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1月31日のラッキー神社「水戸東照宮」
東照宮とは、東照大権現たる徳川家康を祀る神社のこと。
日光、久能山などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られました。
明治維新以後は廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社。
徳川に縁の深いここ茨城でも、現在の水戸市に水戸東照宮がつくられました。水戸駅からほど近い常葉山(ときわやま)に鎮座しています。
創建したのは、家康公の第11子で水戸藩初代藩主の、徳川頼房公。
水戸東照宮には家康公のほかに頼房公も祀られています。
1月31日は「徳川家康が生まれた日」
戦国乱世まだたけなわの1542年12月26日、現在の暦で1543年の今日、三河岡崎城主松平広忠の長男として 家康は誕生しました。
当時松平氏は東の今川義元、西の織田信秀に三河をくるみ割りにされ滅亡の危機に瀕していました。
そして、この危機を打開するために今川氏の支援を受けて織田氏と対決しようとしていた広忠は、家康を駿府に人質として差し出されなければなりませんでした。
まだ六歳で竹千代と呼ばれていた頃、家康はそれから足かけ十二年の不遇な生活を余儀なくされました。
亡くなったのは1616年5月22日。
鯛の天ぷらによる食中毒説が有力とも言われていましたが、日付があわないらしく、今は胃がんで亡くなったという説があります。
1月30日のラッキー文化財「笠間市の木造千手観音立像」
笠間市の「楞厳寺(りょうごんじ)」にある木造千手観音立像は1252年に造仏されました。
造りは檜材の寄木造りで、漆箔を置き、玉眼嵌入、水晶で作った目に裏側から色を付け、綿や和紙を挟んで、裏側から押さえ木で固定する方法で作られています。
玉眼陥入という手法は、鎌倉時代の仏師、主に慶派の仏師が多用していました。
頭の上で束ねた髪、髻が高く作られていて、ひだの複雑な作りからも慶派の作風であることがわかります。
背面の刻銘に、笠間城主・笠間時朝(かさま ときとも)の発願による造像である、と記されています。
大正9年の8月16日、国の重要文化財に指定されました。
1月30日は「三十三間堂が落慶した日」
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都市東山区にある仏堂です。
正式名は蓮華王院(れんげおういん)で、その本堂が「三十三間堂」と呼ばれています。
これは、南北にのびるお堂内部の柱間、つまり柱と柱の間の数が33もあるという建築的な特徴によるものです。
「三十三」という数は、観音菩薩が33の姿に変身する、と説かれていることに由来します。
三十三間堂は元々、平安後期に院政を行った後白河上皇が、自身の離宮内に平清盛の協力によって創建したものでした。
それが西暦1165年1月30日の出来事です。
ところが、そのお堂は1249年、市中からの火災により焼失。
鎌倉期の1266年に再建されたのが、今京都にある三十三間堂となっています。
1月29日のラッキー高速道路「首都圏中央連絡自動車道」
首都圏中央連絡自動車道(しゅとけんちゅうおうれんらくじどうしゃどう)は、首都圏の道路交通の骨格として、1963年に計画された3環状9放射ネットワークの一番外側の環状道路です。
茨城県に住む方には、圏央道(けんおうどう)という名称のほうが馴染みがあるかもしれませんね。
1都4県にまたがり、横浜、厚木、八王子、川越、つくば、成田、木更津などの中核都市をはじめ、成田空港や横浜港などの国際旅客・物流施設を連結しています。
総延長約300キロで、全線開通すると東京湾アクアラインと一体となり、首都圏を広域に囲い込む高速道路ネットワークを形成します。
1月29日は「人口調査記念日」
1872(明治5)年のこの日、日本初の全国戸籍調査が行われたことに由来しています。
当時の人口は男1679万6158人、女1631万4667人で合計3311万825人でした。
これは現在の約4分の1の人口です。
国勢調査は、英語のセンサス(Population Census)の訳語で、調査対象者すべてを調べることから「全数調査」とも呼ばれています。
センサスの歴史は古く、紀元前3800年代にバビロン王朝で行なわれ、紀元前3000年頃にはエジプトや中国でも行なわれたと記録されています。
1月28日のラッキー新聞「茨城新聞」
茨城新聞は、株式会社茨城新聞社が、茨城県水戸市で編集・発行する地方新聞です。
茨城新聞の創刊は、1891年7月5日。
日本では大津事件や濃尾地震など、大きな事件や災害が起きた年でした。
2011年3月11日、東日本大震災があった日。
震災当日は本社も被災し、停電によって新聞の制作が困難な状況にありましたが、予備電源によって4ページ分の紙面を作り、大震災の情報を届けました。
12日、13日も電気が復旧することはなく、緊急時の相互支援協定を結んでいた栃木県の下野新聞(しもつけしんぶん)にスタッフを送り、印刷の代行協力を仰ぎました。
14日に停電が復旧し、ようやく本社での作業が可能となったのです。
多くの人が被災した大震災の中、停電した地域にあっても新聞であれば情報を得ることが出来たという、紙のメディアが持つ強さを発揮したのでした。
1月28日は「日本初の日刊新聞が創刊された日」
1871年1月28日、神奈川県横浜市にて、日本初の日刊新聞である横浜毎日新聞が創刊されました。
当時の神奈川県令、現在でいう神奈川県知事であった井関盛艮(いぜき もりとめ)が、近代新聞の必要性を横浜の貿易商達に説明し、印刷業者の本木昌造(もとき しょうぞう)と陽其二(よう そのじ)の協力の下、創刊に漕ぎ着けました。貿易港である横浜らしく、紙面は貿易に関する情報が中心であったようです。
幕末から明治初期の頃にも新聞はありましたが、和紙に木版で印刷されたものでした。
それに対し、横浜毎日新聞は、洋紙に木製の活字を使った活版で印刷されているのが特徴です。
そして、紙面を欄で区切るという体裁は、現在の新聞とほとんど変わらないものであったそうです。