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【講義アーカイブ】深読みの楽しみ:新しい「古典」の発見③「ヒーローたちの苦悩と「解脱」―仏教学者が観た『アベンジャーズ/エンドゲーム』―」(講師:亀山隆彦)[2020年9月5日]
※ この講義のレジュメを配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
優れた力と人並みはずれた勇気で困難を乗り越える「ヒーロー」。彼らの劇的な冒険を描く一連の作品が、いわゆるアメリカン・コミックスの代表カテゴリーであることは改めて指摘するまでもない。ゆうに一〇〇年を越える歴史の中で「スーパーマン」「バットマン」「スパイダーマン」「キャプテン・アメリカ」そして「アイアンマン」といった多彩なヒーローが誕生し、彼らの波瀾万丈の物語が多くの人々を魅了してきた。
また、近年はジャンルの成熟に伴って、エンターテインメントとしての魅力は維持しながらもジェンダーやエスニシティのような社会的問題に切り込む、さらに「ヒーロー」自身の実存のような哲学的主題を問い詰める意欲作も増えている。それら作品の中で、ヒーローはしばしば、優れた力を持つが故に大きな苦しみを引き受けなければならない存在として描写され、その姿は冒険活劇の主人公というより、どちらかというと「聖人伝」(hagiography)の登場人物を思い起こさせる。
この講義では、そういった「意欲作」の中でも最新の部類に入るだろう『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)に注目し、劇中で描かれるヒーロー達の受苦について考察を試みる。なかでも、主人公であるアイアンマン=トニー・スターク(ロバート・ダウニーJr)の苦悩とそこからの解放を分析し、それが広く仏教的にも重要なメッセージを持つことを論じてみたい。
※ 本講義は、以下の作品を予習していることが前提となります。講義中に作品を上映することはありません。
●『アベンジャーズ/エンドゲーム』(アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ監督、2019年)
参考作品
〇『アベンジャーズ』(ジョス・ウェドン監督、2012年)
〇『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』(ジョス・ウェドン監督、2015年)
〇『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(アンソニー・ルッソ、ジョー・ルッソ監督、2018年)
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第九回「真言密教の哲学:安然における真如の思想」(講師:亀山隆彦)[2021年7月26日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第九回の講義は、これまでの日本仏教史の話題から少し離れて、講師自身の最新の研究成果についてお話したいと思います。具体的には、平安初頭期に活躍した安然という僧の「真如」(仏教における真理)に関する議論を検討し、その構造や日本思想史における意義を議論したいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第十九回「摂関時代の日本仏教」(講師:亀山隆彦)[2022年1月10日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第十九回の講義は、平安時代の中期、しばしば「摂関時代」とも呼ばれる時期の日本仏教を概観します。
平安中期、朝廷の要職と政治の実権は、一部貴族の子弟に独占され、多数の人々は、自らの行く末に大きな不安を抱いていました。そういった世相を反映して、この時期、阿弥陀浄土信仰が隆盛したと伝えられます。
第十九回の講義では、恵心僧都源信の活動を中心に、この時期の仏教思想の動向、様々な文化との関連について議論したいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十八回「覚鑁と中世密教の秘伝」(講師:亀山隆彦)[2022年6月8日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十八回の講義は、第二十七回の講義と同じく覚鑁の活動と思想に注目する。その分析を通じて、平安後期日本密教の秘伝・口伝の世界がどのようなものだったか、議論を試みる。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第十四回(中世編6)(講師:亀山隆彦)[2020年8月15日]
※ この講義のレジュメを配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。また、機材トラブルの関係で映像が途中で切れる部分があります。ご容赦ください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十三回「平安浄土教のコスモロジー」(講師:亀山隆彦)[2022年3月28日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十三回の講義では、平安中期に重要な思想的転換点を迎え、鎌倉以降に大きく花開く「阿弥陀浄土教」、なかでも、平安期の弥陀信仰の諸側面について議論します。
第一に源信と『往生要集』を中心に、阿弥陀浄土信仰の大綱を確認します。その上で、往生伝や臨終行儀の記述に触れて、比較的早い時期の日本浄土教の実態についてお話できればと考えています。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第17回(講師:亀山隆彦)[2021年11月24日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( http://ow.ly/8v3S30s1Ivu )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
【講義アーカイブ】学侶の世界 第1シーズン 第2回「慈恩会 後編〜竪義」(講師:高次喜勝)[2021年3月6日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/kOXt30rzC1H )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。このレジュメは個人で学ぶために提供されているものです。再配布や法会に持ち込むことは厳にお控えください。
南都六宗のひとつである法相宗では、学問を究めることで悟りにいたろうと学侶(学問僧)は精進します。古来、学侶にとって日頃の修学を披露する場が南京三会に代表される大会でした。特に、口頭試問ともいえる「竪義(りゅうぎ)」は学侶の関門として南都北嶺で今も続けられています。法相宗では、宗祖慈恩大師の命日11月13日の慈恩会に併せて「競望者(けもうしゃ)」がある年に限って竪義が執行されます。竪者(受験者)は、春日明神のご神火とともに21日間の前加行(予備試験)を行い、日々の試験を突破して一世一代の竪義に挑みます。
慈恩会竪義と前加行は「学解仏教」や「神仏習合」といった、まさに南都仏教の矜恃を現代に伝えている行です。令和2(2020)年、薬師寺の慈恩会で竪義を遂業した講師が、あまり知られていない学解仏教の世界を紹介します。前編では竪義までの21日間の前加行を中心に、後編は慈恩会と竪義についてお話ししています。法相論義の世界。ご視聴下さい。
講師
高次喜勝(法相宗大本山薬師寺・唯識学寮 研究員)
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第十六回(近世編1)(講師:亀山隆彦)[2020年10月17日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/ncph30rhrdT )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第18回(講師:亀山隆彦)[2021年12月22日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( http://ow.ly/U32e30s5l0A )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第十九回(近世編4)(講師:亀山隆彦)[2021年2月20日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/jLhZ30rxJR5 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十二回「平安仏教における真如と「本覚」」(講師:亀山隆彦)[2022年2月28日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十二回の講義では、第二十一回の講義を踏まえて、また別の視座から「顕密仏教」の思想史的意義について考えてみたいと思います。
中世日本に独特の「顕密仏教」システムを提唱した黒田俊雄氏は、その思想背景として、中世日本仏教を席捲する「本覚思想」の影響を強調しました。
黒田氏の仮説には見るべきところが大きいですが、他方で、末木氏等が指摘した通り、黒田氏がいうところの「密教」「本覚思想」は、意味が明瞭でなく、同じく系譜にも様々な問題が残ります。
そこで、この講義では、平安初期~中期に展開する真如論、つまり真理に関する論争に着目し、その観点から顕密仏教に深く関わる本覚概念の誕生を考えてみたいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十一回「「思想」から考える顕密仏教の誕生」(講師:亀山隆彦)[2022年2月14日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十一回の講義では、第十七回の講義を踏まえて、平安時代の奈良の諸宗派と諸大寺が有した思想的意義について考えてみたいと思います。。
平安初~中期にかけて、奈良の諸宗は、法会と問答を核とする独特の教育システムを確立します。この教育システムは、後に奈良仏教の範疇を超え、真言宗等でも採用され、日本仏教とその思想にとって不可欠の基盤ともなります。
また、このシステムの上に、中世日本に独特の「顕密仏教」が形成されたとも言えます。
本講義では、特に「思想」の面から、中世の顕密仏教の誕生について考えてみたいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十六回「平安中~後期の日本仏教の教理と問答」(講師:亀山隆彦)[2022年5月4日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十六回の講義では、日本仏教思想にとっての「黄金時代」とも主張される中世期、僧達の教義研究の基盤となった論義と問答がどのようなものだったか、お話します。
特に、第二十五回の講義でお話しました平安中期~後期の比叡山、良源以降の取り組みに注目し、この主題について、議論を試みたいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第8回(講師:亀山隆彦)[2021年2月24日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/YoSj30ryhgR )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【書評チャンネル in シラス】第2回: 「批判仏教」とは何だったのか
「書評チャンネル in シラス」第2回のアーカイブです。
1980年代の仏教学界では、「如来蔵思想は仏教にあらず」「本覚思想批判」などといった挑発的なステートメントとともに、仏教とは何か?という問題提起と、それに対する批判、議論が巻き起こりました。後に「批判仏教 Critical Buddhism」と総称されるようになるその運動は、一部の海外での展開を除くと、現在ではほとんど話題になることはありません。「批判仏教」とは何だったのか。その意義はどこにあるのか。代表的な著作をとりあげて「書評」を行いたいと思います。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第15回(講師:亀山隆彦)[2021年9月29日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( http://ow.ly/rxSp30rVM2P )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第2回(講師:亀山隆彦)[2020年8月26日]
※ この講義のレジュメを配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第十五回(中世編7)(講師:亀山隆彦)[2020年9月19日]
※ この講義のレジュメを配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十七回「覚鑁と平安後期の真言密教」(講師:亀山隆彦)[2022年5月18日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十七回の講義では、平安後期に登場する覚鑁の生涯と業績、そこに至るまでの真言宗の歴史についてお話します。
第一に、十~十二世紀にかけて日本の社会が大きく変化するなかで、真言宗が抱え込むことになる様々な課題を概観します。そして、平安末に登場する覚鑁が、それら課題とどう向き合い、解決を試みたか議論したいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第4回(講師:亀山隆彦)[2020年10月28日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/m2ZB30rhQqp )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第28回(講師:亀山隆彦)[2022年10月26日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( https://bit.ly/3FprlqA )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十回「平安初中期の仏教と政治権力」(講師:亀山隆彦)[2022年1月24日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十回の講義では、平安時代のある時期から大きく変化する天皇と仏教の関係性、さらに寺院のあり方を議論したいと思います。
具体的には、実際の政治と宗教イデオロギーの両面で大きく変化を遂げる権力と仏教の結びつきについてお話します。
空海以降、円仁、円珍等が新たに宮中に持ち込んだ各種儀礼から、皇族や貴族の願いにより新たに建築される寺院、そして、仏教の世界観に基づく天皇の捉え直し等が講義の主題となります。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】「思想」から考える日本仏教の歴史 第二十五回「平安後期の比叡山と天台宗」(講師:亀山隆彦)[2022年4月20日]
この番組は「思想」という視点から、日本の各時代(各地域)の仏教の特徴を解説する入門講義です。末木文美士、ベルナール・フォール、阿部龍一等、国内外の最新の研究成果を踏まえ、古代、中世、近世、そして現代日本のそれぞれで展開した仏教思想について分かりやすくお話しするつもりです。
第二十五回の講義では、平安後期の比叡山と天台宗の思想活動についてお話します。
既に様々な研究で指摘されるように、平安後期の比叡山は、さらに後の鎌倉仏教を牽引する法然、親鸞、栄西、道元、日蓮といった傑僧を輩出する母体です。
しかしながら、最澄、円仁、円珍、安然以降、同山の思想活動がどう展開されたか。実態は明確ではありません。
この講義では、特に十一~二世紀頃の教理研究に注目しながら、この問題について議論を試みたいと思います。
(この動画は、「上七軒文庫チャンネル in シラス」 https://shirasu.io/c/kami7kenbunkoshirasu で開講している連続講義「「思想」から考える日本仏教の歴史」の講義アーカイブです。毎月1日、15日に1回分ずつアップロードしていく予定です。)
【講義アーカイブ】様々な「視点」から考える唐初期三一権実論争(生成と多重視点の仏教学 特別講義)(講師:小野嶋祥雄)[2021年1月16日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/v4H930rt0Uc )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
唐初期の仏教界では、玄奘三蔵の訳経を契機として、一分不成仏説と一切皆成説、そのどちらの説が真実であるのかをめぐって、「三一権実論争」と呼称される論争が行われました。
本講義では、「生成と多重視点の仏教学」の講義で鍵となっている“様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替え”ということに留意して、この三一権実論争についてお話したいと思います。
【講義アーカイブ】生成と多重視点の仏教学:「論争」から考える日本仏教の思想 第十七回(近世編2)(講師:亀山隆彦)[2020年11月21日]
※ この講義のレジュメ( http://ow.ly/xsxL30rl8Q1 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
この講義では、様々な「視点」(パースペクティブ)とその切り替えを鍵に、日本仏教の思想について考えてみたいと思います。
例えば真言密教と空海、専修念仏と法然などが分かりやすいですが、我々はしばしば、個別の仏教思想と僧個人の密接な繋がりを前提に仏教の歴史を考えます。しかし、それこそ真言密教を空海の思索や内面の産物とするように、それぞれの思想を個々の僧に還元してよいか疑問は尽きません。
それは、決して歴史的な「視点」ではなく、むしろ近代の我々が考案した思想史の「視点」なのではないでしょうか?詳しくは講義内で紹介しますが、そのような我々の近代の「視点」を打ち砕く歴史的な物証は、既に多数発見されています。
したがって、むしろ次のように考えるべきかも知れません。
奈良・平安から江戸・明治までの日本仏教の歴史をふりかえるに、それまでにない斬新な仏教理解が登場する背景として、常に僧達の「多重視点」(マルチ・ペースペクティブ)が存在しました。その「多重視点」の交差から、真言密教も、天台本覚思想も、専修念仏も、純粋禅も生成してきました。
(あるいは、我々の「多重視点」も交差し、新たな仏教の理解を生成し続けているのかも知れません。)
僧達の「多重視点」がもっとも鮮明に観察できる事象がなにかといえば、彼らの間の「論義」「談義」、広義の「論争」でしょう。インドや中国、チベットと同じく、日本の仏教にも長い論争の歴史があります。それは奈良から平安時代の初めにかけて輸入された「空有の諍論」に始まり、中世の諸宗の組織的で洗練された論義の伝統、そして近世のキリスト教を対象とする異端論争へつながっていきます。
この講義では、上に述べた「視点」や「多重視点」をキーワードに日本仏教の論争の歴史を概観し、その思想の生成の局面についてお話します。
【講義アーカイブ】最澄・徳一論争を読み解く(生成と多重視点の仏教学 特別講義)(講師:師茂樹)[2021年3月20日]
平安時代初期におきた最澄と徳一の論争は、「三一権実諍論」などとも呼ばれ、日本仏教史のなかでも広く知られた論争である。この論争は、一乗思想と三乗思想、一切皆成仏(すべての衆生がブッダになれる)説と一分不成仏(一部の衆生はブッダになれない)説といったインド以来の対立の延長線上にあり、その最高潮である、という見方がされてきた。しかし、実際に『守護国界章』などの文献を読んでみると、そのような単純な二項対立ではなく、様々な思想がモザイクのように引用されており、そのこみいった議論にたじろぐ人も少なくない。なぜこんなに複雑なのか。そしてなぜ、この複雑な論争が、単純な二項対立として語られてきたのか。
近年、この論争がより広範な思想的対立が絡み合う中で成立したものであることが明らかになっている。特に、奈良時代から平安時代初期にかけての列島の仏教界で大きな問題であった、三論宗と法相宗の対立――いわゆる「空有の論争」が大きな背景としてあった。この対立も、「空」vs.「有」という単純な対立ではなかった。三論・法相の対立や最澄・徳一論争を読み解くには、広範な東アジア仏教思想の文脈を読み解く必要がある。
本講義では、最澄・徳一論争が東アジア仏教思想史の中でどのように位置付けられるのか、近年の研究をふまえつつご紹介したい。そして、この広範な文脈が、一乗/三乗の対立、という二項対立として理解されるきっかけとなった最澄の歴史叙述についても、言及することになるだろう。
※ レジュメ: http://ow.ly/I6HW30rBnKZ
【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第16回(講師:師茂樹)[2021年4月16日]
※ レジュメ( http://ow.ly/cEfc30rEron )と現代語訳( http://ow.ly/enXn30rA57W )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
※ 今回は、現代語訳の3.2.2.2.「種子は本有か新熏か」(84ページ)から「心性本浄説に対する批判」(90ページ)の手前まで読んでいます。
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
【講義アーカイブ】『成唯識論』を読む 第15回(講師:師茂樹)[2021年3月10日]
※ レジュメ( http://ow.ly/S9iW30rA58L )と現代語訳( http://ow.ly/enXn30rA57W )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
※ 今回から、現代語訳が新しくなりました。今回から八識説の中のアーラヤ識の説明に入っています。
『成唯識論』(じょうゆいしきろん)は、唯識思想を大成したとされる世親(ヴァスバンドゥ)の『唯識三十頌』に対する注釈書を、三蔵法師・玄奘(602-664)が編集・翻訳したとされる文献です。冒頭(第1〜2巻)で我(アートマン)と法(ダルマ)の実在を主張する諸説を徹底的に批判したあと、唯識思想の大きな特徴である八識説、すなわちアーラヤ識(第2〜4巻)、マナ識(第4〜5巻)、六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)と煩悩などの心所法(第5〜7巻)について説明されます。続いて、あらゆるものが識を離れないこと(一切唯識)について説明され(第7〜8巻)、空思想の唯識思想的説明である三性・三無性説が説かれます(第8〜9巻)。そして最後の第10巻では、修行の階梯が明らかにされます。
東アジアにおける唯識思想はこの『成唯識論』の注釈・解釈を中心に発展しました。前近代の日本仏教において大きな勢力を持っていた興福寺が、根本聖典の一つとしていたことでも知られています。東アジア仏教、日本仏教を考える上で大変重要な文献です。
これほど重要なテキストでありながら、現在のところ『成唯識論』を手軽に読めるような状況ではありません。本講義は、『成唯識論』の通読を試みるものです(したがって、全何回になるかはわかりません)。あまり細かい議論を追いかけることはせず、最後までたどり着くことを目指します。
安藤礼二×中島隆博「井筒俊彦と中国——あたらしい東洋哲学のために」(2019/11/26収録)
【収録時のイベント概要】
近年、慶應義塾大学出版会より井筒俊彦の英文著作が数多く刊行されている。2017年に配本が開始され、今年完結した「井筒俊彦英文著作翻訳コレクション」のことだ。
井筒俊彦は、1950年代半ばから70年代までの約20年間を欧米や中近東で過ごしており、その間は英語で執筆や講演活動を行なっていた。この叢書は、ちょうどこの時期の井筒の代表作を集めたものであり、2016年に配本が完了した『井筒俊彦全集』の空白を埋めるものとなっている。『意識と本質』をはじめとする、晩年の日本語による著作の源泉がここにあると言えるだろう。
この叢書には、エラノス会議の講演原稿や Language and Magic(『言語と呪術』)、 Sufism and Taoism (『スーフィズムと老荘思想』)などといった重要なテクストが含まれているが、井筒が中国ないし東洋の哲学を積極的に論じていることがわかる内容となっている。日本ではあまり知られてこなかったこれらの仕事は、井筒のあらたな側面を明らかにするだけでなく、東洋哲学へのあらたなアプローチとなる可能性を秘めている。
今回ゲンロンカフェでは、文芸批評家の安藤礼二氏と哲学者の中島隆博氏をお呼びして、井筒俊彦と東洋哲学について考えるトークイベントを開催する。
井筒と関連の深い折口信夫の研究でも知られる安藤氏は、今回の叢書の翻訳にも深く関わっている。また中島氏は、井筒が提唱する東洋哲学の「共時的思考の次元」における「構造化」(『意識と本質』)を彷彿とさせるような仕事でも知られている。
しばしばイスラーム研究のイメージを持たれがちな井筒だが、そのきわめて多様な側面に光を当てることで、私たちはより豊かな「遺産」を受け継ぐことができるのではないだろうか。
最新の翻訳によって明らかになりつつある新たな井筒像を通じて、「あたらしい東洋哲学」の可能性を探求する必見の議論!
【井筒俊彦とは】
井筒俊彦(1914-1993)は日本の哲学者、東洋思想研究者。日本ではじめて『コーラン』を原典訳するなどイスラームの研究で知られるが、大乗仏教や老荘思想などの研究でも有名。また卓越した語学力をもち、30以上の言語を操ったとも言われている。なお、1950〜70年代を欧米や中近東で過ごし、その間英文で講演や執筆を行なっていたため、欧米での評価が高い。晩年の代表作『意識と本質』のなかでは、自身の試みを「東洋哲学の共時的構造化」、つまり古代の東洋哲学を現代的な文脈と問題意識のなかで再構築することであると語っている。
【ゲンロン編集部員ゐせが選ぶ、イベント予習のための参考図書5冊!】
・『コスモスとアンチコスモス――東洋哲学のために』(岩波文庫)
今年文庫化されたばかりの論集。イベントまえに、「コスモスとアンチコスモス」と「事事無礙・理理無礙」はとりあえず読んでおくとよいかも。
・『東洋哲学覚書 意識の形而上学――『大乗起信論』の哲学』(中公文庫)
イスラーム神秘思想などとの比較のなかで大乗仏教を論じた本。簡単ではないが、とてもコンパクトなので手にとりやすい。
・『言語と呪術』(慶應義塾大学出版会)
今回登壇の安藤礼二さんの監訳で2018年に刊行された。安藤さん曰く「これによって井筒の読み方がガラッと変わる」とのこと。
・『意識と本質――精神的東洋を求めて』(岩波文庫)
いわずと知れた晩年の主著。時間があってまだ読んでないひとはぜひ。井筒の英文著作はどれも『意識と本質』以前なので、今回のイベントではこの本にいたるまでの道すじが語られるか。
・安藤礼二・若松英輔編『井筒俊彦――言語の根源と哲学の発生』(河出書房新社)
井筒に関する論集。デリダの原稿がのっている。『言語と呪術』を論じた安藤さんの論考と、安藤さん+若松さんの対談を読んでおくと今回登壇される安藤さんの問題意識が把握できるはず。
井筒俊彦と中国 – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20191126/
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第16回(講師:亀山隆彦)[2021年10月27日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( http://ow.ly/I4rS30s05ry )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。
【講義アーカイブ】『五輪九字明秘密釈』を読む 第22回(講師:亀山隆彦)[2022年4月27日]
院政期を代表する真言密教僧、覚鑁(1095~1144)には既にまとまった研究がいくつも存在するが、それらは等しくある研究課題を克服できないままと考える。日本仏教史であれ真言密教史であれ、従来の研究は常に覚鑁を一つないし複数の思想潮流の「中途」に位置付け、その観点からしか同僧とその思想の意義を分析してこなかった。
具体例をいくつか挙げておくと、覚鑁は空海没後、荒廃の極みにあった高野山と真言教学を「復興」し、後の真言宗隆盛の礎を作ったと先ず主張される。あるいは鎌倉中期の頼瑜(1226~1304)に先んじて、後の新義真言教学の基礎を樹立したともいわれる。さらに平安「旧」仏教から鎌倉「新」仏教への転換期に生き、それらの橋渡し役となる、法然や親鸞にとっての先駆の役割を果たしたと説かれることもある。今日の古義と新義の両真言宗、あるいは鎌倉「新」仏教を目的地とする道程の途中に、覚鑁のための場が設けられてきた。
フランスの哲学者であるルイ・アルチュセール(1918~1990)の言葉を借りれば、覚鑁は常に「目的地」を想定し「前未来形」で書かれる歴史の中で解釈され、その外に出ることは稀であった。このような「目的論的」(teleological)な理解から覚鑁とその言葉を解放し、同僧の思想の全体性・体系性を回復することこそが、本講義の最終的な目標である。
具体的には平安末期の日本仏教界と真言密教の状況を細かく把握した上で、覚鑁の主著ともいわれる『五輪九字明秘密釈』の読解を試みる。『五輪九字明秘密釈』は、非常に複雑な構造を有す文献でありながら、例えばその「密教浄土教」的な主張ばかり強調される等、総体として本書を読む試みはほとんどなされてこなかった。本講義では、まさにこの『五輪九字明秘密釈』を総体として読み、その中に隠された体系を解明すると共に、覚鑁の言葉や思考を規定していただろう深層の「規範」(paradigm)についても分析したい。
※ この講義の配布資料( http://ow.ly/ax1u30sfex2 )を配信しておりますので、適宜ダウンロードしてください。