キーワード 日蓮主義 が含まれる動画 : 28 件中 1 - 28 件目
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【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第32回・第一次大本弾圧事件
大正10年1921年の第一次大本弾圧事件後、仮出獄した出口王仁三郎は、来日し綾部を訪れていたバハイ教の米国人宣教師アイダ・エ・フインチと会見し、王仁三郎は、バハイ教が提唱する世界共通語としてのエスペラント語の普及の話に強く共感し、以後、大本内にもエスペラント語の研究会を設立し、エスペラント語とローマ字の全国普及に努めるようになる。
一方、大正9年1920年に中国で設立された新興宗教で慈善団体の世界紅卍字会との提携に乗り出し、これがきっかけで大本率いる王仁三郎は、世界中の全宗教との連合を企画し、大本の万教同根の精神に基づき、全世界の宗教は信仰対象や信仰内容に関わらず一致団結しようという世界愛善運動を始めた。
大正13年1924年には、王仁三郎は保釈の身でありながら、世界宗教連合会の設立に着手した。
しかし、その直後、王仁三郎は突如思い立って、信者の植芝盛平ら3名を引き連れ、満州入りし、関東軍特務機関の協力を得て、内蒙古の馬賊の棟梁の蘆占魁の率いる千名の匪賊の部下を同行させ、奉天派トップの張作霖から馬賊討伐の為という理由で満蒙の行軍を始めたが、この行軍は王仁三郎にとっては、新蒙古王国の建設であり、蒙古よりエルサレムを目指した世界の精神的統一の運動であった。
しかし、奉天より北西方向に進軍していた王仁三郎の隊列は外蒙古付近で突如南進に方向を変えた為、これは内蒙古独立運動ではないかと張作霖に疑われ、王仁三郎とともに隊列を進めていた蘆占魁らは張作霖の部隊に追討され、戦わずして武装解除の上、全員逮捕され、蘆は即座に銃殺され、王仁三郎たちも銃殺刑が決まったものの、運よく張作霖部隊の処刑担当兵の機関銃が根詰まりしたため処刑は延期となった。
その直後、日本領事館からの歎願により処刑自体が中止となり、王仁三郎一行は間一髪の難を逃れることが出来たのだ。無事帰国できた王仁三郎は、一旦大阪刑務所に収監されたが、ただちに再保釈され、いよいよ、入蒙前からの目的だった世界宗教連合会結成の準備を進め、大本信者で大陸浪人の岡崎鉄首や、大アジア主義者で日蓮主義者の当山満や内田良平らの協力もあり、大正14年1925年の5月20日に、北京悟善社において、世界宗教連合会の発会式が挙行されるに至った。
このようにして発足した世界宗教連合会の総本部は北京におかれることになり、東洋本部は亀岡に設置することになった。
こうして、一見、世界の反戦平和の実現と世界宗教の融和を求めたような世界大家族主義運動を進める一方で、実は、王仁三郎の中ではもう一つのそうした平和的な動きとは相反するような思想的発展が進行していた。
【鎌倉仏教シリーズ】第95回・日蓮系新興宗教⑤顕正会2-2
日蓮の弟子・日興の流れ(日興門流)を引き継ぐ日蓮正宗は、その正宗を構成する多くの法華講(構成ユニット)の中で巨大化した法華講の顕正会と創価学会を、国立戒壇の解釈を巡って対立し、やがてこの両者の法華講を破門することになります。国立戒壇とは、日蓮が唱えた三大秘法の中の「本門の戒壇」の極端な解釈を明治末期頃にした国柱会の田中智學によって生み出されたものですが、これは戦前、日蓮主義と呼ばれ、釈迦牟尼仏(絶対神)の生まれ変わりである天皇が中心になって世界中を法華経信仰一色にするべきだ(八紘一宇)という思想です。この思想を引き継いだのは日蓮正宗なんですが、中でも顕正会と創価学会は国立戒壇論を強く主張し、正宗から破門されることになりました。
【鎌倉仏教シリーズ】第95回・日蓮系新興宗教⑤顕正会2-1
日蓮の弟子・日興の流れ(日興門流)を引き継ぐ日蓮正宗は、その正宗を構成する多くの法華講(構成ユニット)の中で巨大化した法華講の顕正会と創価学会を、国立戒壇の解釈を巡って対立し、やがてこの両者の法華講を破門することになります。国立戒壇とは、日蓮が唱えた三大秘法の中の「本門の戒壇」の極端な解釈を明治末期頃にした国柱会の田中智學によって生み出されたものですが、これは戦前、日蓮主義と呼ばれ、釈迦牟尼仏(絶対神)の生まれ変わりである天皇が中心になって世界中を法華経信仰一色にするべきだ(八紘一宇)という思想です。この思想を引き継いだのは日蓮正宗なんですが、中でも顕正会と創価学会は国立戒壇論を強く主張し、正宗から破門されることになりました。
【鎌倉仏教シリーズ】第92回・日蓮系新興宗教②霊友会2-3
日蓮の弟子(六老僧)からの流れとはまったく無関係に大正時代より彗星の如く現れた霊友会は、日蓮の弟子・日朗の流れを汲む本門仏立宗出身の西田無学の影響を受け、法華経を、夫婦の先祖供養を修行(菩薩行)の中心と据えてると解釈し、創始者の久保角太郎は最初「霊能者」の若月チセらと大正15年(1924年)に北千住霊友会を創立し、やがてチセと袂を分かち、兄嫁の小谷喜美らと昭和2年(1927年)に赤坂霊友会を創立し、それが昭和5年(1930年)現在に至る霊友会へと発展していきます。突然現れた霊友会は、果たして田中智學らの国柱会日蓮主義とはまったく異なる流れなのか? その辺を検証しながら見て行きたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第92回・日蓮系新興宗教②霊友会2-2
日蓮の弟子(六老僧)からの流れとはまったく無関係に大正時代より彗星の如く現れた霊友会は、日蓮の弟子・日朗の流れを汲む本門仏立宗出身の西田無学の影響を受け、法華経を、夫婦の先祖供養を修行(菩薩行)の中心と据えてると解釈し、創始者の久保角太郎は最初「霊能者」の若月チセらと大正15年(1924年)に北千住霊友会を創立し、やがてチセと袂を分かち、兄嫁の小谷喜美らと昭和2年(1927年)に赤坂霊友会を創立し、それが昭和5年(1930年)現在に至る霊友会へと発展していきます。突然現れた霊友会は、果たして田中智學らの国柱会日蓮主義とはまったく異なる流れなのか? その辺を検証しながら見て行きたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第92回・日蓮系新興宗教②霊友会2-1
日蓮の弟子(六老僧)からの流れとはまったく無関係に大正時代より彗星の如く現れた霊友会は、日蓮の弟子・日朗の流れを汲む本門仏立宗出身の西田無学の影響を受け、法華経を、夫婦の先祖供養を修行(菩薩行)の中心と据えてると解釈し、創始者の久保角太郎は最初「霊能者」の若月チセらと大正15年(1924年)に北千住霊友会を創立し、やがてチセと袂を分かち、兄嫁の小谷喜美らと昭和2年(1927年)に赤坂霊友会を創立し、それが昭和5年(1930年)現在に至る霊友会へと発展していきます。突然現れた霊友会は、果たして田中智學らの国柱会日蓮主義とはまったく異なる流れなのか? その辺を検証しながら見て行きたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第90回・日蓮主義⑨妹尾義郎と左翼日蓮主義 2-2
日蓮主義と言えば、八紘一宇を訴えて世界侵略と世界征服を画策した田中智學や、一生一殺をスローガンに政府財界要人暗殺の運動を進めた井上日召など国家主義的な法華右翼のイメージが強い中、きわめて異色な存在として、左翼日蓮主義者として労働運動や社会主義運動に参加した妹尾義郎(せのうぎろう)がいます。同じ日蓮主義で右翼と左翼がいるという事自体に違和感を感じる人は多いと思いますが、実は、右翼とか左翼というのは方法論の違いで、根本は法華経で世界を統一(政治界も宗教界も)しようという原点は共有していたのです。妹尾は戦前、戦後を通じて自らの左翼日蓮主義的立場を貫き、最後には共産党にまで入党するという経緯を辿ります。
【鎌倉仏教シリーズ】第90回・日蓮主義⑨妹尾義郎と左翼日蓮主義 2-1
日蓮主義と言えば、八紘一宇を訴えて世界侵略と世界征服を画策した田中智學や、一生一殺をスローガンに政府財界要人暗殺の運動を進めた井上日召など国家主義的な法華右翼のイメージが強い中、きわめて異色な存在として、左翼日蓮主義者として労働運動や社会主義運動に参加した妹尾義郎(せのうぎろう)がいます。同じ日蓮主義で右翼と左翼がいるという事自体に違和感を感じる人は多いと思いますが、実は、右翼とか左翼というのは方法論の違いで、根本は法華経で世界を統一(政治界も宗教界も)しようという原点は共有していたのです。妹尾は戦前、戦後を通じて自らの左翼日蓮主義的立場を貫き、最後には共産党にまで入党するという経緯を辿ります。
【鎌倉仏教シリーズ】第89回・日蓮主義⑧外八州史観と神道カルト2-2
木村鷹太郎は、昭和2年(1927)に「一天四海五大洲の大日蓮」という本を出版し、かつて太古の昔は世界が日本であった、言う「外八州史観」を発表します。しかし、末法の時代とともにかつての外八州(=全世界)日本は失われ、今や内八州という小さな領土になってしまった日本が、法華経の公布という使命を負って再び外八州を取り戻す(つまり、侵略するという意味)べきだと主張します。この誇大妄想的な発想は、平田国学の流れを汲む平田系神道カルトの間にも広まり(大本教「世界雛形理論」、さらには陸軍中枢まで広まる(神道天行居など)と、それは妄想から狂気の現実となり、日本を絶望的な戦争への道へと導いて行きます。
【鎌倉仏教シリーズ】第89回・日蓮主義⑧外八州史観と神道カルト2-1
木村鷹太郎は、昭和2年(1927)に「一天四海五大洲の大日蓮」という本を出版し、かつて太古の昔は世界が日本であった、言う「外八州史観」を発表します。しかし、末法の時代とともにかつての外八州(=全世界)日本は失われ、今や内八州という小さな領土になってしまった日本が、法華経の公布という使命を負って再び外八州を取り戻す(つまり、侵略するという意味)べきだと主張します。この誇大妄想的な発想は、平田国学の流れを汲む平田系神道カルトの間にも広まり(大本教「世界雛形理論」、さらには陸軍中枢まで広まる(神道天行居など)と、それは妄想から狂気の現実となり、日本を絶望的な戦争への道へと導いて行きます。
【鎌倉仏教シリーズ】第88回・日蓮主義⑦江川桜堂と「死のう団」2-2
昭和8年(1933)6月、日蓮会殉教衆青年党を組織した江川桜堂(忠治)は、28名の党員の青年男女に「殉教千里行」という、全員が黒衣に白袴という装束で「死のう!死のう!」と叫びながら鶴岡八幡宮まで行進する行動を行ったところ、途中の逗子桜山で官憲に全員逮捕され、江川も含め、拘置所で1~2か月間の間拷問取り調べを受けることになり、釈放後、江川ら日蓮会は官憲への抗議活動として、皇居前、警視庁前、内務省、国会議事堂前などで割腹パフォーマンス抗議を行ったりする中、江川本人が病死し、盟主江川の死亡を嘆く日蓮会の若い男女5名(うち女性3名)が相次いで自殺をするという、所謂「死のう団事件」なるものを起こします。
【鎌倉仏教シリーズ】第88回・日蓮主義⑦江川桜堂と「死のう団」2-1
昭和8年(1933)6月、日蓮会殉教衆青年党を組織した江川桜堂(忠治)は、28名の党員の青年男女に「殉教千里行」という、全員が黒衣に白袴という装束で「死のう!死のう!」と叫びながら鶴岡八幡宮まで行進する行動を行ったところ、途中の逗子桜山で官憲に全員逮捕され、江川も含め、拘置所で1~2か月間の間拷問取り調べを受けることになり、釈放後、江川ら日蓮会は官憲への抗議活動として、皇居前、警視庁前、内務省、国会議事堂前などで割腹パフォーマンス抗議を行ったりする中、江川本人が病死し、盟主江川の死亡を嘆く日蓮会の若い男女5名(うち女性3名)が相次いで自殺をするという、所謂「死のう団事件」なるものを起こします。
【鎌倉仏教シリーズ】第87回・日蓮主義⑥井上日召と血盟団事件2-2
昭和7年(1932)の2月から3月にかけて日蓮主義の僧侶・井上日召が率いる右翼テログループが、前蔵相の井上準之助および三井財閥の団琢磨を相次いで暗殺する事件(所謂世に言う「血盟団事件」)が起こります。日蓮主義者と陸軍および海軍における錦旗革命グループとの繋がりは強くなり、軍が武器を調達し、日蓮主義者がテロを行うというパターンが生まれて行きます。そして同年の5月には海軍グループによる「515事件」が発生します。これも背後には日蓮主義者たちが関わってきます。日蓮主義者と軍人クーデターグループの共通目標は、天皇を中心とした社会主義国家の建設であり、やがてその目標は4年後の2月26日に起きた「226事件」のように、国家改造および八紘一宇思想へと発展していきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第87回・日蓮主義⑥井上日召と血盟団事件2-1
昭和7年(1932)の2月から3月にかけて日蓮主義の僧侶・井上日召が率いる右翼テログループが、前蔵相の井上準之助および三井財閥の団琢磨を相次いで暗殺する事件(所謂世に言う「血盟団事件」)が起こります。日蓮主義者と陸軍および海軍における錦旗革命グループとの繋がりは強くなり、軍が武器を調達し、日蓮主義者がテロを行うというパターンが生まれて行きます。そして同年の5月には海軍グループによる「515事件」が発生します。これも背後には日蓮主義者たちが関わってきます。日蓮主義者と軍人クーデターグループの共通目標は、天皇を中心とした社会主義国家の建設であり、やがてその目標は4年後の2月26日に起きた「226事件」のように、国家改造および八紘一宇思想へと発展していきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第86回・日蓮主義⑤北一輝と226事件2-2
北一輝と言えば、イメージ的に「尊皇攘夷思想に燃えた青年将校たちを奮い立たせ、腐りきった財閥支配の政治を打倒し、天皇中心の愛国国家を建設を進める指導者」のような感がありますが、実は、本質は、幸徳秋水、堺利彦らの社会主義者思想や頭山満、内田良平らの日本・朝鮮・中国互恵の独立国連合を目指した大アジア主義、そして、その両者を、日蓮主義の八紘一宇思想で繋ぐ「革命の為の天皇利用論」者でした。226事件の事後、銃殺刑が決まって、すべてのクーデター参加者が「天皇陛下万歳」を叫んで銃殺された中、北一輝一人は天皇陛下万歳を唱えなかったのでも有名です
【鎌倉仏教シリーズ】第86回・日蓮主義⑤北一輝と226事件2-1
北一輝と言えば、イメージ的に「尊皇攘夷思想に燃えた青年将校たちを奮い立たせ、腐りきった財閥支配の政治を打倒し、天皇中心の愛国国家を建設を進める指導者」のような感がありますが、実は、本質は、幸徳秋水、堺利彦らの社会主義者思想や頭山満、内田良平らの日本・朝鮮・中国互恵の独立国連合を目指した大アジア主義、そして、その両者を、日蓮主義の八紘一宇思想で繋ぐ「革命の為の天皇利用論」者でした。226事件の事後、銃殺刑が決まって、すべてのクーデター参加者が「天皇陛下万歳」を叫んで銃殺された中、北一輝一人は天皇陛下万歳を唱えなかったのでも有名です
【鎌倉仏教シリーズ】第85回・日蓮主義④石原莞爾と国柱会2- (2)
釈迦尊と日蓮上人と天皇を一体視し、釈迦・日蓮の権化(生まれ変わり)としての天皇が中心となって世界を法華経で統一(世界征服)することを目指す日蓮主義は、大正時代頃から台頭しだした田中智學の国柱会を中心に知識人や軍人、経済人の間に広く浸透していきます。石原莞爾は、仙台陸軍幼年学校時代より法華経に興味を持ち、東京で陸軍大学卒業後には陸軍武官として国柱会に入会し、本格的に日蓮主義に没頭していきます。やがて彼は、日蓮主義の八紘一宇思想を実現すべく、満州事変の企画実行、そして世界最終戦争論を展開していきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第85回・日蓮主義④石原莞爾と国柱会2- (1)
釈迦尊と日蓮上人と天皇を一体視し、釈迦・日蓮の権化(生まれ変わり)としての天皇が中心となって世界を法華経で統一(世界征服)することを目指す日蓮主義は、大正時代頃から台頭しだした田中智學の国柱会を中心に知識人や軍人、経済人の間に広く浸透していきます。石原莞爾は、仙台陸軍幼年学校時代より法華経に興味を持ち、東京で陸軍大学卒業後には陸軍武官として国柱会に入会し、本格的に日蓮主義に没頭していきます。やがて彼は、日蓮主義の八紘一宇思想を実現すべく、満州事変の企画実行、そして世界最終戦争論を展開していきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第84回・日蓮主義③宮沢賢治と国柱会2-2
宮沢賢治と言えば、「銀河鉄道の夜」とか「風の又三郎」、そして「雨ニモマケズ」手帳などで彼の事を知らない日本人はほとんどいないと言ってもよいぐらい有名な童話作家です。しかし、その宮沢賢治が、あの511事件、血盟団事件、226事件などに関連した恐ろしい日蓮主義の熱烈な信者であったことを知る人は少ないと思います。一体彼の作品や、イーハトーブの理想郷を目指した羅須地人協会がその日蓮主義と関連があるのか? その辺りを中心に宮沢賢治の生涯およびその作品を見ていきたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第84回・日蓮主義③宮沢賢治と国柱会2-1
宮沢賢治と言えば、「銀河鉄道の夜」とか「風の又三郎」、そして「雨ニモマケズ」手帳などで彼の事を知らない日本人はほとんどいないと言ってもよいぐらい有名な童話作家です。しかし、その宮沢賢治が、あの511事件、血盟団事件、226事件などに関連した恐ろしい日蓮主義の熱烈な信者であったことを知る人は少ないと思います。一体彼の作品や、イーハトーブの理想郷を目指した羅須地人協会がその日蓮主義と関連があるのか? その辺りを中心に宮沢賢治の生涯およびその作品を見ていきたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第83回・日蓮主義②田中智學と国柱会2- 2
本来日蓮宗は、日本の天皇と言えども所詮釈迦牟尼仏の守護神の一つにすぎないと解釈してましたが、明治13年(1880)に田中智學が、釈迦牟尼仏と日蓮上人とアマテラスは同一である(王法冥合論)を展開し、蓮華会を設立して以降、日蓮主義は燎原の火のごとく広がり、大正13年(1943)に国柱会へと発展すると、日蓮主義は軍人、知識人、文化人の間に大きな影響力を持つようになり、後の多くの右翼テロリズムのイデオローグとなっていきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第83回・日蓮主義②田中智學と国柱会2- 1
【鎌倉仏教シリーズ】第83回・日蓮主義②田中智學と国柱会2- 本来日蓮宗は、日本の天皇と言えども所詮釈迦牟尼仏の守護神の一つにすぎないと解釈してましたが、明治13年(1880)に田中智學が、釈迦牟尼仏と日蓮上人とアマテラスは同一である(王法冥合論)を展開し、蓮華会を設立して以降、日蓮主義は燎原の火のごとく広がり、大正13年(1943)に国柱会へと発展すると、日蓮主義は軍人、知識人、文化人の間に大きな影響力を持つようになり、後の多くの右翼テロリズムのイデオローグとなっていきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第82回・日蓮主義①八紘一宇思想2-2
第一次大戦後の世界不況の波は日本にも押し寄せ、社会不安が急速に高まった大正の終わりから昭和にかけて勃興してきたのがこの日蓮主義集団です。日蓮宗は幕末から都市部(京都・江戸など)で国難に立ち向かったかつての日蓮の姿勢と重ね合わせたイメージから急速に熱狂的な信者が増えてましたが、大正後期になると日々悪化する国際状況・国内状況の中で再び日蓮主義という形で復活します。時代の狂気が生み出した「八紘一宇」(法華経国家日本を中心にした世界征服)を掲げる日蓮主義者たちは515事件、血盟団事件、226事件と、当時の日本を破滅への道へ導いていきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第82回・日蓮主義①八紘一宇思想2- 1
第一次大戦後の世界不況の波は日本にも押し寄せ、社会不安が急速に高まった大正の終わりから昭和にかけて勃興してきたのがこの日蓮主義集団です。日蓮宗は幕末から都市部(京都・江戸など)で国難に立ち向かったかつての日蓮の姿勢と重ね合わせたイメージから急速に熱狂的な信者が増えてましたが、大正後期になると日々悪化する国際状況・国内状況の中で再び日蓮主義という形で復活します。時代の狂気が生み出した「八紘一宇」(法華経国家日本を中心にした世界征服)を掲げる日蓮主義者たちは515事件、血盟団事件、226事件と、当時の日本を破滅への道へ導いていきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第75回・日蓮宗⑤日持の海外布教2-2
日蓮の弟子ベスト6(六老僧)の一人である日持は、46歳にして、東北・南北海道での布教の後、海外への布教を志し、秋田沖より船出し、現ロシアの沿海州に上陸後、旧満州(現・中国東北部)から内蒙古に進み、さらには南下してインドを目指しましたが、その志を達成することはなく内蒙古のどこかで死去されたとされてます。(諸説あり)この日持の満州・内蒙布教は、昭和の時代に、陸軍に深く浸透した日蓮主義右翼の人たちにより北進論の根拠とされていきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第75回・日蓮宗⑤日持の海外布教2-1
日蓮の弟子ベスト6(六老僧)の一人である日持は、46歳にして、東北・南北海道での布教の後、海外への布教を志し、秋田沖より船出し、現ロシアの沿海州に上陸後、旧満州(現・中国東北部)から内蒙古に進み、さらには南下してインドを目指しましたが、その志を達成することはなく内蒙古のどこかで死去されたとされてます。(諸説あり)この日持の満州・内蒙布教は、昭和の時代に、陸軍に深く浸透した日蓮主義右翼の人たちにより北進論の根拠とされていきます。
【鎌倉仏教シリーズ】第74回・日蓮宗④日興(創価学会への系譜)2-2
日蓮の六人の名弟子(六老僧)のうち、日興は、温厚な性格の日朗と対立し、日蓮の入滅後(死後)、他の5人の名弟子たちと対立し(五一相対)、日蓮宗の中心拠点の身延を去り、富士山麓に大石寺を創建し、日蓮宗富士門流を築きますが、この流れが後の日蓮正宗や、そこから派生した今日の創価学会へ繋がる流れとなります。その日興の思想とは、日蓮上人を釈迦の生まれ変わりとみなし、日蓮を本尊とし、題目読誦に徹して世界を仏国土とする急進思想であり、これは後に八紘一宇や国立戒壇設立を主張する昭和の日蓮主義へと繋がって行きます。
【鎌倉仏教シリーズ】第74回・日蓮宗④日興(創価学会への系譜)2-1
日蓮の六人の名弟子(六老僧)のうち、日興は、温厚な性格の日朗と対立し、日蓮の入滅後(死後)、他の5人の名弟子たちと対立し(五一相対)、日蓮宗の中心拠点の身延を去り、富士山麓に大石寺を創建し、日蓮宗富士門流を築きますが、この流れが後の日蓮正宗や、そこから派生した今日の創価学会へ繋がる流れとなります。その日興の思想とは、日蓮上人を釈迦の生まれ変わりとみなし、日蓮を本尊とし、題目読誦に徹して世界を仏国土とする急進思想であり、これは後に八紘一宇や国立戒壇設立を主張する昭和の日蓮主義へと繋がって行きます。