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〈7/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
〈3/7〉宮﨑裕助×東浩紀「デリダ研究の最前線――『生・死』の哲学に向けて」【2015/2/24収録】 @parages @hazuma
昨年、没後10年を迎え、続々とシンポジウムが開かれ、関連書が刊行されたジャック・デリダ。ブノワ・ペータースによる決定版『デリダ伝』の邦訳も刊行され、今年1月22日には『現代思想』増刊号でデリダ特集が組まれます。そこでゲンロンでは、デリダ研究者でデリダ特集にも論文を寄せている宮﨑裕助さんをお招きし、かつて『存在論的、郵便的』で中期デリダ読解に独自の境地を切り開いた東浩紀を聞き手として、イベントを開催します。・デリダとは誰か、脱構築とは何か・「没後10年」以降の主要テクスト・デリダ研究の現在形──何が問題になっているのか・デリダの新たな生の哲学?──「生き延びること」について
(1/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
伊勢田哲治×三中信宏 司会=山本貴光「科学と科学哲学――はたして科学に哲学は必要なのか?」(2019/2/22収録) @tiseda @leeswijzer @yakumoizuru
【収録時のイベント概要】
遂に実現! ゲンロンカフェで「科学哲学」トークイベント!
科学哲学の俊英、伊勢田哲治氏がゲンロンカフェ初登壇!
科学哲学とは、科学に関わる問題を考察していく哲学の分野である。
人工知能(AI)研究やロボット工学、ゲノム編集などの遺伝子工学、量子コンピューター技術など、サイエンスやテクノロジーが急速に発展をするいま、科学哲学の問題意識に注目が集まっている。
科学哲学者は「科学はわれわれの世界観にどのような影響を与えるのか」といった問いだけでなく、そもそも「科学によって、人間は真理に近づくことができるのか」「科学が扱う対象は、本当に『存在している』といえるのか」など、科学の法則や方法論の本質にまで切り込んでいく。
しかし、科学哲学者のそれらの探究は、ときに科学者からの反発を生む。
2013年に出版された、科学哲学者・伊勢田哲治氏と物理学者・須藤靖氏の対談本『科学を語るとはどういうことか』では、科学哲学者と科学者とのすれ違いを浮き彫りにしている。
ノーベル物理学賞を受賞したリチャード・ファインマンは「科学哲学は鳥類学者が鳥の役に立つ程度にしか科学者の役に立たない」と述べたという。須藤氏はファインマンの言葉を引き合いに出しながら、科学哲学の存在意義に疑問を呈す。
伊勢田氏は、須藤氏の主張に丁寧に応答し続けるも「(科学哲学も)哲学の一分野であり、哲学に内在的な問題意識で動いています」と、それぞれの見解は相容れず対話は終わることとなる。
生物体系学者の三中信宏氏は『系統体系学の世界』のなかで、伊勢田氏、須藤氏のそれぞれの発言に対して異を唱えた。
「科学と科学哲学は生物体系学においては長年にわたる文化的な〝共進化〟の関係を築いてきた」と、科学が多様であると同時に、それに応じて科学哲学も多様になりつつあることを指摘している。
この度ゲンロンカフェでは、伊勢田氏と三中氏をお招きし、科学にとっての科学哲学の価値と科学哲学にとっての科学の価値を、徹底議論する。
司会を務めるのは、山本貴光氏。『「百学連環」を読む』『サイエンス・ブック・トラベル』などの著者であり、文理を問わず幅広い分野に精通する博覧強記ぶりはゲンロンカフェ来場者にはお馴染みだ。
科学と科学哲学はなぜすれ違うのか? 科学哲学の存在意義とは?
ゲンロンカフェならではの濃密な議論を、乞うご期待!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190222/
<1/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
〈2/7〉市川真人×福嶋亮大×東浩紀「『批評』とは何だったのか?——創刊号企画『現代日本の批評』参加メンバーが批評史を総括、ゲンロン創刊の展望を語る」【2015/12/11収録】
刊行日の12月1日を前に、早くも話題沸騰の新創刊雑誌『ゲンロン』。 創刊号の特集「現代日本の批評」は、かつて浅田彰・柄谷行人らが手がけた『近代日本の批評』を踏まえ、1975年以降の日本の批評誌を総括する試みです。この刊行記念イベントでは、『ゲンロン1』に収録された「昭和批評の諸問題 1975-1989」の内容を振り返りつつ、3月刊行の『ゲンロン2』掲載予定の「平成批評の諸問題 1989-2001」へ向けた展望も語ります。現代日本にとって批評とは何だったのか? そしてどこへ行くのか。批評のゆくえに関心を持つすべての人が必見です!!!https://genron-tomonokai.com/genron/
國分功一郎×東浩紀「哲学にとって愚かさとはなにか――原子力と中動態をめぐって」【『ゲンロン11』刊行記念】(2020/10/27収録) @lethal_notion @hazuma #ゲンロン201027
ゲンロンαにイベントのレポート記事を掲載しています。ぜひお読みください。
記事URL= https://genron-alpha.com/article20201107_01/
(関西弁ver.もあるんやで。読んでくれたら嬉しいわぁ。 https://genron-alpha.com/article20201107_02/ )
【イベント概要】
東浩紀による『ゲンロン11』の巻頭論文「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」。
同論考は國分功一郎氏の『中動態の世界』と『原子力時代における哲学』を重要な参照項としつつ、
「加害の無意味さ」を記憶することの重要性を訴えている。
同論考を読んだ國分氏から申し出をいただき、ふたりの対談が実現した。
対談は約3年ぶり。
『新対話篇』に収録された前回は、ポリティカル・コレクトネスを越えた普遍的な「正義」が話題の中心となった。
『中動態の世界』で被害者の側から中動態を考え、
『原子力時代における哲学』で原子力を乗り越える哲学をハイデガーに見出した國分氏。
彼は東の問題提起をどう受け取ったのか。
哲学の臨界に位置する「愚かさ」について、ふたりの哲学者が徹底的に語り合う。
■
『ゲンロン11』
2020年9月発行 A5判並製 本体424頁
ISBN:978-4-907188-38-2
ゲンロンショップ
物理書籍版:https://genron.co.jp/shop/products/detail/487
電子書籍(ePub)版:https://genron.co.jp/shop/products/detail/499
Amazon:https://amzn.to/3jUwFou
■
哲学にとって愚かさとはなにか – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20201027/
原武史×東浩紀「思索の源泉としての私鉄 ーー原武史、東急・小田急・西武・京王・京急・阪急・近鉄、そしてJR中央線を語る」(2019/7/17収録) @haratetchan @hazuma
【収録時のイベント概要】
全国の自治体で、女性議員の比率が高い市や区を上位から見てゆくと、清瀬、武蔵野、小金井、東村山、小平といった市がベストテンに入っている。このうちの3つが西武沿線に、2つが西武と並行するJR中央線沿線にある。ほかの私鉄やJRの沿線はこれほどではない。なぜこうした違いが起こるのか。
この問いは、「私鉄とは何か」を考えるための、ほんの糸口にすぎない。私鉄について考えることは、経営学や経済史のみならず、政治思想や都市計画、観光、天皇制、地域史、ジェンダー学など総合的な観点を必要とする。モータリゼーションが進んだ米国とは全く異なる近現代史を考えることでもある。
首都圏や大阪圏に住んでいる人々の多くは、通勤や通学で日々私鉄やJRを利用してきたし、いまもしている。カール・マンハイム風に言えば、どの沿線に住んできたかによって、私たちの「知」が拘束されていると言っても過言ではない。鉄道マニアだけがジャーゴンで語り得る世界から私鉄を解放せよ。その彼方には、誰もがいまだに語ろうとしない「知」の沃野が広がっている。
(原武史)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190717/
原武史×東浩紀「平成において皇后とはなんだったか」(2019/4/5収録) @haratetchan
【収録時のイベント概要】
2018年12月22日に「友の会総会」内のプログラム「日本思想の黄昏」で議論を交わした原武史と東浩紀。
話題は平成論から美智子皇后論へ、そして女性論へと展開した。
皇室研究の第一人者として知られる原武史には『皇后考』という名著がある。明治天皇、大正天皇、昭和天皇・・ と天皇の歴史はみな語りがたる。 けれどもなぜ皇后について語らないのか? そのような問題提起から始まる同著は、 貞明皇后と昭和天皇の関係、貞明皇后と香淳皇后の確執など、 皇室の「政治的」 な役割についてまったく新しい知見を与えてくれる。
他方で原は団地研究でも知られている。皇室研究と団地研究。そんないっけんまったく関わりのありそうにない二つの研究が、唯一交わる場所がある。それが女性の問題である。『滝山コミューン一九七四』『団地の空間政治学』 などの著書で原が明らかにしたのは、 戦後左翼史で盲点となってきた「団地妻」たちの政治活動だ。 そして彼ら団地妻たちは、まさに美智子皇后と同世代の女性たちでもあった。
原は、12月のイベントで、平成は天皇が皇后化した時代であり、 天皇の時代というよりも皇后の時代だったと語った。
そんな原に、平成が終わろうとしているいま、あらためて東が問いかける「平成における皇室/女性論」。
ゲンロンカフェが平成最後の月に送る、 天皇制とジェンダー問題をめぐる刺激的な討論。
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190405/
三中信宏×山本貴光×吉川浩満「分ける、つなぐ、で考える——分類と系統樹から見える世界」 【2017/9/1収録】 @leeswijzer @yakumoizuru @clnmn
人間は複雑なデータそのものを見て理解することができない。それゆえ人類は長い歴史のなかで、情報を分類・体系化し、整理して理解する技術を発展させてきた。
三中信宏は『思考の体系学』(春秋社)や『系統樹曼荼羅』(NTT出版)といった著作を通じて、分類と系統樹による体系化の技術について、数多くの図版をもちいながら詳細に論じてきた。三中の著作には、ネットワーク理論や生物学、アート、哲学といったさまざまな領域をまたがる、まさに文系と理系の壁を超えた豊かな思考の世界が広がっている。文系と理系を超えた共通のテーマ、ということは、そこにはなにか人類普遍の問題があるに違いない!
鼎談相手は『ゲンロンβ』連載でもおなじみの山本貴光&吉川浩満コンビ。山本は『「百学連環」を読む』(三省堂)で学問の「分けられ方」を、吉川は『理不尽な進化』(朝日出版社)で進化という「系統樹」の問題をそれぞれ扱ってきた。分類と系統樹の世界の魅力について、文理の壁を超えた3人が存分に語る。
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20170901/
原武史×東浩紀「思索の源泉としての私鉄 #2ーー原武史、「収容所と団地の問題」と東急・西武、そしてJR中央線を語る」(2020/1/17収録)@haratetchan @hazuma
【収録時のイベント概要】
私鉄対談の第二弾として主に考えているのは、JR中央線と東急、西武である。前回触れられなかった中央線は、その線形からもわかるように、明治時代に武蔵野の原野を一直線に敷設された。
その沿線には学園都市や陸軍の飛行場や軍需工場が生まれ、戦後は米軍基地とのつながりが強まった。東急の創業は田園都市という英国由来の思想と関わり、戦後は丘陵地を開発して田園都市線を開通させ、多摩田園都市をつくった。一方、西武の沿線には鉄道の開通前からハンセン病の療養所が、開通後には結核の療養所が次々に生まれ、戦後はその近くに団地が建設された。こうした各沿線の違いから何が見えてくるのか。東浩紀が見た大連やハルビンの郊外とも対比させながら、じっくりと話し合ってみたい。(原武史)
思索の源泉としての私鉄 #2 – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20200117/
東浩紀「東浩紀がいま考えていること2ーー『ゲンロン』第2期新創刊記念」(2019/9/28収録)
【収録時のイベント概要】
『ゲンロン』が第2期に入りました。無印の『思想地図』以来、ぼくはともかく巻頭言ばかりを書いてきたのですが、この第2期からは書いていません。巻頭言を書き、編集方針を「説明」し「解説」すること、それそのものが暴力であり、批評の不自由さを象徴するもののように思われたからです。
批評とはなにか。それは自由とはなにかという問いでもあります。30年前、ぼくは自由さに憧れて哲学とか批評を学び始めたはずだったのですが、気がつけばいろいろ不自由になっていました。自由に思考し、自由に書く状態はいかにして維持できるのか。それはむずかしい課題です。
その課題は、文体のレベルでも発生します。いま世の中で書かれている「哲学」「現代思想」の文章は、おそろしく不自由で窮屈です。そこでぼくは『ゲンロン10』の冒頭で、新しい文体の発明が必要だと記し、その実践として、5万字ほどの論文というか、エッセイというか、とにかくなにかの文章を書きました。
このイベントでは、その文章「悪の愚かさについて、あるいは収容所と団地の問題」の内容を中心に、ふたたびもろもろ最近考えていることを話そうと思います。『ゲンロン10』ではハルビンやクラクフの話を書いていますが、そこでは掲載していない写真を紹介し、エッセイの背景や続編の構想も話そうと思います。前回と同じく、1時間半ほどひとりで話して、そのあと質疑応答みたいな感じを考えています。
最近は年齢をとったのか、いま世の中で起きていることを新しいと信じ、情熱をもって語る、ということがむずかしくなってきました。ひきこもり感ばかりがどんどん増しているのですが、振り返るに、もともとぼくはそういう人間だったような気もします。「悪の愚かさについて」は、26年前の「ソルジェニーツィン試論」の四半世紀ぶりの続編でもあります。そんなぼくの原点回帰に関心のあるかたは、ぜひご来場ください。
講演日は、ゲンロン友の会第10期の始まりまであと3日のタイミングでもあります。
イベント会場では入会を受けつけるほか、トークのあとはサイン会も行います。
(東浩紀)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190928/
斎藤哲也×山本貴光×吉川浩満「『人文的、あまりに人文的』な、2018年人文書めった斬り!」(2018/12/28収録) @saitoshokai @yakumoizuru @clnmn
【収録時のイベント概要】
卓抜した博覧強記の3人、斎藤哲也氏、山本貴光氏、吉川浩満氏による「人文書めった斬り!」イベント、待望の2018年版が開催決定!
今年1月に行われた「『人文的、あまりに人文的』な、2017年人文書めった斬り!」では、斎藤氏175冊! 山本氏255冊!吉川氏262冊! 3人の合計でのべ692冊!!!という膨大な選書リストをご用意いただき(ちなみに、すべて2017年刊行の人文書です)、当たり年とも言われた2017年の人文書を徹底総括しました。
「いま、人間や社会はどんな問題に関心を向けているのか」「人類の叡智はどこまで達しているのか」「人間はどのように変わり、変わっていくのか」 ……さまざまな哲学的・普遍的な問いに、人間は書物を通して向き合ってきました。ありとあらゆる人文書を広い視野で俯瞰することで、人間や社会の「いま」が浮かび上がってきます。
前回、膨大なリストから「人文的大賞」として選ばれた読書猿『アイデア大全』『問題解決大全』においては、その後、同書の帯に受賞が紹介されました。いまや業界でも大注目のイベントとなっています。今回も、3人の方々には選書リストをご用意いただける予定です。年末年始に読む本は、このイベントで決まるかも!?
読書家、作家、ライター、編集者、書店員、出版関係者……本がお好きな方にはたまらない、絶対に必見の内容です!
2018年のゲンロンカフェはこのイベントで締めくくります。ぜひお越しください。
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20181228/
佐々木敦×冲方丁「物語の選択と運命の決定——『未知との遭遇【完全版】』刊行記念対談」【2016/12/19収録】 @sasakiatsushi
2011年12月に刊行された佐々木敦氏の哲学的「自己刷新」書『未知との遭遇——無限のセカイと有限のワタシ』(筑摩書房)が、5年の月日を経て、3万字超えの新稿を加え『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)として新書化されました。その発売を記念して、ゲンロンカフェでは特別対談イベントを開催いたします!
対談のお相手は、デビュー20年目にして初の現代長編ミステリー『十二人の死にたい子どもたち』(文藝春秋)を刊行したばかりの作家・冲方丁氏。
『十二人の死にたい子どもたち』は、インターネット上で集められた、安楽死を望む十二人の子どもたちが、そこに居るはずのない十三人目の存在を前に議論し、推理する本格ミステリー小説。その中には、繰り返し「選択」という言葉が登場します。その「選択」の先には一体なにがあるのか。
物語をつくりだすベストセラー作家が、「最強の運命論」を説く批評家とともに、物語の選択と運命の決定について、人生について、そしてミステリーの新境地について、存分に語る!
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20161219/
<3/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<2/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
〈1/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
〈3/7〉市川真人×福嶋亮大×東浩紀「『批評』とは何だったのか?——創刊号企画『現代日本の批評』参加メンバーが批評史を総括、ゲンロン創刊の展望を語る」【2015/12/11収録】
刊行日の12月1日を前に、早くも話題沸騰の新創刊雑誌『ゲンロン』。 創刊号の特集「現代日本の批評」は、かつて浅田彰・柄谷行人らが手がけた『近代日本の批評』を踏まえ、1975年以降の日本の批評誌を総括する試みです。この刊行記念イベントでは、『ゲンロン1』に収録された「昭和批評の諸問題 1975-1989」の内容を振り返りつつ、3月刊行の『ゲンロン2』掲載予定の「平成批評の諸問題 1989-2001」へ向けた展望も語ります。現代日本にとって批評とは何だったのか? そしてどこへ行くのか。批評のゆくえに関心を持つすべての人が必見です!!!https://genron-tomonokai.com/genron/
(5/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(3/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(2/2)福嶋亮大「物語と観客の日本文明論――『復興文化論』の先へ #1 日本の〈物語〉とポップカルチャー」【2014/7/4収録】@liang_da
連続講座「物語と観客の日本文明論ーー『復興文化論』の先へ」(全三回)開講に寄せて
福嶋亮大
昨年刊行した『復興文化論』(青土社)は一種の日本文学通史として書いたものですが、そこには日本的公共性の構想や〈物語〉の再定義、さらには美と観客の関係等々、多様な問題意識が流れ込んでいます。したがって、狭義の文芸批評というよりは文明批評に近い本です。
本シリーズではその一端を解きほぐしながら、日本文明の蓄積から今いったい何を引き出せるのかを改めて問い直します(未読の方でも問題ありませんので、ふるってご参加ください)。文化を骨董品としてではなく、アクチュアルなものとして了解すること。日本で作品を作るとはどういうことなのかを歴史的に再考すること。それが講義のテーマです。アートであれ、文学であれ、評論であれ、これから何かモノを作ろうしている皆さんのヒントになればと願っています。
第一回目は「日本の〈物語〉とポップカルチャー」と題して、私(福嶋)が『復興文化論』とそれに関連するアクチュアルな問題をお話します。第二回はゲストをお招きしての対談、第三回は東浩紀氏との対談と続きます。講義全体を通じて、日本文明の姿を多角的に議論することを狙いとします。
第一回の講義「日本の〈物語〉とポップカルチャー」では、日本の物語が伝統的にどういう仕事を果たしてきたのか、それは東アジアのコンテクスト(文脈)においてどんな意味を持つのか、さらにその伝統は今日のポップカルチャーといかに接続されているのか……といったテーマをお話します。たんにポップカルチャーの流行に右往左往するのではなく、むしろそれを日本的な〈物語〉の系譜に位置づけること。それはかえって新鮮なヴィジョンを私たちに与えてくれるはずです。
(2/2)安藤礼二×赤坂真理「折口信夫の愛と暴力――『折口信夫』刊行記念トークイベント」【2015/1/27配信】
私がはじめてまとめた書物、『神々の闘争 折口信夫論』から10年という歳月をかけて、ようやく、自分なりに、折口信夫という特異な表現者の「核心」をつかまえることができたと思う。もちろん、いまだ充分に論じきれていない問題は多い。しかし、現在までのところ、今回出版した『折口信夫』以上のものを書くこと、語ることは、私の力だけでは不可能である。
研究と創作、理論と実践が不可分に結びついた折口信夫のさらなる可能性を、この機会に、小説家の赤坂真理さんとともに、ぜひとも深めて行きたいと考えた。赤坂さんが2012年に発表した『東京プリズン』は、従来の小説の型を破壊してしまう衝撃的なものだった。天皇の戦争責任を、「東京裁判」を、一人の少女が問い直し、生き直すのである。その背後には折口信夫の天皇論が通奏低音のように鳴り響いていた。
赤坂さんは、さらに2014年、『愛と暴力の戦後とその後』を刊行した。「愛と暴力の戦後」を問うことは折口信夫の可能性と不可能性を問うことと等しい。赤坂さんとともに、聴衆の皆さんとともに、折口信夫の「未来」を考えたい。(安藤礼二記)
(1/2)福嶋亮大×安藤礼二「物語と観客の日本文明論――『復興文化論』の先へ #2 折口信夫から井筒俊彦へ――日本的な「物語」とその彼方」【2014/8/22配信】 @liang_da
昨年刊行した『復興文化論』(青土社)は一種の日本文学通史として書いたものですが、そこには日本的公共性の構想や〈物語〉の再定義、さらには美と観客の関係等々、多様な問題意識が流れ込んでいます。したがって、狭義の文芸批評というよりは文明批評に近い本です。
本シリーズではその一端を解きほぐしながら、日本文明の蓄積から今いったい何を引き出せるのかを改めて問い直します(未読の方でも問題ありませんので、ふるってご参加ください)。文化を骨董品としてではなく、アクチュアルなものとして了解すること。日本で作品を作るとはどういうことなのかを歴史的に再考すること。それが講義のテーマです。アートであれ、文学であれ、評論であれ、これから何かモノを作ろうしている皆さんのヒントになればと願っています。
第二回では文芸批評家の安藤礼二氏をゲストにお迎えします。安藤氏はデビューから一貫して民俗学者・折口信夫の研究に取り組んできた一方で、近年では井筒俊彦の再導入にも積極的に関わってきました。折口にせよ井筒にせよ、近代合理主義には収まりきらない「危険」な著述家であるばかりでなく、質量ともに圧倒的な仕事を残したということもあって、その思想を見極めるのは容易ではありません。しかし、安藤氏は彼らの「毒」を殺さず、しかもあくまで理性的な筆致によって彼らを現代社会によみがえらせるという難しい仕事にチャレンジし続けているのです。
今回はひとまず折口の文学論を踏まえながら、彼の弟子にあたる角川源義、さらには今日のKADOKAWA—DWANGOの合併問題なども視野に入れて、折口民俗学のアクチュアリティを探ります。と同時に、慶應義塾大学出版会から全集刊行中の井筒についても、その現代的可能性の一端を安藤氏にうかがっていきます。もっぱら日本をフィールドとしながら、神や物語の意味を問い続けた折口信夫。イスラーム神学からロシア文学、さらには言語哲学から神秘思想に到るまで、グローバルな思索を繰り広げた井筒俊彦。この両者の「出会い」にご期待ください。 (福嶋亮大)
古田徹也 聞き手=斎藤哲也「一生役立つ哲学入門――『はじめてのウィトゲンシュタイン』刊行記念」(2021/3/24収録) @FURUTA_Tetsuya @saitoshokai #ゲンロン210324
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https://youtu.be/HUF4ptQS-T0
【収録時のイベント概要】
20世紀を代表する哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889 – 1951)。主著として挙げられる前期の『論理哲学論考』と後期の『哲学探究』 を中心に、その思考の変遷は哲学史の重要な転回点として数えられ、現代まで多大な影響を及ぼしています。しかし、生前は奇行のエピソードで知られ、きわめて独創的な叙述で議論を展開する彼の哲学の全体像をとらえるのは、決して容易ではありません。
東京大学准教授で哲学者の古田徹也さんの新著『はじめてのウィトゲンシュタイン』( https://amzn.to/3qUfZAi )は、ウィトゲンシュタインの思考の骨幹を明らかにすることで、その豊潤な哲学の可能性に迫る、まさに決定版といえる入門書です。
今回ゲンロンカフェでは、本書の刊行記念として、「ウィトゲンシュタイン入門」を古田さんに講義いただきます。聞き手を務めるのは、ライター・編集者の斎藤哲也さん。斎藤さんも、著書『試験に出る哲学』( https://amzn.to/3vz2pFR )や監修を務めた『哲学用語図鑑』( https://amzn.to/38QrH8H )など、幅広い層に哲学の魅力や面白さを紹介する名手として知られています。勘所を的確に突く斎藤さんの問いかけに対し、はたして古田さんがどう答えるのか、目が離せません!
古田さんは著書『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』( https://amzn.to/3qVoJGi )刊行時のインタビュー(構成は斎藤さん https://kadobun.jp/feature/interview/178.html )で、「ウィトゲンシュタインを読むと、世界の捉え方の落とし穴もわかるし、意味とか、倫理とか、規範とか、あるいは自分自身とか、一生ずっとついてまわる問題に自分で向き合うための本当に大事なヒントや支えを得られる」と述べています。
困難な現実の世界について、その世界で生きるわれわれ自身について、豊かな示唆を与えてくれる「一生役立つ」哲学とは? ご期待ください!
一生役立つ哲学入門 – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20210324/
古田徹也×山本貴光「言葉を選び取る責任について――古田徹也『言葉の魂の哲学』をめぐって」(2019/8/30収録) @FURUTA_Tetsuya @yakumoizuru
【収録時のイベント概要】
「今」という字をじっと見つめ続けてみよう。また「今今今今今今今今……」と延々と書き続けてみよう。すると「今」は単なる線の集合体、無意味な図像のように見えてくることがある。一般に「ゲシュタルト崩壊」と呼ばれる現象だ。
同じことは、われわれの日常にも散見される。例えば為政者が紋切り型の答弁を何度もくり返すのを目の当たりにしたとき、そこに言葉本来の意味や豊かさは失われ、空虚な響きしか感じられないことがある。言葉の魂が抜けて、死んだ記号の並びになってしまう。
では逆に、言葉が魂や生命を得るとはどういうことだろうか。生き生きとした表情を持って立ち上がるとは、どういうことだろうか。東京大学准教授の古田徹也氏は、著書『言葉の魂の哲学』のなかで、ウィトゲンシュタインやカール・クラウスの言語論をもとに緻密に探求を進めていく。
その射程は専門的な問題提起にとどまらない。個々の言葉に向き合い、多面的に理解しながら丹念に言葉を選び取っていくことの重要性は、攻撃的で決まりきったフレーズがSNS上で拡散され、ヘイトとフェイクニュースに溢れる現代社会だからこそ高まっている。
この度、ゲンロンカフェでは、言葉に魂が宿ること、そしてわれわれが言葉に向き合う責任について考えるイベントを開催する。
古田氏と語り合うのは、文筆家・ゲーム作家の山本貴光氏。
山本氏もまた『文体の科学』『文学問題(F+f)+』などの著書を通して、独創的な眼差しで言葉や文字に対する考察を続けている。その博覧強記ぶり、イベントでの見事なファシリテートは、ゲンロンカフェの来場者にはお馴染みだ。
古田氏はゲンロンカフェ初登壇となる。ゲンロンカフェならではの濃密な対話に要注目だ!)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190830/
夏目大×吉川浩満×木島泰三「頭足類の心と私たちの心――『タコの心身問題』刊行記念イベント」(2019/03/29収録) @dnatsume @clnmn @KijimaTaizo
【収録時のイベント概要】
話題書、ピーター・ゴドフリー=スミス『タコの心身問題――頭足類から考える意識の起源』の刊行記念トークイベント開催!
単なる物質から、どのように心が生じるのか。哲学者で練達のダイバーでもある著者は、タコやイカなどの「頭足類」に注目する。
なぜだろうか。人間は、人間以外の生物であるサルやイヌなどにも、心や知性らしきものを持っていると感じることがある。それら哺乳類の生物は、進化の歴史上、人間に非常に近い存在だ。だが頭足類は違う。本書によると、人間と頭足類の共通祖先が生きていたのは約6億年前で、その生物にはのちに知性となるような能力はなかった。進化は「まったく違う経路で心を少なくとも二度、つくった」のであり、頭足類は人間の知性や心を脱特権化するのだ。
哲学の「他我問題」(われわれは他者の持つ「自我」を経験することができない)を考えるにあたって、頭足類は格好の題材だという。
著者が海に潜り、頭足類の観察をしていると、人間の心とは本質的に大きく違った心を持っているらしいと気づくそうだ。
多様な生物の進化の歴史を考察することで、人間の知性や心を相対的に探求していく本書は、各方面で評判が立っている。
昨年末に開催した斎藤哲也、山本貴光、吉川浩満3氏による人文書イベントでは、吉川氏が本書の魅力(そして、タコの知性の凄さ!)を熱弁する場面があり、話題になった。
この度、ゲンロンカフェでは同書を翻訳した夏目大氏と吉川氏の対談イベントを開催する。
吉川氏は、昨年上梓した『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』で、急速な発展をみせる認知と進化にかんする科学技術が、いかに人間観を変容していくかについて紹介した。
両氏の対談は、頭足類の心や生態を掘り下げる面白さ、その意義をより深めてくれることだろう。
さらに、スピノザ研究者の木島泰三氏が緊急参戦! 木島氏は、ピーター・ゴドフリー・スミスに大きな影響を与えている、ダニエル・デネットの翻訳(『心の進化を解明する』)なども手がけている。
哲学と生物学を横断する、知的刺激に満ちた内容は必見!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20190329/
東浩紀×上田洋子「『哲学的体験』としてのダークツーリズムーーチェルノブイリツアーのアクチュアリティ#2」(2018/11/20収録) @hazuma @yuvmsk
【収録時のイベント概要】
6月にVOLVO青山で行われた「廃墟とユートピア──チェルノブイリツアーのアクチュアリティ」の好評を受け、続編イベントがゲンロンカフェで開催決定!!
前回のイベントでは、ゲンロンが実施する「ゲンロン H.I.S チェルノブイリツアー」の意義や最新のウクライナ事情について、ゲンロン副代表でロシア文学者の上田洋子によって、充実のプレゼンテーションが行われました!
その続編となる今回は、前回時間切れにより泣く泣くお蔵入りとなった東浩紀による幻のプレゼンから開始。哲学者である東は、なぜチェルノブイリを繰り返し訪れるのか。急速に進む原発事故被災地の観光地化は正しいのか。そしてゲンロンのツアー事業はこれからどうなっていくのか――「観光」という体験の哲学的側面について熱く語ります!
イベント直前には、東と上田は『ゲンロン10』(2019年春刊行)のため新たなロシア取材を敢行予定。チェルノブイリではない、もうひとつの「廃墟とユートピア」についての最新レポートも飛び出すかもしれません。
歴史とは、哲学とは、人間とは。ダークツーリズムから考える必見の一夜です。
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20181120/
三中信宏×山本貴光×吉川浩満「知はいかに体系化されるか? ――『系統体系学の世界』『統計思考の世界』刊行記念イベント」 @leeswijzer @yakumoizuru @clnmn
【収録時のイベント概要】
三中信宏氏の『系統体系学の世界』(勁草書房)『統計思考の世界』(技術評論社)の刊行を記念して、大型イベントを開催。
膨大な情報、複雑なデータ、不確かな状況を前にして、人間はどのよう意思決定を行うべきなのか?三中氏は、さまざまな事柄を「分類」し「系統」づけること、また「可視化」することで、いかに情報を解析し「読み取る」かを横断的に探ってきた気鋭の研究者。新刊『系統体系学の世界』では、生物体系学の変遷を考察しながら、科学と科学史・科学哲学のあるべき関係についても考察しています。
情報を体系化し、思考を明快にして、合理的な結論を導き出すこと。
文理や専門分野の壁を超えて、いまわたしたちの誰もが必要としているその課題へのヒントを、三中氏の体系学研究に探ります。
聞き手を務めるのは、山本貴光氏と吉川浩満氏。『ゲンロンβ』の共同連載「人文的、あまりに人文的」でも知られる博学人文研究者コンビです。
この3人のイベントは、昨年9月に行われた「分ける、つなぐ、で考える――分類と系統樹から見える世界」以来2度目。
それぞれの分野で「思考のあり方」を深く追求してきた3人による、ゲンロンカフェならではのエキサイティングな鼎談。
くれぐれもお見逃しなく!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20180720/
<6/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<5/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<4/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
〈7/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。