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〈5/7〉市川真人×福嶋亮大×東浩紀「『批評』とは何だったのか?——創刊号企画『現代日本の批評』参加メンバーが批評史を総括、ゲンロン創刊の展望を語る」【2015/12/11収録】
刊行日の12月1日を前に、早くも話題沸騰の新創刊雑誌『ゲンロン』。 創刊号の特集「現代日本の批評」は、かつて浅田彰・柄谷行人らが手がけた『近代日本の批評』を踏まえ、1975年以降の日本の批評誌を総括する試みです。この刊行記念イベントでは、『ゲンロン1』に収録された「昭和批評の諸問題 1975-1989」の内容を振り返りつつ、3月刊行の『ゲンロン2』掲載予定の「平成批評の諸問題 1989-2001」へ向けた展望も語ります。現代日本にとって批評とは何だったのか? そしてどこへ行くのか。批評のゆくえに関心を持つすべての人が必見です!!!https://genron-tomonokai.com/genron/
〈4/7〉市川真人×福嶋亮大×東浩紀「『批評』とは何だったのか?——創刊号企画『現代日本の批評』参加メンバーが批評史を総括、ゲンロン創刊の展望を語る」【2015/12/11収録】
刊行日の12月1日を前に、早くも話題沸騰の新創刊雑誌『ゲンロン』。 創刊号の特集「現代日本の批評」は、かつて浅田彰・柄谷行人らが手がけた『近代日本の批評』を踏まえ、1975年以降の日本の批評誌を総括する試みです。この刊行記念イベントでは、『ゲンロン1』に収録された「昭和批評の諸問題 1975-1989」の内容を振り返りつつ、3月刊行の『ゲンロン2』掲載予定の「平成批評の諸問題 1989-2001」へ向けた展望も語ります。現代日本にとって批評とは何だったのか? そしてどこへ行くのか。批評のゆくえに関心を持つすべての人が必見です!!!https://genron-tomonokai.com/genron/
〈3/7〉市川真人×福嶋亮大×東浩紀「『批評』とは何だったのか?——創刊号企画『現代日本の批評』参加メンバーが批評史を総括、ゲンロン創刊の展望を語る」【2015/12/11収録】
刊行日の12月1日を前に、早くも話題沸騰の新創刊雑誌『ゲンロン』。 創刊号の特集「現代日本の批評」は、かつて浅田彰・柄谷行人らが手がけた『近代日本の批評』を踏まえ、1975年以降の日本の批評誌を総括する試みです。この刊行記念イベントでは、『ゲンロン1』に収録された「昭和批評の諸問題 1975-1989」の内容を振り返りつつ、3月刊行の『ゲンロン2』掲載予定の「平成批評の諸問題 1989-2001」へ向けた展望も語ります。現代日本にとって批評とは何だったのか? そしてどこへ行くのか。批評のゆくえに関心を持つすべての人が必見です!!!https://genron-tomonokai.com/genron/
〈2/7〉市川真人×福嶋亮大×東浩紀「『批評』とは何だったのか?——創刊号企画『現代日本の批評』参加メンバーが批評史を総括、ゲンロン創刊の展望を語る」【2015/12/11収録】
刊行日の12月1日を前に、早くも話題沸騰の新創刊雑誌『ゲンロン』。 創刊号の特集「現代日本の批評」は、かつて浅田彰・柄谷行人らが手がけた『近代日本の批評』を踏まえ、1975年以降の日本の批評誌を総括する試みです。この刊行記念イベントでは、『ゲンロン1』に収録された「昭和批評の諸問題 1975-1989」の内容を振り返りつつ、3月刊行の『ゲンロン2』掲載予定の「平成批評の諸問題 1989-2001」へ向けた展望も語ります。現代日本にとって批評とは何だったのか? そしてどこへ行くのか。批評のゆくえに関心を持つすべての人が必見です!!!https://genron-tomonokai.com/genron/
〈1/7〉市川真人×福嶋亮大×東浩紀「『批評』とは何だったのか?——創刊号企画『現代日本の批評』参加メンバーが批評史を総括、ゲンロン創刊の展望を語る」【2015/12/11収録】
刊行日の12月1日を前に、早くも話題沸騰の新創刊雑誌『ゲンロン』。 創刊号の特集「現代日本の批評」は、かつて浅田彰・柄谷行人らが手がけた『近代日本の批評』を踏まえ、1975年以降の日本の批評誌を総括する試みです。この刊行記念イベントでは、『ゲンロン1』に収録された「昭和批評の諸問題 1975-1989」の内容を振り返りつつ、3月刊行の『ゲンロン2』掲載予定の「平成批評の諸問題 1989-2001」へ向けた展望も語ります。現代日本にとって批評とは何だったのか? そしてどこへ行くのか。批評のゆくえに関心を持つすべての人が必見です!!!https://genron-tomonokai.com/genron/
〈7/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
〈6/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
〈5/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
〈4/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
〈3/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
〈2/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
〈1/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
(5/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(4/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(3/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(2/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(1/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(5/5)斎藤環×東浩紀「批評の精神分析2015——ラカン、ヤンキー、ノーラン」【2015/4/22収録】 @pentaxxx @hazuma
【登壇者プロフィール】
斎藤環(さいとう・たまき)
1961年、岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に『社会的ひきこもり』(PHP研究所)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)など。『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)で、第11回角川財団学芸賞受賞。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社発行『思想地図β』編集長。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。
(4/5)斎藤環×東浩紀「批評の精神分析2015——ラカン、ヤンキー、ノーラン」【2015/4/22収録】 @pentaxxx @hazuma
【登壇者プロフィール】
斎藤環(さいとう・たまき)
1961年、岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に『社会的ひきこもり』(PHP研究所)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)など。『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)で、第11回角川財団学芸賞受賞。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社発行『思想地図β』編集長。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。
(3/5)斎藤環×東浩紀「批評の精神分析2015——ラカン、ヤンキー、ノーラン」【2015/4/22収録】 @pentaxxx @hazuma
【登壇者プロフィール】
斎藤環(さいとう・たまき)
1961年、岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に『社会的ひきこもり』(PHP研究所)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)など。『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)で、第11回角川財団学芸賞受賞。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社発行『思想地図β』編集長。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。
(2/5)斎藤環×東浩紀「批評の精神分析2015——ラカン、ヤンキー、ノーラン」【2015/4/22収録】 @pentaxxx @hazuma
【登壇者プロフィール】
斎藤環(さいとう・たまき)
1961年、岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に『社会的ひきこもり』(PHP研究所)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)など。『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)で、第11回角川財団学芸賞受賞。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社発行『思想地図β』編集長。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。
(1/5)斎藤環×東浩紀「批評の精神分析2015——ラカン、ヤンキー、ノーラン」【2015/4/22収録】 @pentaxxx @hazuma
【登壇者プロフィール】
斎藤環(さいとう・たまき)
1961年、岩手県生まれ。1990年、筑波大学医学専門学群環境生態学卒業。医学博士。爽風会佐々木病院精神科診療部長(1987年より勤務)を経て、2013年より筑波大学社会精神保健学教授。専門は思春期・青年期の精神病理、および病跡学。著書に『社会的ひきこもり』(PHP研究所)、『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)など。『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店)で、第11回角川財団学芸賞受賞。
東浩紀(あずま・ひろき)
1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン代表、同社発行『思想地図β』編集長。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)など多数。
(2/2)福嶋亮大「物語と観客の日本文明論――『復興文化論』の先へ #1 日本の〈物語〉とポップカルチャー」【2014/7/4収録】@liang_da
連続講座「物語と観客の日本文明論ーー『復興文化論』の先へ」(全三回)開講に寄せて
福嶋亮大
昨年刊行した『復興文化論』(青土社)は一種の日本文学通史として書いたものですが、そこには日本的公共性の構想や〈物語〉の再定義、さらには美と観客の関係等々、多様な問題意識が流れ込んでいます。したがって、狭義の文芸批評というよりは文明批評に近い本です。
本シリーズではその一端を解きほぐしながら、日本文明の蓄積から今いったい何を引き出せるのかを改めて問い直します(未読の方でも問題ありませんので、ふるってご参加ください)。文化を骨董品としてではなく、アクチュアルなものとして了解すること。日本で作品を作るとはどういうことなのかを歴史的に再考すること。それが講義のテーマです。アートであれ、文学であれ、評論であれ、これから何かモノを作ろうしている皆さんのヒントになればと願っています。
第一回目は「日本の〈物語〉とポップカルチャー」と題して、私(福嶋)が『復興文化論』とそれに関連するアクチュアルな問題をお話します。第二回はゲストをお招きしての対談、第三回は東浩紀氏との対談と続きます。講義全体を通じて、日本文明の姿を多角的に議論することを狙いとします。
第一回の講義「日本の〈物語〉とポップカルチャー」では、日本の物語が伝統的にどういう仕事を果たしてきたのか、それは東アジアのコンテクスト(文脈)においてどんな意味を持つのか、さらにその伝統は今日のポップカルチャーといかに接続されているのか……といったテーマをお話します。たんにポップカルチャーの流行に右往左往するのではなく、むしろそれを日本的な〈物語〉の系譜に位置づけること。それはかえって新鮮なヴィジョンを私たちに与えてくれるはずです。
(1/2)福嶋亮大「物語と観客の日本文明論――『復興文化論』の先へ #1 日本の〈物語〉とポップカルチャー」【2014/7/4収録】@liang_da
連続講座「物語と観客の日本文明論ーー『復興文化論』の先へ」(全三回)開講に寄せて
福嶋亮大
昨年刊行した『復興文化論』(青土社)は一種の日本文学通史として書いたものですが、そこには日本的公共性の構想や〈物語〉の再定義、さらには美と観客の関係等々、多様な問題意識が流れ込んでいます。したがって、狭義の文芸批評というよりは文明批評に近い本です。
本シリーズではその一端を解きほぐしながら、日本文明の蓄積から今いったい何を引き出せるのかを改めて問い直します(未読の方でも問題ありませんので、ふるってご参加ください)。文化を骨董品としてではなく、アクチュアルなものとして了解すること。日本で作品を作るとはどういうことなのかを歴史的に再考すること。それが講義のテーマです。アートであれ、文学であれ、評論であれ、これから何かモノを作ろうしている皆さんのヒントになればと願っています。
第一回目は「日本の〈物語〉とポップカルチャー」と題して、私(福嶋)が『復興文化論』とそれに関連するアクチュアルな問題をお話します。第二回はゲストをお招きしての対談、第三回は東浩紀氏との対談と続きます。講義全体を通じて、日本文明の姿を多角的に議論することを狙いとします。
第一回の講義「日本の〈物語〉とポップカルチャー」では、日本の物語が伝統的にどういう仕事を果たしてきたのか、それは東アジアのコンテクスト(文脈)においてどんな意味を持つのか、さらにその伝統は今日のポップカルチャーといかに接続されているのか……といったテーマをお話します。たんにポップカルチャーの流行に右往左往するのではなく、むしろそれを日本的な〈物語〉の系譜に位置づけること。それはかえって新鮮なヴィジョンを私たちに与えてくれるはずです。
(1/2)安藤礼二×赤坂真理「折口信夫の愛と暴力――『折口信夫』刊行記念トークイベント」【2015/1/27配信】
私がはじめてまとめた書物、『神々の闘争 折口信夫論』から10年という歳月をかけて、ようやく、自分なりに、折口信夫という特異な表現者の「核心」をつかまえることができたと思う。もちろん、いまだ充分に論じきれていない問題は多い。しかし、現在までのところ、今回出版した『折口信夫』以上のものを書くこと、語ることは、私の力だけでは不可能である。
研究と創作、理論と実践が不可分に結びついた折口信夫のさらなる可能性を、この機会に、小説家の赤坂真理さんとともに、ぜひとも深めて行きたいと考えた。赤坂さんが2012年に発表した『東京プリズン』は、従来の小説の型を破壊してしまう衝撃的なものだった。天皇の戦争責任を、「東京裁判」を、一人の少女が問い直し、生き直すのである。その背後には折口信夫の天皇論が通奏低音のように鳴り響いていた。
赤坂さんは、さらに2014年、『愛と暴力の戦後とその後』を刊行した。「愛と暴力の戦後」を問うことは折口信夫の可能性と不可能性を問うことと等しい。赤坂さんとともに、聴衆の皆さんとともに、折口信夫の「未来」を考えたい。(安藤礼二記)
(2/2)安藤礼二×赤坂真理「折口信夫の愛と暴力――『折口信夫』刊行記念トークイベント」【2015/1/27配信】
私がはじめてまとめた書物、『神々の闘争 折口信夫論』から10年という歳月をかけて、ようやく、自分なりに、折口信夫という特異な表現者の「核心」をつかまえることができたと思う。もちろん、いまだ充分に論じきれていない問題は多い。しかし、現在までのところ、今回出版した『折口信夫』以上のものを書くこと、語ることは、私の力だけでは不可能である。
研究と創作、理論と実践が不可分に結びついた折口信夫のさらなる可能性を、この機会に、小説家の赤坂真理さんとともに、ぜひとも深めて行きたいと考えた。赤坂さんが2012年に発表した『東京プリズン』は、従来の小説の型を破壊してしまう衝撃的なものだった。天皇の戦争責任を、「東京裁判」を、一人の少女が問い直し、生き直すのである。その背後には折口信夫の天皇論が通奏低音のように鳴り響いていた。
赤坂さんは、さらに2014年、『愛と暴力の戦後とその後』を刊行した。「愛と暴力の戦後」を問うことは折口信夫の可能性と不可能性を問うことと等しい。赤坂さんとともに、聴衆の皆さんとともに、折口信夫の「未来」を考えたい。(安藤礼二記)
(1/3)東浩紀による東浩紀――『存在論的、郵便的』を読む#3【2014/4/5配信】 @hazuma
『存在論的、郵便的』の出版から15年。
そのあと『動物化するポストモダン』を書き、『クォンタム・ファミリーズ』を書き、『一般意志2.0』を書き、『福島第一原発観光地化計画』を出版し、現代思想からずいぶん遠ざかっていると思われているぼく(東浩紀)ですが、デビュー作にはすべてが入っているとの格言(?)のとおり、『存在論的、郵便的』にはその後のすべての著作の萌芽が入っています。そして、それをいちばんよく知っているのは、むろんぼくなわけです。本来ならばそれをだれかに読み解いてほしいのですが、いっこうにだれもやってくれそうにないし、自分でやることにしました。これはそんな講座です。
『存在論的、郵便的』を最初からじわじわ読んでいく不定期の連続講座になります。よろしくです!
(東浩紀)
(2/3)東浩紀による東浩紀――『存在論的、郵便的』を読む#3【2014/4/5配信】 @hazuma
『存在論的、郵便的』の出版から15年。
そのあと『動物化するポストモダン』を書き、『クォンタム・ファミリーズ』を書き、『一般意志2.0』を書き、『福島第一原発観光地化計画』を出版し、現代思想からずいぶん遠ざかっていると思われているぼく(東浩紀)ですが、デビュー作にはすべてが入っているとの格言(?)のとおり、『存在論的、郵便的』にはその後のすべての著作の萌芽が入っています。そして、それをいちばんよく知っているのは、むろんぼくなわけです。本来ならばそれをだれかに読み解いてほしいのですが、いっこうにだれもやってくれそうにないし、自分でやることにしました。これはそんな講座です。
『存在論的、郵便的』を最初からじわじわ読んでいく不定期の連続講座になります。よろしくです!
(東浩紀)
(3/3)東浩紀による東浩紀――『存在論的、郵便的』を読む#3【2014/4/5配信】 @hazuma
『存在論的、郵便的』の出版から15年。
そのあと『動物化するポストモダン』を書き、『クォンタム・ファミリーズ』を書き、『一般意志2.0』を書き、『福島第一原発観光地化計画』を出版し、現代思想からずいぶん遠ざかっていると思われているぼく(東浩紀)ですが、デビュー作にはすべてが入っているとの格言(?)のとおり、『存在論的、郵便的』にはその後のすべての著作の萌芽が入っています。そして、それをいちばんよく知っているのは、むろんぼくなわけです。本来ならばそれをだれかに読み解いてほしいのですが、いっこうにだれもやってくれそうにないし、自分でやることにしました。これはそんな講座です。
『存在論的、郵便的』を最初からじわじわ読んでいく不定期の連続講座になります。よろしくです!
(東浩紀)
(2/2)福嶋亮大×安藤礼二「物語と観客の日本文明論――『復興文化論』の先へ #2 折口信夫から井筒俊彦へ――日本的な「物語」とその彼方」【2014/8/22配信】 @liang_da
昨年刊行した『復興文化論』(青土社)は一種の日本文学通史として書いたものですが、そこには日本的公共性の構想や〈物語〉の再定義、さらには美と観客の関係等々、多様な問題意識が流れ込んでいます。したがって、狭義の文芸批評というよりは文明批評に近い本です。
本シリーズではその一端を解きほぐしながら、日本文明の蓄積から今いったい何を引き出せるのかを改めて問い直します(未読の方でも問題ありませんので、ふるってご参加ください)。文化を骨董品としてではなく、アクチュアルなものとして了解すること。日本で作品を作るとはどういうことなのかを歴史的に再考すること。それが講義のテーマです。アートであれ、文学であれ、評論であれ、これから何かモノを作ろうしている皆さんのヒントになればと願っています。
第二回では文芸批評家の安藤礼二氏をゲストにお迎えします。安藤氏はデビューから一貫して民俗学者・折口信夫の研究に取り組んできた一方で、近年では井筒俊彦の再導入にも積極的に関わってきました。折口にせよ井筒にせよ、近代合理主義には収まりきらない「危険」な著述家であるばかりでなく、質量ともに圧倒的な仕事を残したということもあって、その思想を見極めるのは容易ではありません。しかし、安藤氏は彼らの「毒」を殺さず、しかもあくまで理性的な筆致によって彼らを現代社会によみがえらせるという難しい仕事にチャレンジし続けているのです。
今回はひとまず折口の文学論を踏まえながら、彼の弟子にあたる角川源義、さらには今日のKADOKAWA—DWANGOの合併問題なども視野に入れて、折口民俗学のアクチュアリティを探ります。と同時に、慶應義塾大学出版会から全集刊行中の井筒についても、その現代的可能性の一端を安藤氏にうかがっていきます。もっぱら日本をフィールドとしながら、神や物語の意味を問い続けた折口信夫。イスラーム神学からロシア文学、さらには言語哲学から神秘思想に到るまで、グローバルな思索を繰り広げた井筒俊彦。この両者の「出会い」にご期待ください。 (福嶋亮大)
(1/2)福嶋亮大×安藤礼二「物語と観客の日本文明論――『復興文化論』の先へ #2 折口信夫から井筒俊彦へ――日本的な「物語」とその彼方」【2014/8/22配信】 @liang_da
昨年刊行した『復興文化論』(青土社)は一種の日本文学通史として書いたものですが、そこには日本的公共性の構想や〈物語〉の再定義、さらには美と観客の関係等々、多様な問題意識が流れ込んでいます。したがって、狭義の文芸批評というよりは文明批評に近い本です。
本シリーズではその一端を解きほぐしながら、日本文明の蓄積から今いったい何を引き出せるのかを改めて問い直します(未読の方でも問題ありませんので、ふるってご参加ください)。文化を骨董品としてではなく、アクチュアルなものとして了解すること。日本で作品を作るとはどういうことなのかを歴史的に再考すること。それが講義のテーマです。アートであれ、文学であれ、評論であれ、これから何かモノを作ろうしている皆さんのヒントになればと願っています。
第二回では文芸批評家の安藤礼二氏をゲストにお迎えします。安藤氏はデビューから一貫して民俗学者・折口信夫の研究に取り組んできた一方で、近年では井筒俊彦の再導入にも積極的に関わってきました。折口にせよ井筒にせよ、近代合理主義には収まりきらない「危険」な著述家であるばかりでなく、質量ともに圧倒的な仕事を残したということもあって、その思想を見極めるのは容易ではありません。しかし、安藤氏は彼らの「毒」を殺さず、しかもあくまで理性的な筆致によって彼らを現代社会によみがえらせるという難しい仕事にチャレンジし続けているのです。
今回はひとまず折口の文学論を踏まえながら、彼の弟子にあたる角川源義、さらには今日のKADOKAWA—DWANGOの合併問題なども視野に入れて、折口民俗学のアクチュアリティを探ります。と同時に、慶應義塾大学出版会から全集刊行中の井筒についても、その現代的可能性の一端を安藤氏にうかがっていきます。もっぱら日本をフィールドとしながら、神や物語の意味を問い続けた折口信夫。イスラーム神学からロシア文学、さらには言語哲学から神秘思想に到るまで、グローバルな思索を繰り広げた井筒俊彦。この両者の「出会い」にご期待ください。 (福嶋亮大)