まつり」が行われており、城址東の城東中学校で秀郷流流鏑馬(ひでさとりゅうやぶさめ)を見ることができました。※aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす佐野氏の唐沢山城 → sm33787143 お城 → mylist/37297571
12:00|2018年08月25日 20:46:07 投稿
【一つ葵】三河国西尾城 其の三 東之丸~惣構え編 平成30年(2018) 初夏
2018年の6月上旬、愛知県西尾市にある西尾城を訪れました。承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏が築城した西条城が城の始まりと伝えられ、足利氏は吉良氏と改め、この地を治めました。戦国時代末には、牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主が代り、城域も次第に拡張しました。慶長6年(1601)に本多康俊が西尾2万石の城主として入り、松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏等の譜代大名が城主を務めました。寛永15年(1638)、太田資宗が惣構えの改修に着手し、明暦3年(1657)、井伊直好が受け継ぎ完成しました。明和元年(1764)、出羽山形から大給(おぎゅう)松平氏が6万石で入城し、廃藩まで5代続きました。平成8年(1996)3月に本丸丑寅(うしとら)櫓、鍮石門 (ちゅうじゃくもん)等を復元し、西尾市歴史公園として整備され、平成26年(2014)3月には二之丸北側の整備が行われ、天守台などが復元されました。 今回は東之丸跡の尚古荘や惣構えの門跡等を散策します。※霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。 広告の背景の「一つ葵」の家紋の屋根瓦は、動画のサムネイルにしようかと、 順海町の景色と最後まで悩んでいたものです。※ ロース殿、aaaaaa殿、広告ありがとうでござる。西尾城其の一・大手~本丸編 → sm33410875西尾城其の二・姫丸~二之丸編 → sm33454541 お城 → mylist/37297571
14:56|2018年07月08日 18:17:02 投稿
【一つ葵】三河国西尾城 其の二 姫丸~二之丸編 平成30年(2018) 初夏
2018年の6月上旬、愛知県西尾市にある西尾城を訪れました。承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏が築城した西条城が城の始まりと伝えられ、足利氏は吉良氏と改め、この地を治めました。戦国時代末には、牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主が代り、城域も次第に拡張しました。慶長6年(1601)に本多康俊が西尾2万石の城主として入り、松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏等の譜代大名が城主を務めました。寛永15年(1638)、太田資宗が惣構えの改修に着手し、明暦3年(1657)、井伊直好が受け継ぎ完成しました。明和元年(1764)、出羽山形から大給(おぎゅう)松平氏が6万石で入城し、廃藩まで5代続きました。平成8年(1996)3月に本丸丑寅(うしとら)櫓、鍮石門 (ちゅうじゃくもん)等を復元し、西尾市歴史公園として整備され、平成26年(2014)3月には二之丸北側の整備が行われ、天守台などが復元されました。 今回は姫丸と西尾市資料館を見た後に、二之丸の旧近衛邸・天守台等を散策します。※aaaaaa殿 ・ 霞舞伎殿、広告ありがとうでござる西尾城其の一・大手~本丸編 → sm33410875西尾城其の三・東之丸~惣構え → sm33493127 お城 → mylist/37297571
14:46|2018年07月01日 19:46:03 投稿
【一つ葵】三河国西尾城 其の一 大手~本丸編 平成30年(2018) 初夏
2018年の6月上旬、愛知県西尾市にある西尾城を訪れました。承久の乱(1221)の戦功により三河国の守護に任じられた足利義氏が築城した西条城が城の始まりと伝えられ、足利氏は吉良氏と改め、この地を治めました。戦国時代末には、牧野成定、酒井正親、田中吉政と城主が代り、城域も次第に拡張しました。慶長6年(1601)に本多康俊が西尾2万石の城主として入り、松平氏、本多氏、太田氏、井伊氏、増山氏、土井氏、三浦氏等の譜代大名が城主を務めました。寛永15年(1638)、太田資宗が惣構えの改修に着手し、明暦3年(1657)、井伊直好が受け継ぎ完成しました。明和元年(1764)、出羽山形から大給(おぎゅう)松平氏が6万石で入城し、廃藩まで5代続きました。平成8年(1996)3月に本丸丑寅(うしとら)櫓、鍮石門 (ちゅうじゃくもん)等を復元し、西尾市歴史公園として整備され、平成26年(2014)3月には二之丸北側の整備が行われ、天守台などが復元されました。 今回は西尾駅から丁田門跡を通って惣構えに入り、大手門跡から三之丸、鍮石門から二之丸に入り、裏門跡から本丸に入り、本丸丑寅櫓まで散策します。※霞舞伎殿、aaaaaa殿、広告ありがとうでござる。西尾城其の二・姫丸~二之丸編 → sm33454541 お城 → mylist/37297571
15:00|2018年06月23日 22:08:05 投稿
【金碧輝煌】尾張国名古屋城本丸御殿 平成30年(2018) 仲夏
2018年の6月上旬、愛知県名古屋市にある名古屋城本丸御殿を訪れました。慶長20年(1615年)に完成し、翌年、名古屋城城主・徳川義直が居住しました。寛永11年(1634年) の徳川家光の上洛に合わせて、上洛殿が増築されました。近世城郭御殿の最高傑作と言われ国宝に指定されていた建物でしたが、1945年5月14日、太平洋戦争の空襲により、天守と共に焼失しました。2009年、本丸御殿復元工事に着手し、2013年5月、第1期公開(玄関・表書院)を開始、2016年6月、第2期公開(対面所・下御膳所)を開始、2018年6月8日に完成公開となりました。玄関の「竹林豹虎図」、上洛殿の「雪中梅竹鳥図」等の襖絵や、絢爛豪華な彫刻欄間や天井板絵等、眩いばかりの装飾で彩られた御殿です。※しのしの殿・aaaaaa殿、広告ありがとうでござる。名古屋城其の一、本丸編→sm30284154名古屋城其の二、御深井丸編→sm30356297名古屋城其の三、二の丸編→sm30397049名古屋城其の四、三の丸編→sm30441321 お城→mylist/37297571
15:00|2018年06月10日 21:00:37 投稿
【一夜城】美濃国墨俣城 平成30年(2018) 初夏
2018年の5月上旬、岐阜県大垣市にある墨俣城を訪れました。築城時期は不明ですが、永禄4年(1561年)または永禄9年 (1566年)の織田信長の美濃侵攻で、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が洲股(墨俣)の地に、わずかな期間で城を築いたと伝えられ、墨俣一夜城の伝説として有名です。当時は木曽川と長良川の合流地点に築かれたそうですが、その後、木曽川の流れが変わった為、城があったとされる場所に模擬天守(大垣市墨俣歴史資料館)が建てられています。斉藤恵那殿・しのしの殿、広告ありがとうでござる<(_ _)>後に秀吉が城主となった長浜城→sm31336330小田原の陣の一夜城→sm28463210模擬天守の元となった大垣城→sm30763005お城→mylist/37297571
6:12|2018年06月03日 19:25:34 投稿
【美濃の本丸】美濃国加納城と川手城 平成30年(2018) 初夏
2018年の5月上旬、岐阜県岐阜市にある加納城を訪れました。文安2年(1445年)、同地に土岐氏の家宰の斎藤利永が沓井城(くついじょう)を築城しましたが、天文7年(1538年)にはすでに廃城となりました。関ヶ原の合戦後、岐阜城が破却され、慶長7年(1602年)に加納城が築城されました。徳川家康が近隣の大名を動員し、普請奉行は本多忠勝が務める「天下普請」で築城し、奥平信昌が10万石で城主となりました。東の荒田川から水を引き、二重の水堀で守られた水の平城だったようです。明治を迎え廃城となり、現在は本丸は加納公園となっており、石垣等は残っていますが、建物等はありません。本丸以外は住宅地や学校等になってしまっていますが、二の丸の北東隅の石垣等が確認できます。近くの土岐氏の居城であった川手城にも訪れているのですが、現在、済美高校の敷地となっているので、石碑と案内しか確認できませんでした。※しのしの殿、広告ありがとうございまする。タグを追加してくれた方もありがとうございます<(_ _)>お城→mylist/37297571
15:00|2018年05月27日 19:23:30 投稿
【鳥峰】美濃国金山城 平成30年(2018) 初夏
2018年の4月下旬、岐阜県可児市にある美濃金山城を訪れました。天文6年(1537年)、美濃国の斎藤道三の一族の斎藤正義(まさよし)が築城したとされ、織田信長の美濃攻略後は、信長の家臣の森可成(よしなり)が城主となりました。以後、森長可(ながよし)・森成利(なりとし・蘭丸)・森忠政(ただまさ)と森氏が城主を務め、関ヶ原の合戦後、森氏が川中島へ転封となると、城は石川貞清の所有となった後、廃城になったようです。北に木曽川が流れる標高270m(比高170m)程の山頂に築かれた山城で、森忠政の頃には天守があったようですが、現在は建物はなく、石垣が残っています。山頂の本丸からは北の木曽川、西の木曽川と飛騨川の合流地点が一望でき、木曽川の河上輸送を抑える要衝であったと推測できました。現在、現地の地名は兼山となっていますが、これは明暦2年(1656年)に金山村から兼山村に改名されたからだそうです。※美濃金山城パンフレットよりしのしの殿、広告ありがとうござりまする。お城→mylist/37297571
14:57|2018年05月20日 18:51:34 投稿
【忠臣護佐丸】琉球国中城(なかグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、 沖縄県中頭郡中城村の中城(なかグスク)を訪れました。築城は、14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したとされています。かつて、貿易が行われていた屋宜の港から2kmほど離れた標高160mの丘の上にあり、東に太平洋、西に東シナ海、北東に勝連半島を一望できる要衝の地に築かれています。中城城主の護佐丸盛春は勝連城の阿麻和利を抑える為に入城しますが、阿麻和利の策略により、護佐丸に謀反の疑いありと誤解した中山王・尚泰久が中城に軍勢を派遣し、護佐丸は中山の軍に抵抗することはなく、城門を開き自害したといわれています。1853年に来島したペリー探検隊一行が現地調査を行い、城壁やアーチ門の素晴らしさを賞賛し、画家のハイネもその時の絵を残しています。2000年には、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産に登録されています。護佐丸が築城した「座喜味グスク」→sm33092887北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989阿麻和利の居城「勝連グスク」→sm33168574お城→mylist/37297571
14:26|2018年05月13日 17:13:25 投稿
【肝高】琉球国勝連城(かつれんグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、 沖縄県うるま市の勝連(かつれん)グスクを訪れました。13~14世紀に茂知附(もちづき)按司(あじ)によって築城されたとされ、勝連半島の付け根にある標高80m程の丘の上にあります。15世紀の初め、阿麻和利(あまわり)が城主となり、大和の鎌倉に例えられる程の繁栄をみせますが、護佐丸・阿麻和利の乱で、中山(首里)の軍勢に攻められ、勝連グスクは落城、阿麻和利は自害しました。一の郭~四の郭と東の郭の五つの郭からなるグスクで、布積みの綺麗な城壁に蘇鉄の木が印象的でした。2000年には、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産に登録されています。護佐丸が築城した「座喜味グスク」→sm33092887北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989護佐丸最期の城「中グスク」→sm33203091お城→mylist/37297571
14:58|2018年05月06日 19:00:28 投稿
【北山王】琉球国今帰仁城(なきじんグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、 沖縄県国頭郡今帰仁村の今帰仁(なきじん)グスクを訪れました。築城年は不明ですが、13世紀頃に築城されたと思われ、14~15世紀、琉球王国統一以前の北山の国王、帕尼芝(はにし)・ 珉(みん)・ 攀安知(はんあんち)の三代が居城としていましたが、1422年、巴志中山軍の攻撃により、北山王朝は滅び、巴志の次男の尚忠が北山監守になりました。1609年、薩摩軍の侵攻の際、城内の建物が焼失し、1665年、七代目監守従憲の時、首里に引き上げとなり廃城となりました。標高100m程の山の上に築かれたグスクで、九つの郭からなり、県内でも最大級の大きさを誇り、曲折した城壁や御嶽(うたき)等の拝所があり、2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に登録されました。護佐丸が築城した「座喜味グスク」→sm33092887阿麻和利の居城「勝連グスク」→sm33168574護佐丸最期の城「中グスク」→sm33203091お城→mylist/37297571※タグを追加してくれた方ありがとうございます
14:47|2018年04月29日 22:12:35 投稿
【読谷山】琉球国座喜味城(ざきみグスク) 平成30年(2018) 晩春
2018年の4月中旬、沖縄県中頭郡読谷村にある座喜味(ざきみ)グスクを訪れました。15世紀初期、読谷山の按司(あじ=王族)の護佐丸(ごさまる)が築城したと伝わり、沖縄島中南部の座喜味集落の北端に位置し、標高127mの山頂に築かれました。沖縄島中南部のグスクは琉球石灰岩崖上に築城されることが多いですが、このグスクは国頭マージ(赤~黄色の土壌)の台地上に立地しています。石灰岩の城壁は屏風状に屈曲しており、カーブの各角に丸みをもつ沖縄特有の城郭形態をしており、アーチ型の拱門(きょうもん)の上部にはめこまれているくさび石はこのグスクにしか見られないそうです。2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺跡群」として世界遺産に登録されました。動画の途中には泊城(トゥマイグシク)跡も登場します。※城址・史跡巡り備忘録 殿、広告ありがとうでござる※タグを追加してくれた方ありがとうございます北山王の居城「今帰仁グスク」→sm33128989阿麻和利の居城「勝連グスク」→sm33168574護佐丸最期の城「中グスク」→sm33203091お城→mylist/37297571
9:24|2018年04月22日 20:42:11 投稿
【松風】肥前国唐津城 平成30年(2018) 仲春
2018年の3月上旬、佐賀県唐津市にある唐津城を訪れました。関ヶ原の戦いで、東軍につき唐津・天草12万3千石の領主となった寺沢広高が慶長7年(1602)に築城を開始し、慶長13年(1608)に完成しました。唐津平野を流れる松浦川の河口にある満島山(まんとうざん)に築かれた平山城で、城の北側は唐津湾に面しており、船入門や水手門等、海に出られる海城でもありました。 また、寺沢広高は新田開発の一環として、防風林・防砂林の植樹を行い、後の虹の松原を整備しました。 天守台は造られたようですが、天守はなかったようで、昭和41年(1966)に鉄筋コンクリートの模擬天守が建てられました。 現在、城は舞鶴公園として整備され、模擬天守からは北は玄海灘、東に虹の松原、 南に唐津市街を見渡せる眺望絶佳の地となっています。 動画の後半は初代城主・寺沢広高の墓がある鏡神社も訪れています。 ※しのしの殿・世界の味殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。お城→mylist/37297571
9:00|2018年03月18日 19:05:11 投稿
【一場春夢】山城国伏見城 平成30年(2018) 初春
2018年の2月下旬、京都府伏見区にある伏見城址を訪れました。 文禄3年(1594)、豊臣秀吉は指月(しげつ)伏見城を築きますが、慶長伏見地震で天守が倒壊し、慶長元年(1596)、秀吉は木幡山(こはたやま)に木幡山伏見城を築城しました。秀吉は木幡山伏見城で亡くなりました。関ヶ原の前哨戦の伏見城の戦いで、石田三成等の西軍の大軍が攻め寄せ、伏見城は落城・焼失。徳川家康の重臣・鳥居元忠等は討死にしました。関ヶ原の合戦後、徳川家康によって伏見城は再建されますが、元和9年(1623)、廃城となりました。昭和39年(1964)、近鉄が遊園地の伏見桃山城キャッスルランドを建設し、シンボルとして天守(伏見桃山城)が木幡山伏見城の北西跡に築かれました。平成15年(2003)、同園も閉園し、天守も解体されるはずでしたが、地元の要望によって残されることになりました。開園時は天守の中に入れましたが、耐震性不十分の為、現在は中に入れなくなっています。伏見城の周りには、現在でも当時の大名屋敷の名残を町名に残し、御香宮神社の前には黒田節発祥の地と説明があるなど、周囲を散策するだけでも楽しめました。※しのしの殿、広告ありがとうございまする。お城→mylist/37297571
13:18|2018年03月04日 18:59:28 投稿
【十五万石】三河国吉田城 其の二 本丸~三ノ丸東編 平成30年(2018) 晩冬
2018年の1月下旬、愛知県豊橋市にある吉田城址を訪れました。永正2年(1505年)、牧野古白が今橋城を築城したのが始まりと言われ、戦国時代には戸田氏と牧野氏で城主がめまぐるしく変わります。今川義元が三河に進出すると、家臣・小原鎮実が城主となり。松平(徳川)家康が吉田を攻め、酒井忠次が城主を務めました。天正18年(1590)、池田輝政が15万2千石で吉田城主となり、11年間に渡り城の改修や城下町の整備を行いました。江戸時代には東海道の要衝として、譜代大名が城主を務め、明治を迎え廃城となりました。現在、城址は豊橋公園となり、鉄櫓が模擬再建されています。※ JT殿、広告ありがとさんでござんす♡吉田城其の一→sm32654282お城→mylist/37297571
13:00|2018年02月03日 21:39:52 投稿
【十五万石】三河国吉田城 其の一 大手門~本丸編 平成30年(2018) 晩冬
2018年の1月下旬、愛知県豊橋市にある吉田城址を訪れました。永正2年(1505年)、牧野古白が今橋城を築城したのが始まりと言われ、戦国時代には戸田氏と牧野氏で城主がめまぐるしく変わります。今川義元が三河に進出すると、家臣・小原鎮実が城主となり。松平(徳川)家康が吉田を攻め、酒井忠次が城主を務めました。天正18年(1590)、池田輝政が15万2千石で吉田城主となり、11年間に渡り城の改修や城下町の整備を行いました。江戸時代には東海道の要衝として、譜代大名が城主を務め、明治を迎え廃城となりました。現在、城址は豊橋公園となり、鉄櫓が模擬再建されています。吉田城其の二→sm32683435お城→mylist/37297571
13:46|2018年01月28日 20:52:30 投稿
【良禽択木】伊勢国津城(安濃津城) 其の二 平成30年(2018) 晩冬
2018年の1月、三重県津市にある津城址を訪れました。津はかつて安濃津(あのつ)と呼ばれ、古くから港町として栄えており、筑前の博多津と共に三津の一つでした。(三つ目は摂津の堺津又は薩摩の坊津)永禄年間(1558-1569年)に、長野氏の一族の細野藤光が安濃川・岩田川の間に安濃津城を築いたのが起源とされ、その後は織田信長の伊勢侵攻により、織田信包が入城、石垣や堀、五重の天守のある城に改修しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、城主・富田信高は東軍についた為、毛利秀元率いる西軍の攻撃を受け開城しました。慶長13年(1608年)、築城の名手と知られる藤堂高虎が入城、大改修を施しました。津城其の一→sm32554204お城→mylist/37297571
15:00|2018年01月14日 20:24:16 投稿
【伊勢は津で持つ】伊勢国津城(安濃津城) 其の一 平成30年(2018) 晩冬
2018年の1月、三重県津市にある津城址を訪れました。津はかつて安濃津(あのつ)と呼ばれ、古くから港町として栄えており、筑前の博多津と共に三津の一つでした。(三つ目は摂津の堺津又は薩摩の坊津)永禄年間(1558-1569年)に、長野氏の一族の細野藤光が安濃川・岩田川の間に安濃津城を築いたのが起源とされ、その後は織田信長の伊勢侵攻により、織田信包が入城、石垣や堀、五重の天守のある城に改修しました。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、城主・富田信高は東軍についた為、毛利秀元率いる西軍の攻撃を受け開城しました。慶長13年(1608年)、築城の名手と知られる藤堂高虎が入城、大改修を施しました。津城其の二→sm32584829お城→mylist/37297571
15:00|2018年01月08日 20:53:01 投稿
【風雲急】尾張国鳴海城 平成29年(2017) 仲冬
2017年の12月、愛知県名古屋市にある鳴海城址を訪れました。応永年中(1394~1427)、安原宗範が築城したと伝わり、永禄三年(1560)の桶狭間の戦いの直前に、織田方の城主の山口教継が今川方に裏切り、岡部元信が城主となりました。桶狭間の合戦で今川方が敗北・撤退しますが、岡部元信は鳴海城に留まり、鳴海城の開城を条件に主、今川義元の首級を織田方から取り返す見事な働きをみせました。現在は鳴海城址公園として整備され、遺構をほとんどありませんが、高台にある本丸跡からは北西の清洲城、南西の大高城方面を一望できます。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡信長が桶狭間へ出陣した清洲城→sm28121483お城→mylist/37297571
9:20|2017年12月24日 20:17:26 投稿
【埋もれた古城】武蔵国世田谷城 平成29年(2017) 仲冬
2017年の12月、東京都世田谷区にある世田谷城址を訪れました。貞治5年(1366)、吉良治家が築城したと伝わり、世田谷御所とも呼ばれ、吉良氏が200年間治めましたが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の後北条氏討伐により、後北条氏と縁戚関係であった吉良氏朝は上総国生実に逃れ、世田谷城は廃城となりました。井伊家の菩提寺である豪徳寺は吉良氏の御所跡と考えられ、城跡の南の一部が世田谷城阯公園として整備されており、土塁と堀跡を確認することができます。昭和には、狐狸庵先生こと遠藤周作先生がここを訪れたことが短編「埋もれた古城」を執筆するきっかけとなりました。※漫画『東京城址女子高生』の第1話の舞台でもあります。※招き猫殿、広告ありがとさんでござんす♡井伊家の彦根城→sm32027826お城→mylist/37297571
7:50|2017年12月17日 19:57:28 投稿
【天下無双】武蔵国江戸城 北の丸編 平成29年(2017) 仲冬
2017年の12月、東京都千代田区にある江戸城を訪れました。長禄元年(1457)、扇谷上杉氏の家臣、太田道灌が築城し、慶長8年(1603)、征夷大将軍となった徳川家康が天下普請により、天下人にふさわしい日本史上最大の城郭を築きました。今回は北の丸を散策します。江戸城西の丸下編→sm28993126江戸城内堀編→sm29038662江戸城本丸編→sm30167992江戸城西丸(乾通り一般公開秋)編→sm34363339お城→mylist/37297571
13:30|2017年12月10日 18:27:14 投稿
【百万石】加賀国金沢城 其の三 石川門~城下町編 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月下旬、石川県金沢市にある金沢城を訪れました。天文15年(1546)、本願寺の一向一揆の衆が尾山御坊を建立し、天正8年(1580)、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称しました。天正11年(1583)、 賤ヶ岳の戦いの後に前田利家が入城し、高山右近が改修を担当しました。幕末まで加賀百万石の居城として前田氏が城主を務めました。今回は石川門から兼六園、妙立寺、にし茶屋街、長町武家屋敷跡、東内惣構跡、ひがし茶屋街を散策します。其の一(大手~二ノ丸編)→sm32221765其の二(二ノ丸~本丸編)→sm32253321お城→mylist/37297571
15:00|2017年11月19日 18:33:28 投稿
【百万石】加賀国金沢城 其の二 二ノ丸~本丸編 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月下旬、石川県金沢市にある金沢城を訪れました。天文15年(1546)、本願寺の一向一揆の衆が尾山御坊を建立し、天正8年(1580)、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称しました。天正11年(1583)、 賤ヶ岳の戦いの後に前田利家が入城し、高山右近が改修を担当しました。幕末まで加賀百万石の居城として前田氏が城主を務めました。今回は二ノ丸~本丸を散策します。其の一(大手~二ノ丸編)→sm32221765其の三(鶴ノ丸~城下町編)→sm32293058お城→mylist/37297571
14:58|2017年11月12日 19:00:00 投稿
【百万石】加賀国金沢城 其の一 大手~二ノ丸編 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月下旬、石川県金沢市にある金沢城を訪れました。天文15年(1546)、本願寺の一向一揆の衆が尾山御坊を建立し、天正8年(1580)、佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、金沢城と改称しました。天正11年(1583)、 賤ヶ岳の戦いの後に前田利家が入城し、高山右近が改修を担当しました。幕末まで加賀百万石の居城として前田氏が城主を務めました。今回は大手~二ノ丸を散策します。※霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす其の二(二ノ丸~本丸編)→sm32253321お城→mylist/37297571
15:00|2017年11月05日 19:49:15 投稿
【過ぎたるもの】近江国佐和山城 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月中旬、滋賀県彦根市にある佐和山城址を訪れました。建久年間(1190~1199年)に、近江守護職であった佐々木定綱の六男・佐保時綱が築いた砦が始まりとされ。戦国時代には北近江に勢力を振るった浅井氏に従った礒野員昌(いそのかずまさ)が城主を務め、織田信長の侵攻の前に8ヶ月もの籠城戦に耐えました。丹羽長秀・堀尾吉晴が城主を務めた後、石田三成が近江佐和山19万4,000石で城主となりました。関ヶ原の合戦後、佐和山城は東軍の攻撃により落城、三成の父・正継や兄・正澄等の一族は自害しました。城は徹底的に破城されましたが、本丸からは石田三成も見たであろう近江の景色を眺望できます。佐和山城の石垣を転用した彦根城→sm32027826お城→mylist/37297571
11:20|2017年10月29日 20:22:21 投稿
【三十五万石】近江国彦根城 其の四 大手~埋木舎編 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月中旬、滋賀県彦根市にある彦根城を訪れました。慶長8年(1603年)、関ヶ原の合戦の傷が元で死去した井伊直政の子の井伊直継が築城を開始し、7か国12大名が普請を手伝い、元和8年(1622年)、天下普請の城として彦根城が完成しました。井伊氏は徳川幕府筆頭の家臣として、後に35万石を擁し、大老職を5代6度務める等、譜代大名筆頭の家柄を誇りました。琵琶湖のほとりに築かれた城もその家格にふさわしく素晴らしいものでした。今回は大手門から米蔵、西の二ノ丸、船町口門跡、西の三郭、埋木舎を散策します。其の一(佐和口~天守編)→sm32027826其の二(本丸~山崎曲輪編)→sm32064861其の三(二ノ丸東~二ノ丸南編)→sm32103432お城→mylist/37297571
14:00|2017年10月22日 19:23:49 投稿
【三十五万石】近江国彦根城 其の三 二ノ丸編 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月中旬、滋賀県彦根市にある彦根城を訪れました。慶長8年(1603年)、関ヶ原の合戦の傷が元で死去した井伊直政の子の井伊直継が築城を開始し、7か国12大名が普請を手伝い、元和8年(1622年)、天下普請の城として彦根城が完成しました。井伊氏は徳川幕府筆頭の家臣として、後に35万石を擁し、大老職を5代6度務める等、譜代大名筆頭の家柄を誇りました。琵琶湖のほとりに築かれた城もその家格にふさわしく素晴らしいものでした。今回は松原内湖跡から二ノ丸を散策します。其の一(佐和口~天守編)→sm32027826其の二(本丸~山崎曲輪編)→sm32064861其の四(大手~埋木舎編)→sm32140919お城→mylist/37297571
13:00|2017年10月15日 19:09:20 投稿
【三十五万石】近江国彦根城 其の二 本丸~山崎郭編 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月中旬、滋賀県彦根市にある彦根城を訪れました。慶長8年(1603年)、関ヶ原の合戦の傷が元で死去した井伊直政の子の井伊直継が築城を開始し、7か国12大名が普請を手伝い、元和8年(1622年)、天下普請の城として彦根城が完成しました。井伊氏は徳川幕府筆頭の家臣として、後に35万石を擁し、大老職を5代6度務める等、譜代大名筆頭の家柄を誇りました。琵琶湖のほとりに築かれた城もその家格にふさわしく素晴らしいものでした。今回は本丸から西ノ丸、山崎曲輪を散策します。其の一(佐和口~天守編)→sm32027826其の三(山崎曲輪~二ノ丸編)→sm32103432お城→mylist/37297571
13:20|2017年10月08日 18:47:12 投稿
【三十五万石】近江国彦根城 其の一 佐和口~天守編 平成29年(2017) 仲秋
2017年の9月中旬、滋賀県彦根市にある彦根城を訪れました。慶長8年(1603年)、関ヶ原の合戦の傷が元で死去した井伊直政の子の井伊直継が築城を開始し、7か国12大名が普請を手伝い、元和8年(1622年)、天下普請の城として彦根城が完成しました。井伊氏は徳川幕府筆頭の家臣として、後に35万石を擁し、大老職を5代6度務める等、譜代大名筆頭の家柄を誇りました。琵琶湖のほとりに築かれた城もその家格にふさわしく素晴らしいものでした。今回は佐和口~本丸を散策します。其の二(本丸~西ノ丸・山崎曲輪編)→sm32064861お城→mylist/37297571
15:00|2017年10月01日 20:13:17 投稿
【一藩百義】陸奥国白河小峰城 其の二 二ノ丸~搦手編 平成29年(2017) 初秋
2017年の8月中旬、福島県白河市にある白河小峰城を訪れました。前回は大手道~本丸を散策し、今回は二ノ丸~搦手を散策します。東日本大震災の影響でまだまだ散策できる範囲が限られていますが、天守相当の建築物として日本で最初の木造復元である三重櫓や、丹羽長重が築いた石垣等は必見です。震災からの完全復活にはまだまだ時間がかかりそうですが、復興を目に焼き付け、応援する為に訪れてもよいのではないでしょうか。※世界の味殿、広告ありがとさんでござんす。其の一(大手~本丸編)→sm31943811お城→mylist/37297571
14:30|2017年09月24日 20:18:13 投稿
【白河以北】陸奥国白河小峰城 其の一 大手~本丸編 平成29年(2017) 初秋
2017年の8月中旬、福島県白河市にある白河小峰城を訪れました。14世紀中頃、結城親朝が小峰ヶ岡に築城したのが始まりと言われ、江戸幕府成立後の寛永四年(1627)に、初代白河藩主となった丹羽長重が大改修を行い、現在の白河の町の基礎ができあがりました。築城の名手、長重が奥州の大名の抑えとして築いた城は、北方の守りを意識して造られ、10万石には稀な総石垣造りの大城郭となっています。その後、榊原・本多・松平(奥平)・松平(結城)・松平(久松)・阿部と城主が代りましたが、戊辰の頃は城主不在の幕府領となり、奥羽列藩同盟と新政府軍との戦闘により、城と城下町の一部が焼失しました。今回は大手道~本丸を散策します。※世界の味殿、広告ありがとさんでござんす。其の二(二ノ丸~搦手編)→sm31986368お城→mylist/37297571
14:30|2017年09月17日 21:50:32 投稿
【金風】陸奥国会津新宮城と長床 平成29年(2017) 初秋
2017年の8月中旬、福島県喜多方市にある会津新宮城址を訪れました。建暦2年(1212年)に佐原義連の孫・新宮時連が築城したと伝わり、室町時代に入ると同族の蘆名氏と争い、応永27年(1420年)に新宮城は落城し、新宮氏は越後国に逃れますが、蘆名氏によって滅ぼされました。城は会津盆地の北西に位置し、主郭が東西100~120m、南北に120m~130m、外郭は東西480m、南北約440mと戦国時代以前の城としては大規模だったようですが、現在、容易に確認できるのは主郭跡と南の外堀跡で、他は農地等になっています。動画で城は5分半くらいですが、その後に近くの新宮熊野神社にも訪れています。こちらは重要文化財の長床と蘆名氏の重臣・富田氏実の書状等を見ることができます。お城→mylist/37297571
14:30|2017年09月10日 17:46:39 投稿
【小十郎】陸奥国白石城 平成29年(2017) 初秋
2017年の8月中旬、宮城県白石市にある白石城を訪れました。鎌倉時代に刈田経元が築城したとされ、刈田氏は後に白石氏を名乗り、白石宗実が天正14年(1586)に国替えで安達郡宮森城に移り、屋代景頼が城主となりました。後に蒲生氏郷の会津入封に伴い、蒲生郷成が城主となり、城名を益岡城に改め、城郭を大改修しました。上杉景勝の家臣の甘粕景継が城主となると城名を白石城に戻し。江戸時代には伊達政宗の家臣、片倉小十郎景綱が城主となり、明治の廃城まで片倉氏の居城となりました。1997年に三階櫓(天守)・大手の一ノ門と二ノ門・土塀が復元されました。国内でも有数の木造復元の素晴らしい天守を見ることができます。仙台城→sm31781665岩出山城→sm24603519お城→mylist/37297571
17:25|2017年09月02日 21:49:43 投稿
【独眼竜】陸奥国仙台城 其の二 三ノ丸・二ノ丸編 平成29年(2017) 初秋
2017年の8月中旬、宮城県仙台市にある仙台城(青葉城)を訪れました。伊達政宗の築城以前は、国分氏の千代城があったとされ、現在の仙台城は、関ヶ原の合戦後、伊達政宗によって築城されました。仙台平野を一望できる青葉山に築かれた仙台城(本丸の標高は約120m)は、北と東を流れる広瀬川が天然の堀となり、南は深さ約40mの竜ノ口渓谷が遮断し、西は青葉山の丘陵が続く天然の要害となっています。国宝に指定されていた大手門は1945年の仙台空襲により焼失しました。現在は大手門の隅櫓が復元されています。今回は二ノ丸と三ノ丸を散策しています。仙台城其の一(大手~本丸編)→sm31781665岩出山城→sm24603519若林城→sm21747404お城→mylist/37297571
9:20|2017年08月26日 22:37:16 投稿
【独眼竜】陸奥国仙台城 其の一 大手~本丸編 平成29年(2017) 初秋
2017年の8月中旬、宮城県仙台市にある仙台城(青葉城)を訪れました。伊達政宗の築城以前は、国分氏の千代城があったとされ、現在の仙台城は、関ヶ原の合戦後、伊達政宗によって築城されました。仙台平野を一望できる青葉山に築かれた仙台城(本丸の標高は約120m)は、北と東を流れる広瀬川が天然の堀となり、南は深さ約40mの竜ノ口渓谷が遮断し、西は青葉山の丘陵が続く天然の要害となっています。国宝に指定されていた大手門は1945年の仙台空襲により焼失しました。現在は大手門の隅櫓が復元されています。今回は広瀬川から大手門跡を通り、本丸を散策しています。仙台城其の二(二ノ丸・三ノ丸編)→sm31815583岩出山城→sm24603519若林城→sm21747404お城→mylist/37297571
14:50|2017年08月20日 19:28:16 投稿
【粉蝶】伊勢国亀山城と関宿 平成29年(2017) 初夏
2017年の5月下旬、三重県亀山市にある亀山城を訪れました。文永2年(1265年)に関氏が築城したとされ、戦国時代には関盛信が亀山城を本拠としていました。現在の城址は天正18年(1590年)、岡本宗憲が近世城郭として再築した姿で、以後、関、松平(奥平)、三宅、本多、石川、板倉、松平(大給)、板倉、石川氏と転封を繰り返し、明治を迎えました。堀尾忠晴が丹波亀山城と伊勢亀山城を間違えて天守を壊した逸話で有名で、以後、天守は再建されませんでした。現在は天守台の上に多聞櫓が現存し、二ノ丸北の帯曲輪等が整備されています。動画の後半では近くの関宿も散策しています。お城→mylist/37297571
15:00|2017年06月18日 19:30:15 投稿
【鴻漸之翼】近江国長浜城(今浜城) 平成29年(2017) 初夏
2017年の5月上旬、滋賀県長浜市にある長浜城を訪れました。南北朝時代、佐々木道誉が家臣の今浜六郎左衛門が今浜城を築城し、戦国時代に一国一城の主となった羽柴秀吉が築城し、長浜城と名を改め、7年間居城し、城下町経営を行いました。その後、柴田勝豊、山内一豊、内藤信成が城主を務めますが、大坂の陣の後、信成の子、信正が高槻城に移り廃城となりました。※霞舞伎殿、広告ありがとうでござる秀吉の名護屋城→sm23934577一豊が移った掛川城→sm28807658お城→mylist/37297571
12:30|2017年06月04日 19:51:39 投稿
【三代重恩】近江国小谷城 其の三 大嶽城~山崎丸編 平成29年(2017) 初春
2017年の5月上旬、滋賀県長浜市にある小谷城址を訪れました。永正13年(1516)、浅井亮政によって築城されたと伝わり、標高約495mの小谷山の南の尾根筋に本丸等があります。姉川の合戦後、3年の間、織田信長に対抗し続けましたが、磯野員昌、宮部継潤、阿閉貞征等が織田方に内応し、同盟国であった越前の朝倉氏も滅んだ後、織田軍によって落城、浅井久政・長政親子は自害し、戦国大名浅井氏は滅亡しました。浅井氏滅亡後、羽柴秀吉が長浜に本拠を移した為、小谷城は廃城になりました。今回は月所丸、大嶽城、万寿丸、山崎丸を散策します。小谷城其の一・追手道~本丸編→sm31173083小谷城其の二・中丸~山王丸編→sm31214431お城→mylist/37297571
13:54|2017年05月21日 20:59:10 投稿
【三代重恩】近江国小谷城 其の二 中丸~山王丸編 平成29年(2017) 初春
2017年の5月上旬、滋賀県長浜市にある小谷城址を訪れました。永正13年(1516)、浅井亮政によって築城されたと伝わり、標高約495mの小谷山の南の尾根筋に本丸等があります。姉川の合戦後、3年の間、織田信長に対抗し続けましたが、磯野員昌、宮部継潤、阿閉貞征等が織田方に内応し、同盟国であった越前の朝倉氏も滅んだ後、織田軍によって落城、浅井久政・長政親子は自害し、戦国大名浅井氏は滅亡しました。浅井氏滅亡後、羽柴秀吉が長浜に本拠を移した為、小谷城は廃城になりました。今回は中丸から六坊まで散策します。小谷城其の一・追手道~本丸編→sm31173083小谷城其の三・大嶽城~山崎丸編→sm31256110お城→mylist/37297571
10:00|2017年05月14日 20:53:21 投稿
【三代重恩】近江国小谷城 其の一 追手道~本丸編 平成29年(2017) 初春
2017年の5月上旬、滋賀県長浜市にある小谷城址を訪れました。永正13年(1516)、浅井亮政によって築城されたと伝わり、標高約495mの小谷山の南の尾根筋に本丸等があります。姉川の合戦後、3年の間、織田信長に対抗し続けましたが、磯野員昌、宮部継潤、阿閉貞征等が織田方に内応し、同盟国であった越前の朝倉氏も滅んだ後、織田軍によって落城、浅井久政・長政親子は自害し、戦国大名浅井氏は滅亡しました。浅井氏滅亡後、羽柴秀吉が長浜に本拠を移した為、小谷城は廃城になりました。今回は追手道から本丸まで散策します。小谷城其の二・山王丸編→sm31214431小谷城其の三・大嶽城~山崎丸編→sm31256110お城→mylist/37297571
15:30|2017年05月07日 21:06:29 投稿
【南海の巨城】土佐国高知城 其の三 三ノ丸~搦手編 平成29年(2017) 仲春
2017年の3月上旬、高知県高知市にある高知城を訪れました。南北朝時代の14世紀に大高坂氏が大高坂山に築いた城が、高知城の前身と言われ、戦国時代には長宗我部元親が大高坂山に築城したようですが、水はけが悪い土地だったので、浦戸城へ移りました。関ヶ原の合戦後、土佐国一国24万2千石を与えられた山内一豊が、大高坂山に築城し、河中山(こうちやま)城と改名し、さらに高智山城と改名後、高知城と呼ばれるようになりました。今回は杉ノ段、三ノ丸、獅子ノ段、等を散策します。高知城其の一 追手門~二ノ丸編→sm30999485高知城其の二 本丸・天守編→sm31040261お城→mylist/37297571
15:00|2017年04月26日 22:35:32 投稿
【南海の巨城】土佐国高知城 其の二 本丸・天守編 平成29年(2017) 仲春
2017年の3月上旬、高知県高知市にある高知城を訪れました。南北朝時代の14世紀に大高坂氏が大高坂山に築いた城が、高知城の前身と言われ、戦国時代には長宗我部元親が大高坂山に築城したようですが、水はけが悪い土地だったので、浦戸城へ移りました。関ヶ原の合戦後、土佐国一国24万2千石を与えられた山内一豊が、大高坂山に築城し、河中山(こうちやま)城と改名し、さらに高智山城と改名後、高知城と呼ばれるようになりました。今回は本丸の御殿、天守、東多聞櫓、廊下橋、西多聞櫓を散策します。高知城其の一 追手門~二ノ丸編→sm30999485高知城其の三 杉ノ段~三ノ丸編→sm31100890お城→mylist/37297571
13:00|2017年04月16日 18:00:33 投稿
【南海の巨城】土佐国高知城 其の一 追手~二ノ丸 平成29年(2017) 仲春
2017年の3月上旬、高知県高知市にある高知城を訪れました。南北朝時代の14世紀に大高坂氏が大高坂山に築いた城が、高知城の前身と言われ、戦国時代には長宗我部元親が大高坂山に築城したようですが、水はけが悪い土地だったので、浦戸城へ移りました。関ヶ原の合戦後、土佐国一国24万2千石を与えられた山内一豊が、大高坂山に築城し、河中山(こうちやま)城と改名し、さらに高智山城と改名後、高知城と呼ばれるようになりました。今回は追手門から杉ノ段、三の丸、二の丸を散策します。※本丸、天守は第2回になります。高知城其の二・本丸編→sm31040261お城→mylist/37297571
14:50|2017年04月09日 21:32:38 投稿
【虎】土佐国安芸城(安芸土居) 平成29年(2017) 仲春
2017年の3月上旬、高知県安芸市にある安芸城址を訪れました。鎌倉時代末期の延慶2年(1309)に安芸親氏が築城したと伝わり、戦国時代には土佐七雄と呼ばれ、安芸郡を支配した安芸氏が居城としていました。安芸国虎は長宗我部元親との八流の戦いに敗れ、安芸城に籠城するも味方が離反し、城内の井戸に毒を投げられる等した為、降伏し、城兵の助命と引き換えに浄貞寺で自害しました。長宗我部氏の支配の後、江戸時代は山内氏の重臣、五藤氏が安芸城主となり、一国一城令の後は、安芸土居として廃城せずに存続しました。武家屋敷跡である土居廓中、安芸氏の菩提寺である浄貞寺も訪れています。お城→mylist/37297571
15:30|2017年04月02日 01:24:13 投稿
【藤の心】土佐国中村城(中村御所) 平成29年(2017) 仲春
2017年の3月上旬、高知県四万十市にある中村城址を訪れました。築城時期は不明ですが、応仁の乱を避けて京から下向した一条氏の家臣となった、為松氏が標高70m程の為松山に築城したと伝わります。中村は一条氏が京風の町作りをした為、「土佐の小京都」とも呼ばれ、碁盤目状の町の区画、四万十川と後川を桂川と鴨川に見立て、東西北を山で囲まれ、今でも大文字の送り火が「旧暦」の7月16日に行われるそうです。一条氏は土佐豪族の尊敬を集め、土佐の国司でしたが、長宗我部氏が台頭するとその傀儡となり、長宗我部氏の滅亡と共に土佐一条氏も断絶しました。動画では中村御所に寄った後に中村城を散策しているので、中村城は6分半過ぎから開始です。お城→mylist/37297571
15:25|2017年03月25日 22:39:20 投稿
【七つ酢漿草】土佐国岡豊城 平成29年(2017) 仲春
2017年の3月上旬、高知県南国市にある岡豊(おこう)城址を訪れました。13世紀~14世紀に長宗我部氏によって築城されたと伝わり、戦国時代には長宗我部元親がここを拠点に土佐を統一、その勢いのまま四国統一の直前まで進撃しました。香長平野(かちょうへいや)の北西端に位置する岡豊山(標高97m)に築かれた山城で、すぐ南の国分川が天然の堀になっています。城址の動画の後に長宗我部氏縁の地も訪れています。司馬遼太郎氏の『夏草の賦』の舞台を訪れて感無量でした。戸次川の戦いを辿る旅→sm28047015お城→mylist/37297571
15:20|2017年03月19日 21:02:03 投稿
【麋】美濃国大垣城 平成29年(2017) 初春
2017年の2月下旬、岐阜県大垣市にある大垣城を訪れました。天文4年(1535)、土岐氏一族の宮川安定が築城したと伝わり、永禄2年(1559)、氏家直元(卜全)が城主となり、改修しました。寛永12年(1635)、戸田氏鉄が城主となった後は戸田氏が幕末まで城主を務めました。西美濃のほぼ中央に位置し、東は木曽三川、西は関ヶ原を抑える要衝の地であり、天下分け目の関ヶ原の合戦では、大垣城は西軍の本拠地として、石田三成等の軍勢がここから関ヶ原へ出陣して行きました。江戸期には三重の水堀に囲まれた水の城でしたが、現在、堀を埋められ往時の姿を偲ぶことはできません。個人的には、山中城の戦いで討死した大垣城主を務めた一柳直末のことが思い出されました。お城→mylist/37297571
15:00|2017年03月05日 17:07:44 投稿
【国盗り】尾張国小牧山城 その二 平成29年(2017) 晩冬
2017年の1月下旬、愛知県小牧市にある小牧城址を訪れました。永禄6年(1563)、織田信長が美濃国侵攻の為、築上した城で、濃尾平野の平地の中に一つだけ突き出た小牧山に造られました。信長は小牧山城に本拠を移した後、4年後には美濃国の稲葉山城を攻略し、岐阜城に本拠を移しました。小牧・長久手の合戦では、徳川家康は小牧山城に布陣し、秀吉軍に備えて、堀や土塁等を大幅に改修しました。北は犬山城、南の名古屋城からもよく見える小牧山城は、標高85mの小牧山全体を城として、濃尾平野に睨みを利かせる存在です。今回は城の西側から時計周りに一周し、搦手口や東の帯曲輪を散策します。小牧山城その一→sm30623446お城→mylist/37297571
10:40|2017年02月19日 00:23:46 投稿
【国盗り】尾張国小牧山城 その一 平成29年(2017) 晩冬
2017年の1月下旬、愛知県小牧市にある小牧城址を訪れました。永禄6年(1563)、織田信長が美濃国侵攻の為、築上した城で、濃尾平野の平地の中に一つだけ突き出た小牧山に造られました。信長は小牧山城に本拠を移した後、4年後には美濃国の稲葉山城を攻略し、岐阜城に本拠を移しました。小牧・長久手の合戦では、徳川家康は小牧山城に布陣し、秀吉軍に備えて、堀や土塁等を大幅に改修しました。北は犬山城、南の名古屋城からもよく見える小牧山城は、標高85mの小牧山全体を城として、濃尾平野に睨みを利かせる存在です。今回は大手周辺と主郭を散策します。小牧山城その二→sm30664519お城→mylist/37297571
13:26|2017年02月12日 23:09:24 投稿
【扇】豊前国中津城 平成29年(2017) 晩冬
2017年の1月下旬、大分県中津市にある中津城を訪れました。天正16年(1588)、 黒田孝高(官兵衛)が築城を開始し、元和7年(1621)、細川氏の時代に扇形の縄張りの城が完成しました。細川氏の後は小笠原氏、奥平氏が城主を務めました。中津川が豊前海(周防灘)に注ぐ河口に築かれた海城で、天守は模擬で資料館になっており、奥平氏関係の展示を見ることができます。見所は本丸北面の石垣で、黒田氏と細川氏の石垣を見比べることが可能です。動画の最後には、中津城で暗殺された城井鎮房の家臣が討ち死にしたとされる赤壁寺こと合元寺も訪れています。城井鎮房の城井谷城→sm24147641お城→mylist/37297571
14:20|2017年02月05日 00:57:35 投稿
【月さびよ】美濃国妻木城 平成28年(2016) 仲冬
2016年の12月下旬、岐阜県土岐市にある妻木城址を訪れました。築城年代は不明ですが、南北朝時代に土岐氏が築城したとされ、戦国時代には明智光秀の家臣、妻木広忠が居城としていました。江戸時代には妻木氏7500石の城として三代続きましたが、跡継ぎがなく妻木氏は廃絶、妻木城も廃城となりました。土岐市南部の標高409mの山に築かれた山城で、麓には城主の屋敷がありました。麓の士屋敷跡から山城の主郭は比高150m、徒歩30分程の登山で、士屋敷跡・主郭ともに石垣等が良好に残っており、三の曲輪からは土岐市街が一望できます。城主、妻木広忠の娘・妻木煕子は黒髪売りの逸話で有名な明智光秀の正室でもあります。※霞舞伎殿、広告ありがとうでござんす。 妻木の景色と愛宕百韻の光秀の発句のコメントまでありがとうございます。お城→mylist/37297571
10:00|2017年01月28日 21:47:47 投稿
【金鯱】尾張国名古屋城 其の四 三の丸編 平成28年(2016) 仲冬
2016年の12月中旬、愛知県名古屋市にある名古屋城を訪れました。16世紀前半に今川氏親が築いた柳の丸が名古屋城の起源とされ、織田信長の父、織田信秀が今川氏豊から城を奪い那古屋城と改名しました。信秀の後、織田信長も清洲城に移るまで居城としていました。江戸時代は御三家筆頭の尾張徳川家の居城として、天下普請により巨大な城郭が築かれました。今回は外堀沿いに歩き、三の丸を散策します。名古屋城其の一、本丸編→sm30284154名古屋城其の二、御深井丸編→sm30356297名古屋城其の三、二の丸編→sm30397049お城→mylist/37297571
11:40|2017年01月15日 22:35:33 投稿
【金鯱】尾張国名古屋城 其の三 二の丸編 平成28年(2016) 仲冬
2016年の12月中旬、愛知県名古屋市にある名古屋城を訪れました。16世紀前半に今川氏親が築いた柳の丸が名古屋城の起源とされ、織田信長の父、織田信秀が今川氏豊から城を奪い那古屋城と改名しました。信秀の後、織田信長も清洲城に移るまで居城としていました。江戸時代は御三家筆頭の尾張徳川家の居城として、天下普請により巨大な城郭が築かれました。今回は搦手馬出、本丸東虎口、二の丸、三の丸を散策します。名古屋城其の一、本丸編→sm30284154名古屋城其の二、御深井丸編→sm30356297名古屋城其の四、三の丸編→sm30441321お城→mylist/37297571
14:54|2017年01月09日 01:03:26 投稿
【金鯱】尾張国名古屋城 其の二 御深井丸編 平成28年(2016) 仲冬
2016年の12月中旬、愛知県名古屋市にある名古屋城を訪れました。16世紀前半に今川氏親が築いた柳の丸が名古屋城の起源とされ、織田信長の父、織田信秀が今川氏豊から城を奪い那古屋城と改名しました。信秀の後、織田信長も清洲城に移るまで居城としていました。江戸時代は御三家筆頭の尾張徳川家の居城として、天下普請により巨大な城郭が築かれました。今回は天守、本丸、御深井丸、西の丸、二の丸を散策します。名古屋城其の一、本丸編→sm30284154名古屋城其の三、二の丸編→sm30397049お城→mylist/37297571
14:25|2017年01月02日 22:16:45 投稿
【金鯱】尾張国名古屋城 其の一 本丸・天守編 平成28年(2016) 仲冬
2016年の12月中旬、愛知県名古屋市にある名古屋城を訪れました。16世紀前半に今川氏親が築いた柳の丸が名古屋城の起源とされ、織田信長の父、織田信秀が今川氏豊から城を奪い那古屋城と改名しました。信秀の後、織田信長も清洲城に移るまで居城としていました。江戸時代は御三家筆頭の尾張徳川家の居城として、天下普請により巨大な城郭が築かれました。今回は三の丸、西の丸、本丸、天守を散策します。名古屋城其の二、御深井丸編→sm30356297お城→mylist/37297571
14:30|2016年12月23日 23:27:30 投稿
【天下無双】武蔵国江戸城 本丸編 平成28年(2016) 晩秋
2016年の11月、東京都千代田区にある江戸城を訪れました。長禄元年(1457)、扇谷上杉氏の家臣、太田道灌が築城し、慶長8年(1603)、征夷大将軍となった徳川家康が天下普請により、天下人にふさわしい日本史上最大の城郭を築きました。今回は本丸、二の丸、三の丸(現在の皇居東御苑)を散策します。※霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。GWはルールとマナーを守って城巡りをしたいですね。江戸城西の丸下編→sm28993126江戸城内堀編→sm29038662江戸城北の丸編→sm32398282江戸城西丸(乾通り一般公開秋)編→sm34363339お城→mylist/37297571ニコニコ動画の新仕様のエンコードで映像が乱れている箇所があるようです。早く以前の質に戻したいのですが、私の編集能力だとなかなか難しいです・・・
12:30|2016年12月04日 22:16:22 投稿
【金王丸】武蔵国渋谷城(金王八幡宮) 平成28年(2016) 晩秋
2016年の11月上旬、東京都渋谷区にある渋谷城址を訪れました。渋谷駅東口から東へ徒歩5、6分程の距離にあり、現在は金王八幡宮となっています。築城時期は不明ですが、平安時代から室町時代にかけて一帯を治めていた渋谷氏の城で、大永4年(1524)、上杉朝興と北条氏綱の間で行われた高輪原の戦いの際、上杉方の渋谷城は北条軍に焼き払われ、廃城となったようです。遺構はブラタモリでも紹介されていた、城の石垣が一つ残っているだけですが、朱色の鮮やかな社殿の金王八幡宮や宝物館では都内最古の神輿を見ることができます。お城→mylist/37297571
7:00|2016年11月27日 22:32:49 投稿
【長姫】信濃国飯田城 平成28年(2016) 仲秋
2016年の9月上旬、長野県飯田市にある飯田城址(長姫城址)を訪れました。13世紀の初めに小笠原氏の一族の坂西(ばんざい)氏によって築かれたとされ、戦国時代には武田信玄が信濃へ進出し、信玄の家臣で「武田の猛牛」の異名をとった秋山虎繁(信友)が城主で城を改修しました。豊臣政権では、京極高知が6万石で飯田城主となり、江戸時代は飯田藩の藩庁で、小笠原氏、脇坂氏、堀氏が城主を務めました。河岸段丘に築かれた平山城で、平地続きなのは西側のみで非常に守りやすそうな城でした。本丸は神社、二ノ丸は美術博物館等になっていますが、本丸・二ノ丸の堀跡や桜丸御門、井戸跡等の遺構を確認することができます。お城→mylist/37297571
10:00|2016年11月20日 22:18:04 投稿
【白鳳】伊賀国上野城 平成28年(2016) 初秋
2016年の8月下旬、三重県伊賀市にある上野城址(伊賀上野城址)を訪れました。室町時代には伊賀の守護大名であった仁木氏の館があったされ、戦国時代末期には筒井氏が大和国から国替えとなり、筒井定次が三重の天守を現在の筒井古城跡に建てました。筒井氏の後には藤堂高虎が大坂の豊臣氏の抑えとして、上野城を改修し、特に豊臣氏に対する西側の石垣は高さは29.7mもあり、大阪城と共に日本で1、2番目の高さの石垣と言われています。模擬天守からは上野盆地を東西南北に眺めることができます。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571色々試しましたが、ニコニコ動画の仕様変更による画質劣化を完全には改善できませんでした・・・
13:06|2016年11月13日 00:10:19 投稿
【白帝】尾張国犬山城 其の二(本丸~城下周辺)
2016年の8月中旬、愛知県犬山市にある犬山城を訪れました。犬山城は美濃国と尾張国の境を流れる木曽川の南、標高80m程の丘の上にあり、天文6(1537)年、織田信康が木ノ下城を三光寺御山へ移し改修しました。信康が織田信長に攻められて犬山城が落城後、織田家の家臣が城主となりますが、江戸時代初期から明治維新まで成瀬氏が城主を務めました。1895~2004年までは個人(成瀬氏)が所有する城でした。三層四階の小規模な天守は国宝に指定され、中国の「白帝城」に例えられ、別名「白帝城」と呼ばれており、古い天守から木曽川や美濃・尾張国境を眺めると戦国時代の息吹を感じられます。今回は本丸~桐ノ丸~松ノ丸~周辺の散策です。犬山城其の一→sm29719437お城→mylist/37297571
15:00|2016年10月09日 22:58:33 投稿
【白帝】尾張国犬山城 其の一(城下町~大手~天守)
2016年の8月中旬、愛知県犬山市にある犬山城を訪れました。犬山城は美濃国と尾張国の境を流れる木曽川の南、標高80m程の丘の上にあり、天文6(1537)年、織田信康が木ノ下城を三光寺御山へ移し改修しました。信康が織田信長に攻められて犬山城が落城後、織田家の家臣が城主となりますが、江戸時代初期から明治維新まで成瀬氏が城主を務めました。1895~2004年までは個人(成瀬氏)が所有する城でした。三層四階の小規模な天守は国宝に指定され、中国の「白帝城」に例えられ、別名「白帝城」と呼ばれており、古い天守から木曽川や美濃・尾張国境を眺めると戦国時代の息吹を感じられます。今回は城下町~大手道~天守の散策です。犬山城其の二→sm29805207お城→mylist/37297571
15:00|2016年09月25日 22:34:09 投稿
【箭筈】尾張国小口城 平成28年(2016) 初夏
2016年の5月上旬、愛知県丹羽郡小口にある小口城址を訪れました。長禄3年(1459)、織田広近によって築城されたとされ、東西約50間(約90m)・南北約58間(約105m)の曲輪に二重の堀と土塁を備えていました。永禄年間(1558-1569)に織田信長が攻略し、廃城となったようですが、小牧・長久手の戦いでは秀吉方の城として、稲葉良通(一鉄)が布陣していたようです。現在、城址公園として整備され、展示棟・模擬物見櫓(共に無料)等があり、物見櫓からは稲葉山城(岐阜城)、小牧山城、犬山城・岩倉城・清洲城・名古屋城方面を一望することができます。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
7:35|2016年08月14日 23:28:46 投稿
【尾張守護代】尾張国岩倉城 平成28年(2016) 初夏
2016年の5月上旬、愛知県岩倉市にある岩倉城址を訪れました。文明11(1479)年頃、尾張国上四郡(丹羽、葉栗、中島、春日井)を支配する織田伊勢守家の織田敏広が築城し、岩倉織田氏の本拠としました。城は東西約91m、南北約171m、標高10m程で、内外二重の堀に守られていたようです。岩倉城主織田信安・信賢父子は織田信長の弟、織田信行に味方した為、永禄2(1559)年、信長に攻められ城は落城しました。こうして尾張下四郡を支配した織田大和守家と共に尾張守護代として勢力を誇った織田伊勢守家は滅亡し、その家臣だった堀尾吉晴や山内一豊が浪人することになります。現在、城址は碑等が残るのみで、同じような同市の井上城址も訪れています。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
6:32|2016年07月10日 18:45:53 投稿
【天嶮】美濃国苗木城 平成28年(2016) 晩春
2016年の4月下旬、岐阜県中津川市にある苗木城址を訪れました。東美濃の豪族遠山氏の一族、遠山景村が南北朝時代に築いたとされ、苗木の遠山氏は、岩村遠山氏、明智遠山氏とともに遠山三人衆と呼ばれていました。戦国時代の城主、遠山直廉は織田信長の妹をめとり信長方に属していました。本能寺の変の後、森長可が苗木城を攻め落とし支配しますが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川方の遠山友忠とその子友政が、豊臣方の河尻直次から苗木城を奪い返し、以後、苗木城は遠山氏十二代、一万石余の居城として明治まで続きました。苗木城のある標高426mの高森山は木曽川に突出しており山頂の天守台から臨む恵那山等の景色は雄大そのものです。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
14:08|2016年06月20日 02:09:39 投稿
【天下無双】武蔵国江戸城 内堀編 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月下旬、東京都千代田区にある江戸城を訪れました。長禄元年(1457)、扇谷上杉氏の家臣、太田道灌が築城し、慶長8年(1603)、征夷大将軍となった徳川家康が天下普請により、天下人にふさわしい日本史上最大の城郭を築きました。今回は内堀を中心に散策します。江戸城西の丸下編→sm28993126江戸城本丸編→sm30167992江戸城北の丸編→sm32398282江戸城西の丸(乾通り一般公開秋)編→sm34363339お城→mylist/37297571
9:12|2016年06月12日 22:01:45 投稿
【天下無双】武蔵国江戸城 西の丸下編 平成26年(2014) 晩秋
2014年の10月、東京都千代田区にある江戸城を訪れました。長禄元年(1457)、扇谷上杉氏の家臣、太田道灌が築城し、慶長8年(1603)、征夷大将軍となった徳川家康が天下普請により、天下人にふさわしい日本史上最大の城郭を築きました。巨大な城郭なので、今回は西の丸下(現在の皇居外苑)周辺の回になります。江戸城内堀編→sm29038662江戸城本丸編→sm30167992江戸城北の丸編→sm32398282江戸城西の丸(乾通り一般公開秋)編→sm34363339お城→mylist/37297571
10:38|2016年06月05日 22:54:59 投稿
【小一郎】大和国郡山城 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月上旬、奈良県郡山市にある郡山城址を訪れました。天正8年(1580)、織田信長は大和一国の差出(検地)と郡山城以外の城郭の破却を命じ、大和国守護の筒井順慶は筒井城から大和郡山城へ移り、城郭を整備しました。天正13年(1585)、豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が郡山城主に封じられ、その石高は大和国・和泉国・紀伊国100余万石に及ぶもので、郡山城も100万石にふさわしい城郭の整備が行われました。豊臣秀長・秀保の後は増田長盛が20万石で入封し、関ヶ原の後、一旦廃城となりますが、江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれました。平成29年3月下旬まで天守台付近は修繕の為、立入不可のようです。お城→mylist/37297571
6:37|2016年05月29日 22:13:19 投稿
【夢幻】近江国安土城 平成27年(2015) 初秋
2015年の9月中旬、滋賀県近江八幡市にある安土城址を訪れました。天正4年(1576)、織田信長は家臣の丹羽長秀に安土城築城を命じ、天正7年(1579)には天主が完成し、一応の完成をみたのは天正10年(1582)でした。同年の本能寺の変後の混乱で安土城は焼失し、天正13年(1585)、八幡山城築城により廃城となりました。比高100m程の安土山に築かれているので、石段を登るのは大変ですが、石段や石垣、天主跡等を見ると教科書に出てくる信長の栄枯盛衰の歴史を肌で感じられる所ではないでしょうか。※霞舞伎殿 広告ありがとさんでござんす 緒方直人さんの信長懐かしいです><お城→mylist/37297571
8:06|2016年05月22日 22:19:26 投稿
【重荷を負て】三河国岡崎城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月下旬、愛知県岡崎市にある岡崎城を訪れました。享徳元年(1452)頃に西郷弾正左衛門子頼嗣(よりつぐ)(青海入道)が築城したとされ、その後、享禄四年(1531)に松平清康(徳川家康の祖父)が岡崎に本拠を移しました。天文11年(1542)、徳川家康はここ岡崎城で生まれ、産湯に使った井戸跡が残っています。その後、今川氏の傘下となり、今川氏に支配される時代が続きますが、桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にし、松平元康(徳川家康)が岡崎城に復帰すると浜松城に本拠を移すまで家康の本城となりました。家康の関東移封後は田中吉政、江戸時代には本多康重が5万石で入り、以後は水野氏、松平氏、本多氏と城主が代わり、明治を迎え廃城となりました。お城→mylist/37297571
15:42|2016年05月15日 22:28:00 投稿
【士魂】遠江国浜松城(曳馬城) 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月下旬、静岡県浜松市にある浜松城を訪れました。元亀元年(1570)、遠江(静岡県西部)をほぼ制圧した徳川家康が築城しました。元々は駿河守護の今川氏の曳馬城が浜松城の北東にありましたが、曳馬城を取り込む形で築城されました。元亀三年(1572)、武田信玄の大軍が浜松城の北を通り過ぎようとしたので、家康は果敢にも三方ヶ原で合戦を挑みましたが、完敗して命からがら浜松城へ退却します。家康の関東移封後は堀尾吉晴が浜松城主となりますが、関ヶ原の合戦後は再び徳川氏に服属し、以後は譜代大名の居城となりました。天下を取った家康と江戸時代を通じて城主が老中等に出世することから、出世城とも呼ばれています。お城→mylist/37297571
11:51|2016年05月11日 22:53:35 投稿
【忠魂】遠江国掛川城(古掛川城) 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月下旬、静岡県掛川市にある掛川城を訪れました。明応六~文亀元年(1497~1501)、駿河守護今川氏親の重臣朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)が築城し、当初の城は現在の掛川城の北東丘陵に築かれ、古城と呼ばれています。永正九~十年(1512~1513)、泰煕とその子泰能(やすよし)に現在の位置に築城され、永禄十一年(1568)、本拠駿府を武田信玄に追われた今川氏真を泰能の子泰朝(やすとも)が掛川城に受け入れますが、徳川家康に掛川城を包囲され、籠城5ヶ月の後、開城し、氏真と泰朝を後北条氏を頼り伊豆へ落ち、徳川氏の支配が続きました。天正十八年(1590)、豊臣秀吉の臣、山内一豊が五万石で入城、大改修し、松平、本多、井伊、小笠原、太田氏が城主となり明治を迎えました。※招き猫殿、広告ありがとさんでござんす❤お城→mylist/37297571
14:43|2016年05月08日 22:43:12 投稿
【海道一】駿河国駿府城(駿府館) 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月下旬、静岡県静岡市にある駿府城を訪れました。戦国時代に駿河国守護の今川氏が館を構えていた地に、天正13年(1585)に徳川家康が築城し、豊臣秀吉による関東への国替えを挟み、慶長12年(1607)に隠居城として天下普請で築城し直しました。三重の堀をもつ輪郭式の典型的な城で、天下普請で造られた城だけあり、その縄張りは広大で散策も時間がかかります。現在は駿府城公園として市民の憩いの場となっていますが、東御門や巽櫓、坤櫓等が復元されています。お城→mylist/37297571
20:00|2016年05月04日 23:01:21 投稿
【不来方の城】陸奥国盛岡城(不来方城) 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、岩手県盛岡市にある盛岡城を訪れました。天正20年(1592)、南部信直・利直父子によって南部10万石の居城として築かれ、盛岡城と名付けられました。盛岡城築城の前は福士氏の不来方(こずかた)城がありました。東北地方では珍しい多量の石垣を持つ城で、東北一の石垣を擁する近世城郭とも言われます。明治時代の廃城後、石川啄木が城跡で少年期を過ごしたり、宮沢賢治も城の近くに下宿していたりと文学者とも縁のある城であり、現在は岩手公園となり市民の憩いの場となっています。※トブヒンガ殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
16:35|2016年05月01日 22:21:44 投稿
【上州の巨壁】上野国箕輪城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、群馬県高崎市箕郷町にある箕輪城を訪れました。西暦1500年前後に長野氏が築城し、業尚(なりひさ)、憲業(のりなり)、業政(なりまさ)、業盛(なりもり)の四代が箕輪城を本拠にしていたと考えられています。業政は武田信玄の西上野侵攻を何度も阻みましたが、永禄9年(1566)、武田軍の侵攻により箕輪城は落城し、業盛は自害しました。武田氏、織田氏、北条氏、徳川氏と主が代わりますが、最後の城主、井伊直政は徳川家康の家臣団で最大の12万石で封じられ(江戸国替時)、慶長3年(1598)、直政は城を高崎移し、箕輪城は廃城となりました。現在は国指定の史跡として整備され、堀や土塁、石垣等の遺構を見ることができます。※動画の終盤で群馬県庁ビルと前橋城址の説明が出てきますが、高崎市庁舎のビルと高崎城址の誤りでした。申し訳ありません<(_ _)>お城→mylist/37297571
19:28|2016年04月27日 22:51:01 投稿
【甲斐府中】甲斐国甲府城 平成27年(2015) 仲春
2015年の3月下旬、山梨県甲府市にある甲府城を訪れました。天正10年(1582)の甲斐武田氏滅亡後、一条小山に築城され、徳川家康、加藤光泰、浅野長政らが築城したとされますが、特に浅野家の力が大きかったとされています。徳川幕府時代は徳川一族の支配が続き、柳沢吉保も甲府城主となりますが、幕府直轄の地として甲府勤番、城代の時代を経て、明治を迎え廃城となりました。お城→mylist/37297571
11:09|2016年04月24日 23:08:22 投稿
【御旗楯無】甲斐国躑躅ヶ崎館 平成27年(2015) 仲春
2015年の3月下旬、山梨県甲府市にある躑躅ヶ崎館を訪れました。永正16年(1519)年に武田信虎が築城したとされ、武田晴信(信玄)、武田勝頼と三代に渡って甲斐武田氏の本拠地でした。東西200m、南北190mの範囲に土塁や堀、石垣等の遺構が残っていますが、特に石垣は武田氏以降の城主や後の武田神社の造営で造られたものです。西曲輪と主郭間の堀や土塁等は立派ですが、やはり館の域を出ない感があります。本格的な籠城の場合、背後の要害山城に籠るので館程度でよかったのでしょう。武田氏滅亡後、織田氏、徳川氏と支配が変わりますが、甲府城が築城されると廃城となりました。動画の後半は館周辺の武田氏関連の史跡も訪れています。お城→mylist/37297571
15:39|2016年04月17日 22:34:55 投稿
【四公六民】伊豆国韮山城 平成27年(2015) 初春
2015年の2月下旬、静岡県伊豆の国市にある韮山城を訪れました。築城年ははっきりしませんが、文明年間(1469~1486)に堀越公方足利政知の家臣、外山豊前守が築城したと伝わり、延徳5年(1491)に伊勢盛時(北条早雲)が攻め落とし、以後、早雲が居城とし、小田原城に本拠が移るまで後北条氏の本拠地となりました。天正18年(1590)の小田原征伐では、北条氏康の四男、北条氏規が城主として守備し、豊臣秀次を大将とする4万4千の豊臣軍に対し、北条方は3千6百で約百日に渡って籠城をするも、ついに開城しました。小田原開城後、徳川家康の家臣、内藤信成が入城しましたが、慶長6年(1601)に転封となり、そのまま廃城となりました。お城→mylist/37297571
6:07|2016年04月10日 22:43:47 投稿
【了】伊豆国山中城 平成27年(2015) 初春
2015年の2月下旬、静岡県三島市にある山中城を訪れました。永禄年間(1558~1570)に北条氏康により築城されたとされ、天正15年(1587)頃より大々的に改修されたようです。天正18年(1590)、4千程で籠城していた後北条軍は、豊臣秀吉の6万7千とも言われる大軍に攻められ、わずか1日で落城しました。元は旧東海道の関所を拡張して城となった為、旧東海道が三の丸の中を通る珍しい城となっています。後北条氏の降伏後に廃城となったので、後北条氏の築城技術の特徴である畝堀や障子堀等の遺構を確認することができます。お城→mylist/37297571
15:00|2016年04月03日 22:56:52 投稿
【稲村の変】安房国稲村城 平成27年(2015) 初春
2015年の2月上旬、千葉県館山市にある稲村城址を訪れました。築城時期ははっきりしませんが、文明18年(1486)に里見義実が築城したとされています。里見氏嫡流の本城であった言われていますが、天文2年(1533)から同3年の間に起った、稲村の変により、嫡流の里見義豊は敗死し、庶流の里見義堯が後期里見氏として、房総に勢力を広げて行くことになります。稲村城は稲村の変後に廃城となったと考えられています。房総半島先端の中心地に位置し、標高64m程の丘の上にある城で、前期里見氏の築城技術が分かる貴重な城跡となっています。お城→mylist/37297571
7:00|2016年03月30日 22:18:11 投稿
【南総里見】安房国館山城 平成27年(2015) 初春
2015年の2月上旬、千葉県館山市にある館山城を訪れました。天正8年(1580)頃に里見義頼が築城したとされ、天正19年(1591)に里見義康が岡本城から館山城に移り、慶長19年(1614)に里見忠義が伯耆国倉吉(鳥取県)に移されるまでの24年間、安房里見氏の本城となっていましたが、改易に伴い廃城となりました。日本百景の鏡ヶ浦と館山市内を一望できる眺望絶佳の城山で、南総里見八犬伝関連の史跡等もあり、現在は城山公園として整備されています。お城→mylist/37297571
11:40|2016年03月27日 22:07:06 投稿
【巨麗】相模国小田原城 平成27年(2015) 初春
2015年の2月上旬、神奈川県小田原市にある小田原城を訪れました。築城時期ははっきりしませんが、15世紀初頭に大森氏が築いたとされ、北条早雲が入城後、二代目氏綱より後北条氏の本城として関東進出の拠点となりました。永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)、永禄12年(1569)に武田信玄の侵攻を受けますが、北条氏康・氏政父子は籠城策によりこれらを退けました。その後、三の丸の外郭を拡張し、大外郭(総構)は全周約9kmと戦国屈指の巨城となりました。天正18年(1590)、豊臣秀吉の20万とも言われる軍勢の前に北条氏直は降伏し、江戸時代には大久保忠隣、稲葉正勝・正則等が普請し、近世城郭となり、現在の小田原城の原形ができあがりました。明治を迎え廃城となりました。お城→mylist/37297571
12:17|2016年03月23日 22:45:54 投稿
【一夜城】相模国石垣山城 平成27年(2015) 初春
2015年の2月上旬、神奈川県小田原市にある石垣山城址を訪れました。天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原征伐の為、築城しました。小田原城の西3kmの笠懸山(260m)の山頂に総石垣の城を築城し、完成後に周囲の木を伐採した為、一夜にして城が出来たかのように小田原城の北条方には見えたと伝わります。城の完成後、10日余りで北条氏が降伏していることから、坂東武者もさぞかし肝を潰されたかと思います。関東大震災での石垣の崩落が目立ちますが、他には見られない独特な井戸曲輪や物見台からの足柄平野と相模湾の眺望等、観光地としてもおすすめです。お城→mylist/37297571
10:20|2016年03月20日 22:30:14 投稿
【鷹視狼歩】陸奥国弘前城 平成26年(2014)仲秋
2014年の9月、青森県弘前市にある弘前城を訪れました。慶長16年(1611)、津軽為信が築城途中であった城を津軽信枚が完成し、弘前藩津軽氏4万5千石(その後、7万石、10万石に高直し)の本城となりました。本丸から三の丸の外堀までの外観は良好に残っており、内部も、天守、3基の三重櫓、5基の櫓門が現存しています。城の水堀の高低差を調整する水戸違い等、おもしろい仕組みも見ることができます。最北の現存天守でもあり、桜の時期は全国的にも有名な桜の名所になっています。城→mylist/37297571
26:30|2016年03月13日 22:52:24 投稿
東日本大震災からの復興を願い、被災地の城を訪ね歩く
2011年3月11日14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震とそれに伴う津波、福島第一原子力発電所事故等、第二次世界大戦以来の危機に日本が直面した東日本大震災から今日で5年の月日が経過しました。城好きが被災地にできることは被災地の城を訪れることでした。地味ではありますが、それが自分なりの復興支援でした。一人の城好きとして全ての被災地の復興を願っています。青森県/弘前城,三戸城岩手県/盛岡城,九戸城秋田県/久保田城,土崎湊城址,角館城,横手城,大館城宮城県/青葉城,若林城,岩出山城山形県/山形城,長谷堂城,米沢城福島県/鶴ヶ城,神指城,猪苗代城,向羽黒山城,鴫山城,赤館城,棚倉城,相馬中村城,小高城茨城県/水戸城栃木県/宇都宮城,飛山城
5:02|2016年03月11日 22:01:13 投稿
【九華】伊勢国桑名城 平成26年 仲冬と晩春
2014年12月と2015年4月4日、三重県桑名市にある桑名城を訪れました。永正10年(1513)に伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源とされ、織田信長の伊勢侵攻後は、滝川一益が支配しました。関ヶ原の合戦後、本多忠勝が10万石で桑名城に入城しました。四重の天守、五十一基の櫓、四十六基の多聞櫓、水門三カ所を持つ大城郭でしたが、江戸期に天守は焼失、鳥羽・伏見の戦い後に門等が寺等に移築されました。石垣の多くは四日市港整備の為に使用されましたが、三の丸西側の水堀に現存しています。現在は九華公園として整備され、残念ながら城の改変が激しいですが、春は桜の名所となっています。動画の前半は城址の散策、7分40秒からは桑名城の花見編になります。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
9:07|2016年03月07日 07:06:06 投稿
【三十七万石】筑前国名島城 平成27年(2015)仲冬
2015年の12月、福岡県福岡市にある名島城址を訪れました。戦国時代に立花鑑載が立花山城の支城として築いたとされ、天正15(1587)年、小早川隆景が筑前一国、筑後と肥前の一部、合わせて37万石で入部し、翌年から名島城の普請に取り掛かり、居城としました。南以外の三方を海に囲まれた、海軍に秀でた小早川家らしい海城でしたが、小早川秀秋の転封後に入城した黒田長政は、福岡城を築城し居城としたので、名島城は廃城となりました。スマホで写真を撮影していたので、スマホで動画を作成してみました。VivaVideoで作成したのですが、音質が悪いです・・・城→mylist/37297571
2:00|2016年03月02日 21:13:46 投稿
【奇想天外】備中国高松城 平成26年(2014) 仲冬
2014年の12月、岡山県岡山市にある備中高松城を訪れました。築城時期は不明ですが、三村氏が備前の宇喜多氏に備えて築城したとされ、天正3年(1575)、三村氏が毛利氏に滅ぼされた後は、清水宗治が城主となりました。天正10年(1582)、旧暦の四月、羽柴秀吉率いる織田軍は高松城への攻撃を開始するも、清水宗治以下、城兵がよく持ちこたえ、織田軍の損害も大きかった為、秀吉の軍師、黒田官兵衛は、高松城が低地にあることを逆手にとり、水攻めを提案、城の周囲を築堤で囲った秀吉は水攻めを成功させ、城の大部分が水没します。城主、清水宗治は城兵の助命と引き換えに水上の船で切腹、高松城は開城しますが、織田信長が本能寺の変で討たれた二日後の出来事でした。Stilett殿・MINAMINARUN殿、広告ありがとうでござる。お城→mylist/37297571
10:00|2016年02月28日 22:36:21 投稿
桜の滝山城 平成26年(2014) 晩春
2014年の4月5日、東京都八王子市にある滝山城址を訪れました。当日は滝山城跡桜祭りが開催されており、普段の滝山城址とは違い賑やかな雰囲気でした。5000本の桜が咲く、都内の桜の名所ですが、ゆったりと桜を鑑賞できる場所だと思います。普段の滝山城→sm27885907お城→mylist/37297571
4:45|2016年02月24日 22:14:30 投稿
【金烏】備前国岡山城 平成26年(2014) 仲冬
2014年の12月、岡山県岡山市にある岡山城を訪れました。宇喜多直家が金光宗高から岡山城の前身である石山城を奪い、改修し、その子宇喜多秀家が天正18年(1590)から本丸を移し、烏城とも呼ばれる黒漆塗りの下見板張り、五重六階の天守を築きました。関ヶ原後は小早川秀秋が入封し、池田氏が続いて改修を継続、寛永9年(1632)頃にほぼ現在の姿となりました。二の丸は市街地となっていますが、石垣等が所々残っており、古地図を見ながらの散策も楽しめる城郭となっています。宇喜多秀家の眠る八丈島自転車の旅→sm28271836お城→mylist/37297571
23:00|2016年02月21日 22:13:14 投稿
【真田十万石】信濃国松代城(海津城) 平成26年(2014) 晩秋
2014年の10月、長野県長野市にある松代城(海津城)を訪れました。築城時期は不明ですが、武田信玄が北信濃侵攻の拠点として海津城を整備し、永禄四年(1561)の上杉謙信との川中島の戦いでは、信玄の本陣となるなど、武田家の滅亡まで武田家が支配していました。元和八年(1622)、上田城から真田信之が松代に入封し、真田10万石の城下町として、幕末まで真田氏の居城となりました。川中島の戦いを辿る旅→sm27399448お城→mylist/37297571
7:18|2016年02月17日 21:51:05 投稿
【信濃一】信濃国松本城 平成25年(2013) 晩秋
2013年の10月、長野県松本市にある松本城を訪れました。松本城の前身は、永正元年(1504)、小笠原氏の部将、島立貞永が築いた深志城と伝わり、天正十年(1582)に深志城を支配していた武田氏が滅亡すると、旧主の小笠原貞慶が深志城に入り、城名を松本城と改めました。その後、石川数正、康長、二代の時代に本丸の石垣が整備され、三重の天守を創建し、慶長二十年(1615)頃、小笠原秀政が五重の天守を創建したと言われています。現在、天守は国宝に指定され、烏城と呼ばれる漆黒の姿を400年後の今も見せてくれています。お城→mylist/37297571
5:44|2016年02月13日 22:49:06 投稿
【仏の茂助】出雲国松江城 平成24年(2012) 夏
2012年の7月に島根県松江市にある松江城を訪れました。関ヶ原の合戦の後、出雲国24万石で月山富田城に入城した堀尾吉晴は、1607年(慶長12)、松江城の築城を開始し、完成直前に堀尾吉晴は亡き人となりましたが、4年後の1611年に完成しました。江戸時代は松江藩の藩庁として政治経済の中心地でした。現存12天守、山陰唯一の現存天守でしたが、2015年に天守が国宝に指定されました。お城→mylist/37297571
5:12|2016年02月10日 23:47:32 投稿
【蒼古】大和国高取城 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月上旬、奈良県高市郡高取町にある高取城址を訪れました。元弘2年(1332)に越智邦澄によって築城したと伝えられ、天正8年(1580)に織田信長によって大和国内の城は郡山城一城と定められ、一旦、廃城となりますが、天正13年(1585)、豊臣秀長が郡山城に入城すると脇坂安治、次いで本多利久が高取城に入城し、寛永14年(1637)まで本多氏が支配しますが、寛永17年(1640)から植村家政が2万5,000石で入城し、以後、植村氏の居城となり、明治維新を迎えて廃城となりました。麓の城下町から4km、比高350mも離れた山頂にある為、石垣等の遺構が良く残っており、日本三大山城の一つになっています。お城→mylist/37297571
8:40|2016年02月07日 19:20:01 投稿
【霧ヶ城】美濃国岩村城 平成27年(2015) 初冬
2015年の11月、岐阜県恵那市岩村町にある岩村城址を訪れました。文治元年(1185)、源頼朝の重臣遠山景廉が築城したと伝えられ、元亀2年(1571)、遠山氏最期の城主、遠山景任が死去すると景任夫人おつやの方(織田信長の叔母)が城主を務めました。その後、武田氏が城を開城し、秋山信友が城主になり、おつやの方はその妻となりました。天正3年(1575)、武田氏が長篠の戦いで大敗すると、同年11月に岩村城も織田方に降伏。秋山信友とおつやの方は長良川で逆さ磔で処刑されました。江戸時代は丹羽氏と主に松平氏が城主を務め、明治時代に廃城となりました。日本三大山城の一つになっています。お城→mylist/37297571
11:38|2016年02月03日 23:31:14 投稿
【関東の巨鎮】尾張国清洲城 平成27年(2015) 仲夏
2015年の6月、愛知県清須市にある清洲城址を訪れました。応永12年(1405年)、尾張守護の管領斯波義重によって築城されたとされ、弘治元年(1555年)まで守護代の清洲織田氏の居城でした。清洲織田氏の織田信友が亡くなった後は、織田信長が那古屋城から移り本拠としました。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の合戦の時、織田信長はここ清洲城で幸若舞の敦盛を舞い桶狭間へ出陣したとされています。小牧山城へ本拠を移すまでの10年間、信長の居城でもあり、信長亡き後の織田家の後継者を決定した清洲会議が開かれた場所でもあります。慶長15年(1610年)からの清洲から名古屋への城下移転に伴い(清洲越し)、廃城となりました。※霞舞伎殿、広告ありがとうでござる。お城→mylist/37297571
5:04|2016年01月31日 22:22:17 投稿
【城山】筑前国蔦ヶ嶽城 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月、福岡県宗像市赤間にある蔦ヶ嶽(つたがたけ)城跡を訪れました。平安時代、宗像大宮司家・宗像妙忠(むなかたたえただ)の時代に築城されたと伝えられ、足利尊氏が九州で再起を図った時に協力した宗像氏俊(うじとし)の居城でもあり、現在の形に整備したのは戦国時代の七十九代宗像氏貞(うじさだ)でした。豊後大友氏の臣、立花山城の立花道雪と激しい攻防を繰り広げますが、天正14(1586)年、氏貞が41歳でなくなると大宮司家は断絶し、豊臣秀吉の九州国分けによって、宗像の地は小早川隆景が領することとなり、蔦ヶ嶽城も廃城となりました。現在は城山(じょうやま)と呼ばれ、登山コースになっています。お城→mylist/37297571
9:35|2016年01月24日 23:19:15 投稿
【府蘭】豊後国丹生島城(臼杵城) 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月、大分県臼杵市にある丹生島城(臼杵城)跡を訪れました。1560年頃に大友宗麟が府内(大分市)から新たな本拠として、海に浮かぶ丹生島をそのまま城にしました。宗麟統治時代、城下にはポルトガルやイスパニアの南蛮船や宣教師が訪れ、キリスト教の礼拝堂が城内にあった程、キリスト教が盛んだったようです。大友氏の改易後は、福原氏、太田氏が入城しますが、江戸時代は稲葉貞通の入城後、明治維新まで稲葉氏15代、5万石の居城となりました。お城→mylist/37297571
14:20|2016年01月22日 23:19:09 投稿
【鶴松】日向国佐土原城 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月、宮崎県西都市にある佐土原(さどわら)城跡を訪れました。14世紀中頃に伊東氏の一族田島休助によって田島城として築城されたとされ、15世紀中頃に伊東氏の伊東祐賀が入城し、佐土原氏を称した為、その頃から佐土原城と呼ばれるようになりました。島津氏の日向侵攻後は島津家久、家久の死後は息子の島津豊久が城主となり、江戸時代から明治まで佐土原藩島津氏の居城でした。お城→mylist/37297571
10:20|2016年01月17日 00:18:14 投稿
【四十八城】日向国都於郡城 平成27年(2015) 仲冬
2015年の12月、宮崎県西都市にある都於郡(とのこおり)城跡を訪れました。建武2年(1335)、足利尊氏から都於郡三百町を賜った伊東祐持が築城したとされ、以後240年に渡り伊東氏の城でしたが、島津氏の侵攻の為、落城しました。元和元年(1615)の一国一城令により廃城となりました。伊東氏は日向支配の為、伊東四十八城と呼ばれる支城網を築きましたが、都於郡城は佐土原城と共に本城でした。都於郡城は本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ城、奥ノ城の五つの曲輪が中核となり、その曲輪が三財川に浮かぶ船のように見えることから浮船城とも呼ばれました。現在、城址は丁寧に整備されており、曲輪や堀や土塁等の遺構を確認でき、その圧倒的な迫力にただただ驚き続けました。お城→mylist/37297571
20:30|2016年01月10日 23:04:32 投稿
【熾烈】筑前国許斐岳城 平成27年(2015) 晩冬
2015年の1月、福岡県福津市にある許斐岳城址を訪れました。築城時期は大治年間年(1126~31)頃と考えられており、宗像氏の一族である許斐(このみ)氏の居城でした。享禄2年(1529)、宗像氏の重臣、占部豊安(うらべとよやす)が再築城し、以後、大友家の立花道雪との戦いでは宗像氏の最前線となり重要な拠点でした。標高は271m、現在は登山コースが整備され気軽に登ることができます。山頂の主郭跡から宗像の地を一望することができ、要衝であることを実感できます。お城→mylist/37297571
7:25|2016年01月03日 22:30:09 投稿
【武蔵守護代】武蔵国滝山城 平成25年(2013) 仲春
2013年の3月下旬、東京都八王子市にある滝山城址を訪れました。1521年(永正18年、大永元年)に山内上杉家の重臣、大石定重が築城したとされています。その後、大石氏は北条氏の軍門に降り、北条氏照が城主となりました。1569年(永禄12年)、武田信玄が滝山城を囲み、近くで戦闘があったようです。その後、北条氏照は八王子城を築城し、居城としたので滝山城は廃城となったようです。加住丘陵(標高169m、比高70m)の上に築城され、北の多摩川と秋川の合流支点を抑える要衝でした。現在、春になるとたくさんの桜の花が咲く花見の名所となっています。お城→mylist/37297571
10:30|2015年12月27日 23:46:40 投稿
【悲憐】武蔵国八王子城 平成23年(2011) 晩夏
2011年の7月中旬、東京都八王子市にある八王子城址を訪れました。築城年は定かではありませんが、天正15年(1587)頃には北条氏照が本拠としていたようです。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで、城主、北条氏照は小田原城におり不在中で、家臣の横地吉信、中山家範、狩野一庵、金子家重らが籠城しますが、前田利家、上杉景勝、真田昌幸ら豊臣軍1万5千の大軍の前に1日で落城しました。そのまま廃城となったので、往時の築城技術を伝える貴重な城郭となっています。平時に城主が住んでいたと考えられる麓の居館地区や、詰の山城である要害地区の深沢山(標高445m:比高約240m)等、見所の多い城址です。お城→mylist/37297571
7:15|2015年12月20日 18:36:18 投稿
【鶴亀】陸奥国猪苗代城(亀ヶ城) 平成26年(2014) 仲秋
2014年の9月中旬、福島県耶麻郡猪苗代町にある猪苗代城址を訪れました。猪苗代城は猪苗代を領し、猪苗代氏を称した佐原経連が、建久二年(1191)に築城したとされています。以後、十四代盛胤まで猪苗代氏の居城でしたが、天正十七年(1589)、摺上原の戦いで蘆名方として伊達勢に敗退した盛胤は湖南横沢に引退し、猪苗代氏の支配は終わりました。その後、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、松平氏の時代も会津領の重要拠点として、歴代の領主の有力家臣が城代を務めました。戊辰戦争で、城代・高橋権大夫は城を焼き払って若松へ撤退した為、建物等は失われ、そのまま廃城になりました。城の北西には猪苗代氏の隠居城と思われる鶴峰城があります。お城→mylist/37297571
9:30|2015年12月13日 19:51:05 投稿
【邯鄲の夢】近江国八幡山城 平成27年(2015) 初秋
2015年の9月中旬、滋賀県近江八幡市にある八幡山城址を訪れました。1585年(天正13年)、近江八幡43万石を領した豊臣秀次は安土城の西隣の地に八幡山城を築き本能寺の変後に焼失した安土城の建物や城下町を移築しました。八幡山(標高283m、比高100m)山頂に本丸や二の丸の城郭、南の麓には秀次の居館や家臣団の館が並んでいました。1590年(天正18年)には京極高次が2万8千石で入城するも、1595年(文禄4年)秀次事件で羽柴秀次は切腹し八幡山城は廃城となりました。現在、八幡山にはロープウェイが整備され、城下の八幡掘り等は観光客が多く訪れる観光地となっています。お城→mylist/37297571
7:52|2015年11月23日 18:38:47 投稿
【丸に十】薩摩国鶴丸城(鹿児島城) 平成26年(2014) 冬
2014年の12月下旬。鹿児島県鹿児島市にある鶴丸城(鹿児島城)を訪れました。慶長6年(1602)、島津家十八代家久によって築かれ、以来十二代二百七十年間、明治の廃藩置県まで島津氏の本拠でした。本丸、西隣に二の丸の連郭式の簡素な縄張りで、表には家臣団の武家屋敷、裏には詰の城として城山(上山城)があり、山頂(107m)からは鹿児島市街や錦江湾、桜島等が一望できます。西南戦争では政府軍の攻撃により二の丸が炎上し、現在は本丸が歴史資料館、二の丸は図書館になっています。お城→mylist/37297571
8:56|2015年11月19日 23:04:08 投稿
【鬼島津】大隅国加治木城 平成26年(2014) 冬
2014年の12月下旬。鹿児島県姶良市にある加治木城を訪れました。築城年代等は不明で、1496年に島津忠昌が加治木城の加治木氏を攻めました。1549年、島津家の伊集院忠朗が初めて鉄砲を実戦に使用したとされています。1607年、島津義弘が加治木城の麓に加治木館を築き、晩年を過ごしました。動画では加治木城への道中に加治木館も訪れています。お城→mylist/37297571
7:45|2015年11月14日 23:34:31 投稿
【咆哮】陸奥国九戸城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、岩手県二戸市にある九戸城址を訪れました。築城年代ははっきりとしませんが、九戸政実の乱(1591年)では、ここに九戸軍約5千が籠城し、豊臣秀吉の奥州仕置軍約6万と戦いました。開城すれば城内の者全てを助命するとの仕置軍の使者を受けて、九戸政実ら大将らは降伏しますが、約束は反故にされ九戸政実らは処刑、城内にいた者も惨殺されてしまう悲劇の地となりました。その後、蒲生氏郷の改修により東北最古となる石垣をもち、名前を福岡城と改め南部家の本城となりますが、盛岡城へ本城が移ると廃城となりました。三戸城→sm22539435お城→mylist/37297571
14:07|2015年11月11日 23:53:55 投稿
【若松】近江国日野城 平成27年(2015) 初秋
2015年の9月中旬、滋賀県蒲生郡日野町にある日野城址を訪れました。天文2年(1533年)から3年程かけて蒲生定秀が築いたとされており、本能寺の変後は定秀の息子の賢秀と孫の氏郷が、安土城にいた信長の妻妾を迎え入れたことで有名な城址です。氏郷はここ日野6万石から、松阪12万石、会津42万石、会津92万石へと出世していきました。現在はダム建設の為、遺構の多くは破壊されてしまいましたが、石垣や堀が一部残っており往時を偲ぶことができます。※るろうに剣心の映画「伝説の最期編」のロケ地となっているそうです。お城→mylist/37297571
6:08|2015年10月08日 23:40:05 投稿
【一国三城】出羽国大館城 平成26年(2014) 初秋
2014年の9月中旬、秋田県大館市にある大館城址を訪れました。天文19年(1550年)頃に浅利勝頼が築いたとされています。浅利頼平が急死し、浅利氏が断絶すると秋田氏(安東氏)の所領となりますが、関ヶ原後に秋田氏は常陸国に転封となり、佐竹氏の所領として、横手城と同様一国一城令の例外として存続を許されます。戊辰の役で、佐竹藩は政府側についた為、大館城は奥羽列藩同盟の南部氏に攻められ、城代の佐竹義遵は城に火を放ち撤退し、廃城となりました。現在は桂城公園として、堀や石垣が一部残っています。※地獄のネジ回し殿、広告ありがとさんでござんす❤お城→mylist/37297571
6:12|2015年09月28日 00:12:16 投稿
【三津七湊】出羽国土崎湊城 平成26年(2014) 初秋
2014年の9月中旬、秋田県秋田市にある土崎湊城址を訪れました。築城年代は不明ですが、永享8年(1436年)に安倍康季が築いたとされています。以後、湊安東氏の居城となっていましたが、檜山安東氏の安東実季が支配することになり、奥州仕置後には大幅な改修により二重の水堀をめぐらせた平城となっていたようです。関ヶ原後に実季は常陸国に転封となり、代わって転封となった佐竹義宣にとって湊城は手狭であった為、久保田城を築いて移り、湊城は廃城になったようです。動画の後半は海まで足を伸ばし、ポートタワーセリオンへ登り、室町期から三津七湊と言われた土崎湊の繁栄を偲ぶことができます。お城→mylist/37297571
3:38|2015年09月13日 22:10:04 投稿
【土成】出羽国久保田城 其の二 平成26年(2014) 初秋
2014年の9月中旬、秋田県秋田市にある久保田城址を訪れた動画の後半です。二の丸から三の丸を散策しています。徳川家に遠慮した為、天守や大きな石垣がない地味な城に見えますが、中身はかなり強固な縄張りとなっています。本丸の御隅櫓から秋田の街を眺めると、海から続く現在の街並みに秋田の発展を考えてここに築城したのだと感じることができます。久保田城本丸→sm26949128お城→mylist/37297571
11:46|2015年09月03日 22:53:13 投稿
【土成】出羽国久保田城 其の一 平成26年(2014) 初秋
2014年の9月中旬、秋田県秋田市にある久保田城址を訪れました。秋田藩佐竹氏の居城で、標高45mの神明山に築かれた平山城です。関ヶ原後の移封により、1603年、久保田城の築城を開始し翌年完成しました。石垣をほとんど用いず、天守もないので地味な印象ですが、神明山を土塁と堀を巡らせた見事な縄張りの城郭です。1880年の大火で御物頭御番所以外の本丸の建物は焼失してしまいました。現在は千秋公園として整備され、表門や御隅櫓等が復興されています。今回は大手から本丸までの動画となります。※『寄生獣』の作者の岩明均氏の作品に久保田城築城が題材となっている『雪の峠』という漫画ありますので、興味のある方は一読をお勧めします。其の二→sm27078996お城→mylist/37297571
14:37|2015年08月16日 23:28:17 投稿
【馬陵】陸奥国相馬中村城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、福島県相馬市にある相馬中村城址を訪れました。築城年代ははっきりとしませんが、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に坂上田村麻呂が築城したのが始まりとされています。南北朝時代の1337年(延元2年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に中村館を構え、戦国時代を迎えると相馬氏の支配下となりました。1611年(慶長16年)、相馬利胤が小高城から中村城へ本城を移し、幕末まで中村藩六万石の政府となりましたが、戊辰の役で落城し、明治を迎え廃城となりました。別名は馬陵城です。縄張りが独特で、梯郭式や稜堡式として分類している方もいるようです。お城→mylist/37297571
9:09|2015年08月09日 11:19:05 投稿
【浮船】陸奥国小高城 平成27年(2015) 初夏
2015年の5月中旬、福島県南相馬市にある小高城址を訪れました。築城年代ははっきりとしませんが、南北朝時代に相馬氏によって、築城されたとされています。第16代相馬義胤公が1611年に中村城へ本拠を移すまで、200年以上、陸奥相馬氏の本城でした。城址の動画は5分程ですが、同慶寺、太田神社、小高区と続きます。2015年7月現在、城址を含む小高区は福島第一原子力発電所事故の為、避難指示解除準備区域に指定されており、同地の宿泊は不可能となっています。事故当時、墓に眠る相馬の殿様に放射能がと心配していましたが、今回ようやくお参りすることができました。住民の皆さんが一日でも早く元の生活に戻れるよう祈っています。お城→mylist/37297571
14:43|2015年07月21日 00:16:02 投稿
【仙北】出羽国横手城 平成26年(2014) 初秋
2014年の9月中旬、秋田県横手市にある横手城址を訪れました。築城年は不明ですが、戦国時代は小野寺氏が本拠としていました。関ヶ原合戦後、小野寺義道は西軍側とみなされ石見国津和野に配流となり、常陸から佐竹氏が入封し、その一族の戸村氏が明治まで城代を務めました。元和の一国一城令も大館城とともに破却を免れた為、秋田藩は3つの城を持つことができました。戊辰の役では佐竹氏は政府軍につき、奥羽列藩同盟軍の攻撃により落城します。明治を迎え廃城となり、現在は公園として整備され、二の丸に模擬天守が建てられています。城の近くには本多正純親子の墓もあります。お城→mylist/37297571
9:57|2015年07月04日 23:06:17 投稿
【桜夢】越後国高田城 平成26年(2014) 春
2014年の4月12日、新潟県上越市にある高田城址を訪れました。慶長19年(1614)、徳川家康の六男・松平忠輝の居城として、天下普請により、加賀前田家、米沢上杉家等13の大名家が6万7千人の人夫を動員して4ヶ月足らずで築城したとされています。天下普請の大城郭にも関わらず、石垣のない珍しい城になりますが、外掘りの広大さには目を見張るものがあります。花見客がたくさんいて、城郭を詳しくは見ていません。じっくり城郭を巡るのではなく、桜がメインの動画となります。※初代城主の松平忠輝公は26歳で改易後、徳川家からの勘当が解けたのは370年後の昭和62年です。勘当されたまま、今の長野県の諏訪高島で92歳の生涯を閉じました。お城→mylist/37297571
9:10|2015年04月08日 21:49:06 投稿
【夜叉九郎】出羽国角館城(小松山城) 平成26年(2014) 初秋
2014年の9月中旬、秋田県仙北市にある角館城址を訪れました。応永31年(1424年)、戸沢氏十三代、家盛が北浦郡の門屋城からこの地へ移り、天正年間には、夜叉九郎と異名を取り、小田原の陣にもわずか10騎あまりで駆け付けた戸沢盛安もこの地を治めていましたが、1602年、二十一代政盛が常陸に移ると変わって蘆名氏、蘆名氏が断絶すると佐竹氏(北佐竹氏)が明治まで治めました。※城動画ですが、城址より武家屋敷等の方が多い内容となっています。お城→mylist/37297571
14:36|2014年12月14日 23:34:51 投稿
【南山口】陸奥国鴫山城 平成26年(2014) 仲秋
2014年の9月中旬、福島県南会津郡南会津町田島の鴫山(しぎやま)城址を訪れました。築城年代は不明ですが、長禄4年(1459)に山内氏と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落とした事が記録として残っており、長沼氏の築城とされています。長沼氏は会津の蘆名盛氏の傘下となりますが、天正17(1589)年、摺上原の戦いで蘆名氏が伊達政宗に滅ぼされると、長沼盛秀は伊達家に臣従します。長沼氏は伊達氏の転封と共に鴫山城を去り、代わりに蒲生氏郷の家臣、小倉作左衛門が6300石で城代となりました。後、上杉景勝の家臣直江兼続の弟である大国実頼が2万1000石で城代となり、再び、蒲生家の小倉作左衛門が城代となった後、寛永4(1627)年に廃城となりました。お城→mylist/37297571
14:18|2014年10月16日 22:51:40 投稿
【丹羽三名城】陸奥国棚倉城 平成26年(2014) 仲秋
2014年の9月中旬、福島県東白川郡棚倉町の棚倉城址を訪れました。元和8年(1622)、棚倉に丹羽長重が5万石で領主となり、山城の赤館から盆地の中央に本城を移す事となり、1626年、着工しますが、完成前に長重は白河へ転封となり、変わって近江から入部した内藤信照によって完成しました。本丸の四方は多聞で土塁の上を囲み、二階建ての隅櫓が4つ、5つの門と、2つの櫓門があり、内堀と二の丸、外掘と北に三の丸がありましたが、1866年、政府軍の攻撃により棚倉城は落城、建築物は焼失してしまいました。現在は本丸の土塁と内堀が良好に残り、二の丸の石垣も現存しています。春の桜、秋の紅葉が内堀と美しい棚倉の華です。お城→mylist/37297571
12:55|2014年10月14日 00:00:38 投稿
【捲土重来】陸奥国赤館城 平成26年(2014) 仲秋
2014年の9月中旬、福島県東白川郡棚倉町の赤館城址を訪れました。北は阿武隈川、南は久慈川と東北と関東の分水嶺に位置する赤館城は、建武年間に赤館伊賀次郎が赤館城主であった記録があることから、南北朝時代以前に築城されていたと考えられています。鎌倉時代初期は、伊達氏の飛地でしたが、南北朝時代以降は白河結城氏の勢力地として常陸の佐竹氏との最前線になり、1560年頃には、上遠野盛秀が城代となり、度々合戦の舞台となりました。1590年、豊臣秀吉の奥州仕置により白河結城氏は改易、佐竹領、天領を経て、1609年に立花宗茂が入城しますが、1622年、丹羽長重が入部し棚倉城を築くと赤館城は廃城となりました。お城→mylist/37297571
6:35|2014年10月06日 22:33:11 投稿
【百万石への野望】陸奥国岩出山城 平成26年(2014) 夏
2014年の8月、宮城県大崎市の岩出山城(臥牛城、岩出沢城)を訪れました。岩出山城は、奥州探題大崎家の家臣、氏家直益が応永年間(1394~1427)に築城した岩手沢城を、豊臣秀吉による奥州仕置によって米沢から葛西・大崎旧領に移封となり新しく本城を築く必要があった伊達政宗が大改築しました。天正19年(1591)、政宗は入城し、岩出山城と名を改めます。政宗が築いた岩出山城は、館と大手門の前面には二の構えという500mもの防塁と城下町全体を一の構えという土塁で囲む、総構えの大城郭でした。政宗が仙台城に移った後は、政宗の四男の宗泰を初代とする岩出山伊達氏の居城となり、明治時代を迎え廃城となりました。若林城→sm21747404お城→mylist/37297571
11:30|2014年10月03日 01:10:09 投稿
【會】陸奥国鶴ヶ城(黒川城、会津若松城) 平成26年(2014) 冬
2014年の2月。福島県会津若松市の鶴ヶ城(黒川城、会津若松城)を訪れました。1384年、蘆名氏7代当主の蘆名直盛が館を構えたのが始まりと言われ、16代当主盛氏の時代に最大の版図を築き、その中心が鶴ヶ城の前身である黒川城でした。蘆名氏は伊達政宗によって、会津の地を追われますが、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、保科氏、松平氏と桃山時代から江戸時代にかけて奥州と関東に睨みを効かす要衝の地として、常に有力大名が在城しました。現在の城は主に蒲生氏郷と加藤明成の縄張りですが、会津戦争でも200年以上新しい兵器を擁する政府軍の攻撃に1か月の間耐え抜きました。最後は蒲生氏郷公の墓にも訪れています。※キャベツ殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
17:12|2014年09月02日 01:07:14 投稿
【釣天井】下野国宇都宮城 平成25年(2013) 秋
宇都宮城は、藤原宗円(そうえん)が前九年の役(1051~1062)での功により与えられた宇都宮の地に館を建てたのが始まりとされています。宗円(宇都宮氏祖)以後、宇都宮氏の城として、宇都宮国綱が豊臣秀吉に改易されるまでの500年以上に渡って宇都宮氏が支配していました。宇都宮氏の後は、浅野長政、蒲生秀行等が入城しましたが、本多正純の時に、将軍暗殺を謀ったとされる「宇都宮釣天井事件」の舞台となりました。江戸時代には北関東随一の大城郭となりましたが、戊辰戦争で、政府軍と幕府軍の戦闘の舞台となり、城の大部分を焼失してしまい、第二次大戦後は、ほとんどの堀や土塁もなくなり、現在は本丸だけが公園として残っています。お城→mylist/37297571
6:17|2014年08月22日 01:35:04 投稿
【城井谷崩れ】豊前国城井谷城(城井ノ上城) 平成26年(2014) 冬
文治2年(1186)、平家滅亡に伴い豊前地頭職に任じられた宇都宮信房が城井谷の一帯を本拠とし、その城井谷の奥に城井谷城はあります。城井谷には他にも城があるので、城井ノ上(きいのこう)城と呼んで、他の城と区別しているようです。天正15年(1587)、太閤秀吉の伊予国への転封を拒んだ城井(宇都宮)鎮房は、黒田長政に攻められますが、城井谷城に籠って抵抗し、黒田勢を敗走させます。黒田官兵衛・長政親子は城井氏と和議を結びましたが、鎮房を中津城へ招いて暗殺、肥後国一揆鎮圧の為に官兵衛に同行していた息子朝房も暗殺し、城井谷を攻め落として、城井宇都宮氏は滅亡し、廃城となりました。お城→mylist/37297571
15:01|2014年08月03日 09:11:45 投稿
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の五 平成26年(2014) 冬
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての中心となっていました。太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。今回は弾正丸から本丸を散策します。前、山里丸→sm24058473名護屋城其の一→sm23934577お城→mylist/37297571
9:00|2014年07月22日 21:28:10 投稿
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の四 平成26年(2014) 冬
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての中心となっていました。太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。今回は山里丸を散策します。前、本丸→sm24045813次、弾正丸→sm24065125お城→mylist/37297571
12:37|2014年07月21日 22:23:14 投稿
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の三 平成26年(2014) 冬
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての中心となっていました。太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。今回は本丸を散策します。前、馬場~二ノ丸~遊撃丸→sm24026910次、山里丸→sm24058473お城→mylist/37297571
11:05|2014年07月20日 14:15:13 投稿
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の二 平成26年(2014) 冬
天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての中心となっていました。太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。今回は馬場、二ノ丸、遊撃丸を散策します。前、大手口~三ノ丸→sm23934577次、本丸→sm24045813お城→mylist/37297571
11:30|2014年07月18日 00:34:44 投稿
【太閤の野望】肥前国名護屋城 其の一 平成26年(2014) 冬
佐賀県唐津市にある名護屋城址は天下統一を果たした豊臣秀吉によって、天正19年(1591年)から翌年にかけて、加藤清正、寺沢広高が普請奉行となり、わずか8ヶ月で築城され、唐入りの為の文禄・慶長の役の前線基地となりました。当時、大阪城に次ぐ二番目の規模の巨城が肥前の漁村に突如として現れ、朝鮮へ渡った兵士約20万、名護屋在陣の兵士約10万の計30万もの陣立ての中心となっていました。太閤秀吉の死後に廃城となり、唐津城へ石垣が移植されたり、島原の乱以降に石垣の破却等ありましたが、当時の遺構がほぼそのまま残る貴重な城址となっています。今回は大手口から、東出丸、三ノ丸を散策します。次、馬場~二ノ丸→sm24026910お城→mylist/37297571
11:41|2014年07月05日 21:07:10 投稿
【七六三】筑前国岩屋城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬。福岡県太宰府市ある岩屋城を訪れました。古代山城である大野城があった四王寺山の中腹の岩屋山の山頂に位置し、文明十年(1478)前後に、大内氏の軍事拠点として築城され、大内氏滅亡後、豊後の戦国大名大友宗麟が、高橋鑑種を城督としていましたが、鑑種が反旗を翻したので、吉弘鎮種が高橋家と岩屋城を継いで、後の高橋紹運となります。九州制覇を目論む島津軍の前に城兵七百余名全員が討ち死にした壮絶な岩屋城合戦の舞台になりました。秀吉の九州平定後、筑前の国は小早川隆景の領国となり、岩屋城は廃城になりました。今回の動画はテキストが多めです。立花城→sm23434878お城→mylist/37297571
13:36|2014年06月12日 21:32:12 投稿
【古代国防】筑紫国大野城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬、福岡県大野城市にある大野城を訪れました。日本書紀に665年に築城された記録が残っており、1300年以上前の古代の城です。663年の朝鮮半島における白村江の敗戦により、同盟国の百済の高官が築城に関わり、国防の最前線として、太宰府の北の四王寺山の周囲8Kmを土塁と石塁の城壁で覆った「朝鮮式山城」とも呼ばれています。歴史の教科書に出てくる防人が、遥か遠く東国(関東)等から、ここ大野城のような北部九州各地の軍事施設を防衛していました。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
8:39|2014年05月19日 23:47:08 投稿
【鎮西一】筑前国立花山城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬。福岡県粕屋郡と福岡市東部にまたがる立花山城を訪れました。立花山城周辺の香椎郷は鎌倉後期に大友氏の所領となり、建武年間(1334-1338)に一族の立花貞載(さだとし)が築城したと伝わります。永禄年間(1558-1570)に立花鑑載(あきとし)が毛利方に転じ没落し、大友家の宿老、戸次鑑連(べつきあきつら、後の立花道雪)を城主としました。豊臣家の九州征伐の際は、秀吉に「その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一」と賞賛された立花統虎(むねとら、後の宗茂)が城主を務め。九州国分け後に小早川隆景の支城となりますが、関ヶ原後の黒田家の時代に廃城になったと考えられます。岩屋城→sm23764210お城→mylist/37297571
14:51|2014年04月29日 12:46:30 投稿
【九州の虎口】豊前国小倉城 平成25年(2013) 冬
2013年の12月下旬。福岡県北九州市の小倉城を訪れました。九州への上陸地点であり、陸海交通の要衝である小倉城は、鎌倉時代に築城されたと伝わりますが、資料に登場するのは、永禄年間(1558-1570)に毛利氏が小倉津の平城に南条勘兵衛を在城させたことが宗像大社の記録に残っています。後に高橋鑑種(あきたね)が入城し、豊臣秀吉の九州征伐後は、毛利勝信が入城しました。関ヶ原後は細川忠興が39万9千石で入り、細川氏の肥後転封後は、小笠原氏が15万石で入城し、幕末までの230年間、小笠原氏の居城となりましたが、慶応2年(1866)長州藩との戦いで自焼しました。現在の天守は1959年に再建された復興天守です。お城→mylist/37297571
18:21|2014年04月20日 12:50:13 投稿
【四百三十七】越後国春日山城 平成26年(2014) 春
2014年の4月13日。新潟県上越市の春日山城を訪れました。動画を投稿する今日4月19日はグレゴリオ暦の上杉謙信公の命日になります。さらに、上杉景虎公、上杉景勝公も現在の暦だと4月19日が命日にあたります。三公への手向けとしてこの動画を投稿します。太陽暦だと月日と季節は合うはずなので、旧暦の命日である3月13日よりは当時の季節に近い雰囲気だと思います。※霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす夏の春日山城→sm21440268冬の春日山城→sm23331974お城→mylist/37297571
10:02|2014年04月19日 01:33:08 投稿
【雪と山と】越後国春日山城 平成26年(2014) 冬
2014年の2月上旬。新潟県上越市の春日山城を訪れました。春日山城は、越後長尾家の祖、長尾景恒公の息子の長尾高景公が南北朝時代の1300年代の後半に築城したとされ、謙信公の父、長尾為景公が拡張し、現在の形となりました。独立山塊で三方が山に囲まれ、西南方面が傾斜はやや緩いですが、他は急斜していて、難攻不落の自然の大城郭です。越後兵の強さの秘密が、この雪道を歩けば分かるような気がしました。雪道でバランスを保つ為のインナーマッスルが鍛えられていたのだと思います。雪に不慣れな方でこの時期に行かれる方は雪山の装備をしっかりとすることをお勧めします。※きりち殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす。春→sm23358865夏→sm21440268お城→mylist/37297571
31:44|2014年04月15日 00:11:27 投稿
【義】出羽国米沢城 平成25年(2013) 初冬
2013年の12月初旬。山形県米沢市にある米沢城を訪れました。米沢市街地のほぼ中心に位置する平城で、別名、舞鶴城、松岬城。戦国時代に伊達氏が本拠とし、伊達政宗もここで生まれたと伝わります。上杉景勝の会津転封にともない、直江兼続が米沢城へ入封し、関ヶ原の戦いの後上杉景勝が移封され、明治時代まで上杉氏の居城となっていました。現在は、上杉神社や松岬公園となり、土塁と内堀がありし日の米沢城の面影を残しています。お城→mylist/37297571
16:31|2014年02月21日 01:28:26 投稿
【出羽の驍将】出羽国山形城 平成25年(2013) 初冬
2013年の12月初旬。山形県山形市にある山形城を訪れました。延文元年年(1356)に、羽州探題として山形に入部した斯波兼頼(最上家初代)が築城したと伝えられ、現在の城郭は11代城主義光が築いたものが原型とされています。本丸、二ノ丸、三ノ丸の3重の堀と土塁を持つ輪郭式の全国有数規模の平城で、出羽の関ヶ原合戦「長谷堂合戦」で城郭が霞で隠れたことから「霞ヶ城」とも呼ばれていました。現在の二ノ丸の堀や石垣は、最上家改易後、鳥居忠政により大改修されたと伝えられています。明治から昭和にかけて、多くの遺構が失われてしまいましたが、2033年をめどに本丸の発掘調査を完了させるとともに、本丸の復元も予定されているようです。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
18:47|2014年01月30日 00:18:33 投稿
【慶長出羽合戦】出羽国長谷堂城 平成25年(2013) 初冬
2013年の12月初旬。山形県山形市にある長谷堂城址を訪れました。長谷堂城は、永正11年(1514)に伊達稙宗(だてたねむね、伊達政宗の曽祖父)が最上氏より落城させた事が一番古い記録として残っています。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の時期に、東軍方の最上氏は西軍方の上杉氏とここ長谷堂城を舞台に激しい攻防を繰り広げました。関ヶ原での西軍敗退により、上杉軍は撤退し、直江兼続の見事な撤退戦等もありましたが、最上氏が城を守り抜きました。その後、元和8年(1622)最上氏の改易とともに廃城になったようです。お城→mylist/37297571
18:47|2014年01月16日 01:13:58 投稿
【三日月の…】陸奥国三戸城 平成25年(2013) 晩秋
2013年の11月初旬。青森県三戸郡三戸町にある三戸城を訪れました。三戸城は、三戸南部氏により、戦国時代(16世紀中ごろ)、それまで居城としていた聖寿寺館(現南部町)の焼失に伴って、南部晴政が現在の三戸町中央部の独立した段丘に築城しました。江戸時代に入ると南部氏の本拠は盛岡城へと移り、三戸城は御古城として盛岡藩主により大切にされました。※waka殿、広告ありがとうでござる。お城→mylist/37297571
25:58|2013年12月26日 23:25:58 投稿
【最北】蝦夷国松前城(福山城) 平成25年(2013) 晩秋
2013年の11月初旬。北海道松前郡松前町にある松前城を訪れました。日本最北の城下町の城である松前城(松前城は別称で正式名は福山城)は、松前藩初代藩主松前慶廣公が、慶長5年(1600)から6年の歳月をかけて築城しました。寛永14年(1637)の火災で多くの建物が焼失しましたが、同16年に修築しました。安政元年(1854)には外国船の脅威に備える為、新城を竣工し、日本最北に位置する、最後の日本式城郭となりました。明治元年(1868)から同2年の間に榎本武揚率いる旧幕府軍と政府軍の間で、戦闘となり、旧幕府軍によって落城しています。国宝となっていましたが、昭和24年(1949)の火災により天守は焼失してしまいました。お城→mylist/37297571
18:54|2013年11月26日 00:38:52 投稿
【清党牙城】下野国飛山城 平成25年(2013) 秋
2013年の10月。栃木県宇都宮市にある飛山城址を訪れました。飛山城は芳賀高俊によって、鎌倉期の永仁年間(1293~98)に築かれたと伝えられています。芳賀氏は元は清原氏であり、源頼朝の奥州合戦に参加した宇都宮朝綱の有力武将であり、宇都宮氏の益子氏(紀氏)と並び紀清両党と称せられ、武勇を誇っていました。西に鬼怒川、北は崖に守られた飛山城は鎌倉期より度々戦の舞台となりましたが、豊臣秀吉の小田原征伐後の城の破却命令により、廃城になったと考えられています。お城→mylist/37297571
16:42|2013年11月11日 23:32:14 投稿
上杉謙信公上洛の事蹟を辿る旅2 二条御所
2013年の9月中旬上杉謙信公の二度の上洛の事蹟を辿る為、京都、和歌山、滋賀を訪れました。一日目、京都府京都市の京都御所を参観した後、二条御所跡(旧二条城跡)を訪れて、二条城を訪れています。義輝公とどこで謁見したか不明なので、二条御所も正しい事蹟かも分かりませんが・・・其の一、京都御所→sm21965102其の三、京都大徳寺→sm22112794上洛の旅一覧→mylist/38927065春日山城(謙信公居城)→sm21440268栃尾城(謙信公初陣の地)→sm21454729
11:20|2013年10月07日 00:49:59 投稿
【相模の獅子初陣】武蔵国小沢城 平成25年(2013) 夏
2013年の9月。神奈川県川崎市と東京都稲城にある小沢城を訪れました。平安時代末期より、源頼朝の家臣稲毛三郎重成が城主を務め、小沢郷を領した為、子孫は小沢性を称していました。鎌倉時代末期の分倍河原の戦い後、幕府軍を打ち破った新田義貞によって攻め落とされ、1530年には城近くの小沢原の戦いで、北条氏康が見事に初陣を飾っています。府中街道、鎌倉街道、多摩川を見下ろし、その立地だけでも多摩地方の重要な拠点であったことが分かります。※解説板の字が小さいかもしれませんので、右下から画面を大きくして見ることをお勧めします。※JT殿、広告ありがとさんでござんす♡お城→mylist/37297571
13:29|2013年09月25日 21:58:54 投稿
【ふるき郭】武蔵国深大寺城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月、東京都調布市にある深大寺城を訪れました。天文六年(1537)年春に、扇谷上杉朝定によって再興され、南の後北条氏への備えとして家臣の難波田弾正が配されていましたが、同年夏、後北条氏によって河越城が落城した為、難波田弾正は城を打ち捨て撤退。そのまま廃城となり、後北条氏の改修のない扇谷上杉氏の中世城郭の特徴を伝える貴重な城跡となっています。漫画『東京城址女子高生』の第3話の舞台でもあります。※タグの追加と沢山のコメントありがとうございます(__)お城→mylist/37297571
12:48|2013年09月10日 23:55:49 投稿
【残躯天所赦】陸奥国若林城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月。宮城県仙台市若林区の若林城を訪れました。寛永五年(1628年)に伊達政宗公の隠居の城として築城され、寛永十三年(1636年)に公の死とともに廃城になったとされています。「独眼竜」や「遅れて来た風雲児」等の苛烈な印象の公ですが、晩年はこの若林城で「馬上少年過」のような余生を過ごしたはずです。現在の状況が少し残念ですが、いつか城址として整備されるのを期待したいとお城→mylist/37297571
4:47|2013年09月03日 22:52:59 投稿
【一の巓嶽】陸奥国向羽黒山城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月。福島県大沼郡会津美里町の向羽黒山城(むかいはぐろやま)を訪れました。奥州会津の地を四百年に渡って治めた葦名氏の、第十六代盛氏公が永禄4年(1561)頃に築城し、直線で6Km離れた黒川城(鶴ヶ城)の詰めの山城、盛氏公の隠居城として使用されていたようです。伊達氏、蒲生氏、上杉氏と数々の大名家が改修を加えたようですが、上杉氏の米沢移封により、廃城になったと伝えられています。東日本最大級山城の名に恥じぬ。巨大な山城です。最後は葦名家廟にも訪れています。お城→mylist/37297571
17:07|2013年08月30日 01:54:38 投稿
【奥羽に天下を】陸奥国神指城 平成25年(2013) 夏
2013年の8月。福島県会津若松市の神指城(こうざしじょう)を訪れました。築城は慶長五年(1600)三月、上杉景勝が直江兼続に命じ、佐竹家、前田家から石垣職人が数百人応援に来て、領内から八万人を動員して大城郭が築かれるはずでしたが、六月に徳川家の上杉遠征の為、工事は中止となり、関ヶ原後の上杉家の米沢転封の為、そのまま廃城となりました。廃城後、石垣等は若松城に転用されたようです。お城→mylist/37297571
7:58|2013年08月26日 00:18:51 投稿
【直江山城】越後国与板城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。新潟県長岡市の与板城を訪れました。築城時期は天正年間(年数は不明)で、直江実綱(景綱)の代と考えられています。東頸木丘陵の北端にある城で、弥彦・新潟方面への抑えとして軍事上の要衝でした。上杉氏の会津転封まで、直江氏三代の居城となりました。お城→mylist/37297571
12:27|2013年08月06日 01:20:08 投稿
【直江三代】越後国本与板城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。新潟県長岡市の本与板城を訪れました。築城時期は不明ですが、建武元年(1334年)に新田氏一族の籠沢入道が築城したと伝えられ、その後、越後守護上杉氏の重臣である飯沼氏が居城としていました。飯沼氏が長尾家によって滅ぼされた後は、直江氏が景綱・信綱・兼続の三代に渡って治めました。直江氏が本拠を与板城に移した後も支城として機能していたようですが、上杉氏の会津移封と共に廃城になったと考えられています。お城→mylist/37297571
3:33|2013年07月30日 00:02:20 投稿
【越後の龍】越後国栃尾城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。新潟県長岡市の栃尾城を訪れました。築城主は不明ですが、築城年は室町時代初期~中期と言われ、1610年に堀氏の没落に伴い廃城となりました。謙信公の頃は本庄氏が城主を務めていました。謙信公が十四歳~十九歳まで過ごし、栃尾城の戦いで初陣を見事に飾った地だと思うとただの山郷には見えなくなってしまいます。お城→mylist/37297571
10:08|2013年07月28日 00:04:19 投稿
【毘沙門天】越後国春日山城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。新潟県上越市の春日山城を訪れました。春日山城は、越後長尾家の祖、長尾景恒公の息子の長尾高景公が南北朝時代の1300年代の後半に築城したとされ、謙信公の父、長尾為景公が拡張し、現在の形となりました。独立山塊で三方が山に囲まれ、西南方面が傾斜はやや緩いですが、他は急斜していて、難攻不落の自然の大城郭です。最後は林泉寺と東城砦、御館も訪れています。春→sm23358865冬→sm23331974お城→mylist/37297571
35:12|2013年07月26日 01:50:38 投稿
【関東管領】上野国平井城 平成25年(2013) 夏
2013年の7月。群馬県藤岡市の平井城を訪れました。永享10年(1438年)、関東管領上杉憲実が築城したと言われ、永禄3年(1560年)、後北条家の侵攻により越後へ逃れた関東管領上杉憲政の要請を受けた長尾景虎が北条から奪還後、関東の拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、平井城は廃城となりました。現在は本丸以外は開発され、見る所は少ないですが、関東管領や謙信公好きな方は一度は訪れるべき場所ではないでしょうか。藤岡の町と西上州の風景もなかなか良かったですよ。※タグの追加とたくさんのコメントありがとうございます(_ _)お城→mylist/37297571
11:11|2013年07月15日 20:38:20 投稿
【律儀者の夢】常陸国水戸城(馬場城) 平成24年(2012) 晩夏
2012年の7月。茨城県水戸市の水戸城を訪れました。馬場資幹により建久年間(1190年 - 1198年)に築かれたとされる大変歴史の古い城で、佐竹氏が入城するまでは馬場城と呼ばれていたそうです。応永23年(1416年) 上杉禅秀の乱の後、馬場氏に代わって、那珂江戸氏が入城し、以後170年間支配を続けました。豊臣秀吉の小田原征伐後は佐竹氏が入城、大規模な拡張をし、徳川幕府時代には御三家の城でもあったのですが、現在は大部分に建物が建っており、なかなか思うようには探索できませんでした。ただ、規模の大きさは探索中よく分かりました。足早に見て、写真が少なかったので、おまけを最後に追加しました。お城→mylist/37297571
7:24|2013年06月29日 23:42:26 投稿
【五十二万石】筑前国福岡城 平成24年(2012) 夏
2012年の7月の終わり。福岡県福岡市の福岡城を訪れました。黒田五十二万石の本気の城は、城作りの名手加藤清正が熊本城に勝るとも称した通り、素晴らしい城郭でした。天守がないので、熊本城に比べると訪れる人は少ないと思いますが、その分城郭はじっくりと見て回ることができます。お城→mylist/37297571
11:48|2013年06月09日 02:39:57 投稿
【天下布武】美濃国岐阜城(稲葉山城) 平成24年(2012) 夏
2012年の7月の終わり。岐阜県岐阜市の岐阜城(稲葉山城)を訪れました。標高300mからの濃尾平野と長良川の眺めは雄大で、ここが斎藤道三の国盗り物語や信長の天下取りの舞台だったと思うと戦国ファンなら琴線に触れるものがあるでしょう。※板垣退助氏、有名なセリフの後、亡くなったと勘違いしてました。。。ご指摘頂いた方ありがとうございました。全国の退助ファンの皆様、申し訳ありませんでした。※霞舞伎殿・招き猫殿、広告ありがとうでござる。お城→mylist/37297571
6:41|2013年06月04日 02:24:32 投稿
【我に七難八苦を】出雲国月山富田城 平成24年(2012) 夏
2012年の7月に島根県安来市にある尼子氏ゆかりの城、月山富田城を訪れました。天気が悪かったのもあったのですが、三連休の初日なのに、城で会った人は2組4人だけでした。。。でも、凄く良い所ですよ。みなさんも是非、月山富田城を訪ねてみてください。お城→mylist/37297571
13:13|2013年05月31日 01:42:30 投稿