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〈6/6〉真魚八重子×渡邉大輔「日本映画は再起動するか——『ポストシネマ』時代の邦画地図」【2016/2/2収録】 @yaeko_mana @diesuke_w
長らく「冬の時代」と言われてきた20世紀末を抜けて、「邦画バブル」と呼ばれて久しい昨今。テレビ局映画、若手インディペンデント映画、新世代ドキュメンタリー、そして新たな批評の書き手や媒体の登場……確かに、ゼロ年代以降の流動化・多元化した映画をめぐる状況(ポストシネマ?)の中で、これまでにない「邦画」の姿がはっきりと現れつつあるように見える。日本映画はいま、ほんとうに面白くなっているのか? これからどこに向かっていくのか?『キネマ旬報』『映画秘宝』はじめ各種媒体で活躍し、初の著書『映画系女子がゆく!』(http://amzn.to/1OSs96A)では多くの映画ファンの心を掴んだ真魚八重子と、2016年1月より『ゲンロン観光通信』(https://genron-tomonokai.com/mm/)に「ポスト・シネマ・クリティーク」を連載中の渡邉大輔。出自の異なる書き手ふたりが、共通して熱い注目を送る白石晃士監督作品を中心に、「Jホラー」以降の現代日本映画をめぐってトーク。2010年代も折り返し地点を迎えたいま、近年の邦画の情勢を概観し、未来への見取り図を引き直す!【登壇者より】今、日本は先進国とは思えぬほど、経済面も含めて何かが欠けている。その欠落は、まっさきに生活において余剰の部分にしわ寄せとなって現れる。その身近な例が映画だ。「人気漫画の映画化ならファンが来るだろう」「女の客を呼ぶためにはわかりやすい恋愛映画にしとけ」といった安直さ。そのうえカメラの低価格化で他の技術面は置いてきぼりにした、インディペンデントの映画がわんさか作られる。……全文は以下のリンクからご覧ください。日本映画は再起動するか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160202/
〈2/7〉さやわか×斎藤環×東浩紀「オタクの時代は終わった——『おたく神経サナトリウム』&『キャラの思考法』刊行記念鼎談」【2016/1/27収録】 @pentaxxx @hazuma @someru
斎藤環が2001年より『ゲームラボ』誌で執筆した「おたく神経サナトリウム」(amzn.to/23v6VSq )が一冊にまとめられた。これは実に14年間にわたって漫画、アニメ、ゲームなど「オタク」界隈を定点観測し続けた驚異的な連載だ。しかし時は過ぎ、今や「萌え」という言葉の意味も変わったし、オタク文化の勢いもかつてとは様変わりしている。オタクとは、萌えとは何だったのか、そして日本のキャラ文化はどうなったのか? 斎藤の連載開始と同じ2001年に『動物化するポストモダン』(amzn.to/1PyRrme )で日本のオタク文化を読み解いた東浩紀、そして新著『キャラの思考法』(amzn.to/1lUYcqP )でキャラ文化の変容を説くさやわか、『ゲームラボ』誌での連載経験を持つ三者が今ここに総括する!オタクの時代は終わった | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160127/
〈1/7〉さやわか×斎藤環×東浩紀「オタクの時代は終わった——『おたく神経サナトリウム』&『キャラの思考法』刊行記念鼎談」【2016/1/27収録】 @pentaxxx @hazuma @someru
斎藤環が2001年より『ゲームラボ』誌で執筆した「おたく神経サナトリウム」(amzn.to/23v6VSq )が一冊にまとめられた。これは実に14年間にわたって漫画、アニメ、ゲームなど「オタク」界隈を定点観測し続けた驚異的な連載だ。しかし時は過ぎ、今や「萌え」という言葉の意味も変わったし、オタク文化の勢いもかつてとは様変わりしている。オタクとは、萌えとは何だったのか、そして日本のキャラ文化はどうなったのか? 斎藤の連載開始と同じ2001年に『動物化するポストモダン』(amzn.to/1PyRrme )で日本のオタク文化を読み解いた東浩紀、そして新著『キャラの思考法』(amzn.to/1lUYcqP )でキャラ文化の変容を説くさやわか、『ゲームラボ』誌での連載経験を持つ三者が今ここに総括する!オタクの時代は終わった | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160127/
〈5/6〉真魚八重子×渡邉大輔「日本映画は再起動するか——『ポストシネマ』時代の邦画地図」【2016/2/2収録】 @yaeko_mana @diesuke_w
長らく「冬の時代」と言われてきた20世紀末を抜けて、「邦画バブル」と呼ばれて久しい昨今。テレビ局映画、若手インディペンデント映画、新世代ドキュメンタリー、そして新たな批評の書き手や媒体の登場……確かに、ゼロ年代以降の流動化・多元化した映画をめぐる状況(ポストシネマ?)の中で、これまでにない「邦画」の姿がはっきりと現れつつあるように見える。日本映画はいま、ほんとうに面白くなっているのか? これからどこに向かっていくのか?『キネマ旬報』『映画秘宝』はじめ各種媒体で活躍し、初の著書『映画系女子がゆく!』(http://amzn.to/1OSs96A)では多くの映画ファンの心を掴んだ真魚八重子と、2016年1月より『ゲンロン観光通信』(https://genron-tomonokai.com/mm/)に「ポスト・シネマ・クリティーク」を連載中の渡邉大輔。出自の異なる書き手ふたりが、共通して熱い注目を送る白石晃士監督作品を中心に、「Jホラー」以降の現代日本映画をめぐってトーク。2010年代も折り返し地点を迎えたいま、近年の邦画の情勢を概観し、未来への見取り図を引き直す!【登壇者より】今、日本は先進国とは思えぬほど、経済面も含めて何かが欠けている。その欠落は、まっさきに生活において余剰の部分にしわ寄せとなって現れる。その身近な例が映画だ。「人気漫画の映画化ならファンが来るだろう」「女の客を呼ぶためにはわかりやすい恋愛映画にしとけ」といった安直さ。そのうえカメラの低価格化で他の技術面は置いてきぼりにした、インディペンデントの映画がわんさか作られる。……全文は以下のリンクからご覧ください。日本映画は再起動するか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160202/
〈1/6〉真魚八重子×渡邉大輔「日本映画は再起動するか——『ポストシネマ』時代の邦画地図」【2016/2/2収録】 @yaeko_mana @diesuke_w
長らく「冬の時代」と言われてきた20世紀末を抜けて、「邦画バブル」と呼ばれて久しい昨今。テレビ局映画、若手インディペンデント映画、新世代ドキュメンタリー、そして新たな批評の書き手や媒体の登場……確かに、ゼロ年代以降の流動化・多元化した映画をめぐる状況(ポストシネマ?)の中で、これまでにない「邦画」の姿がはっきりと現れつつあるように見える。日本映画はいま、ほんとうに面白くなっているのか? これからどこに向かっていくのか?『キネマ旬報』『映画秘宝』はじめ各種媒体で活躍し、初の著書『映画系女子がゆく!』(http://amzn.to/1OSs96A)では多くの映画ファンの心を掴んだ真魚八重子と、2016年1月より『ゲンロン観光通信』(https://genron-tomonokai.com/mm/)に「ポスト・シネマ・クリティーク」を連載中の渡邉大輔。出自の異なる書き手ふたりが、共通して熱い注目を送る白石晃士監督作品を中心に、「Jホラー」以降の現代日本映画をめぐってトーク。2010年代も折り返し地点を迎えたいま、近年の邦画の情勢を概観し、未来への見取り図を引き直す!【登壇者より】今、日本は先進国とは思えぬほど、経済面も含めて何かが欠けている。その欠落は、まっさきに生活において余剰の部分にしわ寄せとなって現れる。その身近な例が映画だ。「人気漫画の映画化ならファンが来るだろう」「女の客を呼ぶためにはわかりやすい恋愛映画にしとけ」といった安直さ。そのうえカメラの低価格化で他の技術面は置いてきぼりにした、インディペンデントの映画がわんさか作られる。……全文は以下のリンクからご覧ください。日本映画は再起動するか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160202/
〈4/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmsk
ソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
〈6/7〉さやわか×斎藤環×東浩紀「オタクの時代は終わった——『おたく神経サナトリウム』&『キャラの思考法』刊行記念鼎談」【2016/1/27収録】 @pentaxxx @hazuma @someru
斎藤環が2001年より『ゲームラボ』誌で執筆した「おたく神経サナトリウム」(amzn.to/23v6VSq )が一冊にまとめられた。これは実に14年間にわたって漫画、アニメ、ゲームなど「オタク」界隈を定点観測し続けた驚異的な連載だ。しかし時は過ぎ、今や「萌え」という言葉の意味も変わったし、オタク文化の勢いもかつてとは様変わりしている。オタクとは、萌えとは何だったのか、そして日本のキャラ文化はどうなったのか? 斎藤の連載開始と同じ2001年に『動物化するポストモダン』(amzn.to/1PyRrme )で日本のオタク文化を読み解いた東浩紀、そして新著『キャラの思考法』(amzn.to/1lUYcqP )でキャラ文化の変容を説くさやわか、『ゲームラボ』誌での連載経験を持つ三者が今ここに総括する!オタクの時代は終わった | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160127/
〈4/7〉さやわか×斎藤環×東浩紀「オタクの時代は終わった——『おたく神経サナトリウム』&『キャラの思考法』刊行記念鼎談」【2016/1/27収録】 @pentaxxx @hazuma @someru
斎藤環が2001年より『ゲームラボ』誌で執筆した「おたく神経サナトリウム」(amzn.to/23v6VSq )が一冊にまとめられた。これは実に14年間にわたって漫画、アニメ、ゲームなど「オタク」界隈を定点観測し続けた驚異的な連載だ。しかし時は過ぎ、今や「萌え」という言葉の意味も変わったし、オタク文化の勢いもかつてとは様変わりしている。オタクとは、萌えとは何だったのか、そして日本のキャラ文化はどうなったのか? 斎藤の連載開始と同じ2001年に『動物化するポストモダン』(amzn.to/1PyRrme )で日本のオタク文化を読み解いた東浩紀、そして新著『キャラの思考法』(amzn.to/1lUYcqP )でキャラ文化の変容を説くさやわか、『ゲームラボ』誌での連載経験を持つ三者が今ここに総括する!オタクの時代は終わった | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160127/
〈3/6〉真魚八重子×渡邉大輔「日本映画は再起動するか——『ポストシネマ』時代の邦画地図」【2016/2/2収録】 @yaeko_mana @diesuke_w
長らく「冬の時代」と言われてきた20世紀末を抜けて、「邦画バブル」と呼ばれて久しい昨今。テレビ局映画、若手インディペンデント映画、新世代ドキュメンタリー、そして新たな批評の書き手や媒体の登場……確かに、ゼロ年代以降の流動化・多元化した映画をめぐる状況(ポストシネマ?)の中で、これまでにない「邦画」の姿がはっきりと現れつつあるように見える。日本映画はいま、ほんとうに面白くなっているのか? これからどこに向かっていくのか?『キネマ旬報』『映画秘宝』はじめ各種媒体で活躍し、初の著書『映画系女子がゆく!』(http://amzn.to/1OSs96A)では多くの映画ファンの心を掴んだ真魚八重子と、2016年1月より『ゲンロン観光通信』(https://genron-tomonokai.com/mm/)に「ポスト・シネマ・クリティーク」を連載中の渡邉大輔。出自の異なる書き手ふたりが、共通して熱い注目を送る白石晃士監督作品を中心に、「Jホラー」以降の現代日本映画をめぐってトーク。2010年代も折り返し地点を迎えたいま、近年の邦画の情勢を概観し、未来への見取り図を引き直す!【登壇者より】今、日本は先進国とは思えぬほど、経済面も含めて何かが欠けている。その欠落は、まっさきに生活において余剰の部分にしわ寄せとなって現れる。その身近な例が映画だ。「人気漫画の映画化ならファンが来るだろう」「女の客を呼ぶためにはわかりやすい恋愛映画にしとけ」といった安直さ。そのうえカメラの低価格化で他の技術面は置いてきぼりにした、インディペンデントの映画がわんさか作られる。……全文は以下のリンクからご覧ください。日本映画は再起動するか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160202/
<6/7>さやわか×西島大介「西島大介とセカイは変わったのか——『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』刊行記念対談」【さやわか式☆現代文化論 #23】【2015/12/22収録】 @someru @DBP65
西島大介の著書のうち、西島大介の批評性がもっとも発揮された傑作『土曜日の実験室』が出版から10年にして文庫になった。そもそも人は西島大介のことを何もわかっていない。せいぜい、かわいい絵を描く漫画家だとか、音楽活動もして いるサブカルっぽい作家だとか思っている。本人もろくに説明しないので、何も理解されないまま10年が過ぎ、こんな時代になってしまった。長年の友人であり「ひらめき☆マンガ学校」等でともに仕事をしているさやわかとしては大いに不満である。そこで今回は、西島大介から日本文化の10年を、そして西島大介自身をいまいちど振り返りたい。これはファンイベントでも馴れ合いトークでもない。ガンガンいくぞ。(さやわか)■2005年の刊行より10年が経ち『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』として僕の初短篇集がちくま文庫化されました。ちくま文庫といえば僕にまとっては「マンガの教養」枠。そう、この批評文と短篇コミックからなる奇妙な本は、暇潰しに足る雑多な読み物であると同時に「学び」そのものです。ゼロ年代から10年代へと時は流れ、版元であったINFASの雑誌「スタジオボイス」は休刊し、セカイ系やラノベブームもその役割を一度終え、オタクやネットの在り方はよりだらしなく、希望の無いものへと変わりました。僕の居場所も変わりました。例えばゼロ年代に盟友にして恩人たる東浩紀さんの哲学を最も適切にビジュアル化していた駆け出しの僕でしたが、現在においては梅沢和木さんこそがその役割を担っていると感じます。……全文は以下のリンクからご覧ください。西島大介とセカイは変わったのか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20151222/
〈3/5〉さやわか【さやわか式☆現代文化論 #22】「ゲームの話・スプラトゥーンはイカように位置づけ可能か」 【2015/11/28収録】 @someru
ゲームと言えば今やソシャゲが大人気で、みんなカードとかキャラとかを集めて楽しそうだ。
一方で洋ゲーの状況を見るとやはりFPSでとにかく撃ちまくっているように思える。
こうした中で今年は任天堂が「スプラトゥーン」(http://amzn.to/1ZN2bEL)をリリースしてスマッシュヒットを記録したのは賞賛すべきだったと言えるだろう。しかしこの作品はTPSである。そもそも日本人はキャラ文化とFPSの中間に産み落とされる存在としてのTPSについて考えるべきであるのに、まともな議論がなされていない。議論する相手もいないのでゲストもいない。だからさやわかと観客であるあなたとで頑張って日本ならではのTPS論の土台を作ってみたい。メタルギアソリッドVの話もしますよ!
さやわか
1/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459401609
2/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402477
3/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402528
4/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402558
5/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402598
ゲームの話・スプラトゥーンはイカように位置づけ可能か | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20151128b/
〈5/7〉さやわか×斎藤環×東浩紀「オタクの時代は終わった——『おたく神経サナトリウム』&『キャラの思考法』刊行記念鼎談」【2016/1/27収録】 @pentaxxx @hazuma @someru
斎藤環が2001年より『ゲームラボ』誌で執筆した「おたく神経サナトリウム」(amzn.to/23v6VSq )が一冊にまとめられた。これは実に14年間にわたって漫画、アニメ、ゲームなど「オタク」界隈を定点観測し続けた驚異的な連載だ。しかし時は過ぎ、今や「萌え」という言葉の意味も変わったし、オタク文化の勢いもかつてとは様変わりしている。オタクとは、萌えとは何だったのか、そして日本のキャラ文化はどうなったのか? 斎藤の連載開始と同じ2001年に『動物化するポストモダン』(amzn.to/1PyRrme )で日本のオタク文化を読み解いた東浩紀、そして新著『キャラの思考法』(amzn.to/1lUYcqP )でキャラ文化の変容を説くさやわか、『ゲームラボ』誌での連載経験を持つ三者が今ここに総括する!オタクの時代は終わった | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160127/
<7/7>さやわか×西島大介「西島大介とセカイは変わったのか——『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』刊行記念対談」【さやわか式☆現代文化論 #23】【2015/12/22収録】 @someru @DBP65
西島大介の著書のうち、西島大介の批評性がもっとも発揮された傑作『土曜日の実験室』が出版から10年にして文庫になった。そもそも人は西島大介のことを何もわかっていない。せいぜい、かわいい絵を描く漫画家だとか、音楽活動もして いるサブカルっぽい作家だとか思っている。本人もろくに説明しないので、何も理解されないまま10年が過ぎ、こんな時代になってしまった。長年の友人であり「ひらめき☆マンガ学校」等でともに仕事をしているさやわかとしては大いに不満である。そこで今回は、西島大介から日本文化の10年を、そして西島大介自身をいまいちど振り返りたい。これはファンイベントでも馴れ合いトークでもない。ガンガンいくぞ。(さやわか)■2005年の刊行より10年が経ち『土曜日の実験室+ 詩と批評とあと何か』として僕の初短篇集がちくま文庫化されました。ちくま文庫といえば僕にまとっては「マンガの教養」枠。そう、この批評文と短篇コミックからなる奇妙な本は、暇潰しに足る雑多な読み物であると同時に「学び」そのものです。ゼロ年代から10年代へと時は流れ、版元であったINFASの雑誌「スタジオボイス」は休刊し、セカイ系やラノベブームもその役割を一度終え、オタクやネットの在り方はよりだらしなく、希望の無いものへと変わりました。僕の居場所も変わりました。例えばゼロ年代に盟友にして恩人たる東浩紀さんの哲学を最も適切にビジュアル化していた駆け出しの僕でしたが、現在においては梅沢和木さんこそがその役割を担っていると感じます。……全文は以下のリンクからご覧ください。西島大介とセカイは変わったのか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20151222/
〈4/6〉真魚八重子×渡邉大輔「日本映画は再起動するか——『ポストシネマ』時代の邦画地図」【2016/2/2収録】 @yaeko_mana @diesuke_w
長らく「冬の時代」と言われてきた20世紀末を抜けて、「邦画バブル」と呼ばれて久しい昨今。テレビ局映画、若手インディペンデント映画、新世代ドキュメンタリー、そして新たな批評の書き手や媒体の登場……確かに、ゼロ年代以降の流動化・多元化した映画をめぐる状況(ポストシネマ?)の中で、これまでにない「邦画」の姿がはっきりと現れつつあるように見える。日本映画はいま、ほんとうに面白くなっているのか? これからどこに向かっていくのか?『キネマ旬報』『映画秘宝』はじめ各種媒体で活躍し、初の著書『映画系女子がゆく!』(http://amzn.to/1OSs96A)では多くの映画ファンの心を掴んだ真魚八重子と、2016年1月より『ゲンロン観光通信』(https://genron-tomonokai.com/mm/)に「ポスト・シネマ・クリティーク」を連載中の渡邉大輔。出自の異なる書き手ふたりが、共通して熱い注目を送る白石晃士監督作品を中心に、「Jホラー」以降の現代日本映画をめぐってトーク。2010年代も折り返し地点を迎えたいま、近年の邦画の情勢を概観し、未来への見取り図を引き直す!【登壇者より】今、日本は先進国とは思えぬほど、経済面も含めて何かが欠けている。その欠落は、まっさきに生活において余剰の部分にしわ寄せとなって現れる。その身近な例が映画だ。「人気漫画の映画化ならファンが来るだろう」「女の客を呼ぶためにはわかりやすい恋愛映画にしとけ」といった安直さ。そのうえカメラの低価格化で他の技術面は置いてきぼりにした、インディペンデントの映画がわんさか作られる。……全文は以下のリンクからご覧ください。日本映画は再起動するか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160202/
<1/6>岩井秀人×佐々木敦「舞台の時間が人生を露出する——ハイバイから考える現代口語演劇」【ニッポンの演劇 #2】【2016/2/10収録】 @iwaihideto @sasakiatsushi
チェルフィッチュ岡田利規さんの降臨で幕を開けた「ニッポンの演劇」の第2回は、劇団ハイバイを率いる岩井秀人さんをお迎えします。
5年にも及ぶひきこもりから脱出して演劇に開眼し、自伝的エピソードのおかしみとかなしみと狂気を増幅変形するユニークな作風で一躍人気者に。役者として、劇作家として、演出家として、まさに八面六臂の活躍を継続する彼の天才に迫ります。ハイバイの最新作『夫婦』の話はもちろん、過去の名作群についてもたっぷりとお話を伺います。平田オリザが創始した「現代口語演劇」を独自のスタイルでアップデートする岩井流演劇術を徹底解剖。観客も作り手も大注目です!(佐々木敦)
■
「ニッポンの演劇」は、「日本・現代・演劇」のカッティング・エッジを解剖するシリーズ・イベント。
ふと気がついてみれば、70年代からテン年代まで、長い年月の間に登場した演劇人たちが群雄割拠状態でしのぎを削っているかに見える日本演劇シーン。それはまた、さまざまな形で海の向こうの舞台芸術の世界とも結び付きつつあります。ニッポンの演劇の独自性はどこにあるのか。その可能性と抱える問題はいかなるものなのか。毎回、最前線を牽引するキーパーソンをお迎えして、じっくりとお話を伺い、ディスカッションしていきます。
〈1/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmsk
ソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
〈3/7〉さやわか×斎藤環×東浩紀「オタクの時代は終わった——『おたく神経サナトリウム』&『キャラの思考法』刊行記念鼎談」【2016/1/27収録】 @pentaxxx @hazuma @someru
斎藤環が2001年より『ゲームラボ』誌で執筆した「おたく神経サナトリウム」(amzn.to/23v6VSq )が一冊にまとめられた。これは実に14年間にわたって漫画、アニメ、ゲームなど「オタク」界隈を定点観測し続けた驚異的な連載だ。しかし時は過ぎ、今や「萌え」という言葉の意味も変わったし、オタク文化の勢いもかつてとは様変わりしている。オタクとは、萌えとは何だったのか、そして日本のキャラ文化はどうなったのか? 斎藤の連載開始と同じ2001年に『動物化するポストモダン』(amzn.to/1PyRrme )で日本のオタク文化を読み解いた東浩紀、そして新著『キャラの思考法』(amzn.to/1lUYcqP )でキャラ文化の変容を説くさやわか、『ゲームラボ』誌での連載経験を持つ三者が今ここに総括する!オタクの時代は終わった | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160127/
<3/6>岩井秀人×佐々木敦「舞台の時間が人生を露出する——ハイバイから考える現代口語演劇」【ニッポンの演劇 #2】【2016/2/10収録】 @iwaihideto @sasakiatsushi
チェルフィッチュ岡田利規さんの降臨で幕を開けた「ニッポンの演劇」の第2回は、劇団ハイバイを率いる岩井秀人さんをお迎えします。
5年にも及ぶひきこもりから脱出して演劇に開眼し、自伝的エピソードのおかしみとかなしみと狂気を増幅変形するユニークな作風で一躍人気者に。役者として、劇作家として、演出家として、まさに八面六臂の活躍を継続する彼の天才に迫ります。ハイバイの最新作『夫婦』の話はもちろん、過去の名作群についてもたっぷりとお話を伺います。平田オリザが創始した「現代口語演劇」を独自のスタイルでアップデートする岩井流演劇術を徹底解剖。観客も作り手も大注目です!(佐々木敦)
■
「ニッポンの演劇」は、「日本・現代・演劇」のカッティング・エッジを解剖するシリーズ・イベント。
ふと気がついてみれば、70年代からテン年代まで、長い年月の間に登場した演劇人たちが群雄割拠状態でしのぎを削っているかに見える日本演劇シーン。それはまた、さまざまな形で海の向こうの舞台芸術の世界とも結び付きつつあります。ニッポンの演劇の独自性はどこにあるのか。その可能性と抱える問題はいかなるものなのか。毎回、最前線を牽引するキーパーソンをお迎えして、じっくりとお話を伺い、ディスカッションしていきます。
〈1/5〉さやわか【さやわか式☆現代文化論 #22】「ゲームの話・スプラトゥーンはイカように位置づけ可能か」 【2015/11/28収録】 @someru
ゲームと言えば今やソシャゲが大人気で、みんなカードとかキャラとかを集めて楽しそうだ。
一方で洋ゲーの状況を見るとやはりFPSでとにかく撃ちまくっているように思える。
こうした中で今年は任天堂が「スプラトゥーン」(http://amzn.to/1ZN2bEL)をリリースしてスマッシュヒットを記録したのは賞賛すべきだったと言えるだろう。しかしこの作品はTPSである。そもそも日本人はキャラ文化とFPSの中間に産み落とされる存在としてのTPSについて考えるべきであるのに、まともな議論がなされていない。議論する相手もいないのでゲストもいない。だからさやわかと観客であるあなたとで頑張って日本ならではのTPS論の土台を作ってみたい。メタルギアソリッドVの話もしますよ!
さやわか
1/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459401609
2/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402477
3/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402528
4/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402558
5/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402598
ゲームの話・スプラトゥーンはイカように位置づけ可能か | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20151128b/
<5/5>木ノ下裕一×児玉竜一「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」【2015/8/14収録】 @KINOSHITAyuichi
「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」というタイトルを頂戴しまして、畏れ多さに縮み上がっている次第です。私は、常に〈伝統〉というものの周辺に住み、〈部外者〉として古典を扱ってきましたので、自身の活動を通して新しい伝統をつくっていると感じたことはありません。しかし、現代演劇側の人間がいかに〈伝統〉を扱うことができるのか、その可能性と限界を探り、古典現代化についてのいくつかの方法論を作り上げていきたいとは常に思っています。それも、いろんなアーティストに示唆を与え、伝播していくような方法論を。それが可能になれば未来の演劇界はゆるやかに革新されていくかもしれないと夢想しています。ですから今回の分不相応なタイトルを、古典現代化に必要な〈統(おおもと)〉を〈伝〉えるという意だと勝手に解釈し、あえて甘んじることにしました。分不相応といえば、一方的に敬愛してやまない児玉竜一先生にお付き合いいただくことも、願ってもない幸運で、大変張り切っているのであります。(木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一)歌舞伎という演劇はまことに多義的です。商業演劇なのに伝統芸術、高尚な顔をして猥雑、難解のようでエンターテインメント、時流に敏感でいて保守的、〈確固としたフォルムを持つアメーバ〉のような矛盾そのもの。そんな存在であることを、あんまりちゃんと認識してもらっていないところが、さらに厄介です。木ノ下歌舞伎は、そんな厄介のまっただ中に切り込んで、〈伝統〉の中から〈現代〉を取り出す鮮やかな手練手管の数々で観客を瞠目させています。この上の文章(↑)のような、謙譲と気配りに満ちた文章を書く人が、どうしてあのような激烈で痛切な劇世界を作り上げるのか、客席のみなさんとともに知りたいと思います。和歌山出身で京都に学んだ木ノ下さんが、いかにして歌舞伎という厄介な〈伝統〉に執着し、しかもそこから離れて見る視座を得て、独自の方法論を築き上げるに至るのか、その歌舞伎的ヰタ・セクスアリスをうかがいたいと思います。なにぶん、上演後のアフタートークでは、関西のおばちゃん的しゃべりの名手として知られる木ノ下さんですから、<裕一・竜一>の即興漫才になるんだろうなと、大変楽しみにしているのであります。(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長 児玉竜一)
(1/4)海猫沢めろん×佐藤健寿 司会=徳久倫康「ダークツーリズムと想像力──チェルノブイリ・廃墟の現在」【2015/8/5収録】 @uminekozawa @x51 @tokuhisan
写真集『奇界遺産』や、『世界の廃墟』(監修・解説)、『諸星大二郎 マッドメンの世界』(撮影・執筆)など、自身の取材を元にした多くの著作を発表しているフォトグラファー・佐藤健寿。
他にもマンセル要塞、共産党ホールなど世界各地の辺境・秘境や廃墟をめぐる旅の様子は、テレビ番組『クレイジージャーニー』でも取り上げられたばかり。チェルノブイリ取材では、原発周辺だけでなく、いままでほとんど取り上げられてこなかったソ連時代の軍事都市「チェルノブイリ2」を紹介し、独自の視点で幅広い探求を続けている。
数多くの辺境・廃墟をめぐってきた佐藤の目に、チェルノブイリはどのように映ったのか。現代に残る辺境・秘境とはどのようなものなのか。SNSやドローンの登場が加速させる「都市探検」とは。日本にダークツーリズムの概念が持ち込まれる以前から、世界各国の廃墟を旅してきた第一人者と、『零式』(ハヤカワ文庫JA)、「ディスクロアニアの鳩時計」(『ゲンロン』連載中)など、作品中で「荒れ果てた近未来」を描いてきた作家・海猫沢めろんが、廃墟の歩き方、そしてそこから私たちが何を読み取るべきかを語る。
(1/3)【さやわか式☆現代文化論 #5】さやわか×もふくちゃん(福嶋麻衣子)「アイドル/運営の現在」【2014/3/8配信】 @someru @mofuku
「地下」で密かに輝いていた時代を経て、今やポップカルチャーの中心に台頭しているアイドル。一部からはブームはいつ終わるとか、アイドル戦国時代はもう終わりだとか、「さっさと終われ」感を臭わせる言説を浴びつつも、ますます存在感は増し続けており、アイドルブームに素知らぬ顔をしていた人たちも口を挟まずにはいられない状況になっている。
しかし、では当のアイドルは実際のところどうなっているのか?それだけ世間から注目されるようになって、何が変わり、何が変わっていないのか。そしてファンの盛り上がりからやや遅れて周囲からも反響を受け始めたこの状況を、どう思っているのか。
さらに今やローカルアイドルも珍しくないし、皮茶パパから濱野智史まで様々な人が思い思いのアイドルをプロデュースする時代。そんな中で、アイドル自体の運営のされ方は、全体として変化したと言えるのか?
なぜ今、アイドルだったのか。そしてアイドルはどこに行くのか?
さやわかを相手に語るのは、長きにわたってアイドルを見つめ続け、アイドルプロデューサーとしても辣腕を振るうもふくちゃん。アイドルシーンの見方で、今の時代が何を求めてきたかがわかる!
〈2/6〉真魚八重子×渡邉大輔「日本映画は再起動するか——『ポストシネマ』時代の邦画地図」【2016/2/2収録】 @yaeko_mana @diesuke_w
長らく「冬の時代」と言われてきた20世紀末を抜けて、「邦画バブル」と呼ばれて久しい昨今。テレビ局映画、若手インディペンデント映画、新世代ドキュメンタリー、そして新たな批評の書き手や媒体の登場……確かに、ゼロ年代以降の流動化・多元化した映画をめぐる状況(ポストシネマ?)の中で、これまでにない「邦画」の姿がはっきりと現れつつあるように見える。日本映画はいま、ほんとうに面白くなっているのか? これからどこに向かっていくのか?『キネマ旬報』『映画秘宝』はじめ各種媒体で活躍し、初の著書『映画系女子がゆく!』(http://amzn.to/1OSs96A)では多くの映画ファンの心を掴んだ真魚八重子と、2016年1月より『ゲンロン観光通信』(https://genron-tomonokai.com/mm/)に「ポスト・シネマ・クリティーク」を連載中の渡邉大輔。出自の異なる書き手ふたりが、共通して熱い注目を送る白石晃士監督作品を中心に、「Jホラー」以降の現代日本映画をめぐってトーク。2010年代も折り返し地点を迎えたいま、近年の邦画の情勢を概観し、未来への見取り図を引き直す!【登壇者より】今、日本は先進国とは思えぬほど、経済面も含めて何かが欠けている。その欠落は、まっさきに生活において余剰の部分にしわ寄せとなって現れる。その身近な例が映画だ。「人気漫画の映画化ならファンが来るだろう」「女の客を呼ぶためにはわかりやすい恋愛映画にしとけ」といった安直さ。そのうえカメラの低価格化で他の技術面は置いてきぼりにした、インディペンデントの映画がわんさか作られる。……全文は以下のリンクからご覧ください。日本映画は再起動するか | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160202/
〈3/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmsk
ソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
〈4/5〉さやわか【さやわか式☆現代文化論 #22】「ゲームの話・スプラトゥーンはイカように位置づけ可能か」 【2015/11/28収録】 @someru
ゲームと言えば今やソシャゲが大人気で、みんなカードとかキャラとかを集めて楽しそうだ。
一方で洋ゲーの状況を見るとやはりFPSでとにかく撃ちまくっているように思える。
こうした中で今年は任天堂が「スプラトゥーン」(http://amzn.to/1ZN2bEL)をリリースしてスマッシュヒットを記録したのは賞賛すべきだったと言えるだろう。しかしこの作品はTPSである。そもそも日本人はキャラ文化とFPSの中間に産み落とされる存在としてのTPSについて考えるべきであるのに、まともな議論がなされていない。議論する相手もいないのでゲストもいない。だからさやわかと観客であるあなたとで頑張って日本ならではのTPS論の土台を作ってみたい。メタルギアソリッドVの話もしますよ!
さやわか
1/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459401609
2/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402477
3/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402528
4/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402558
5/5 http://www.nicovideo.jp/watch/1459402598
ゲームの話・スプラトゥーンはイカように位置づけ可能か | ゲンロンカフェ
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<2/6>岩井秀人×佐々木敦「舞台の時間が人生を露出する——ハイバイから考える現代口語演劇」【ニッポンの演劇 #2】【2016/2/10収録】 @iwaihideto @sasakiatsushi
チェルフィッチュ岡田利規さんの降臨で幕を開けた「ニッポンの演劇」の第2回は、劇団ハイバイを率いる岩井秀人さんをお迎えします。
5年にも及ぶひきこもりから脱出して演劇に開眼し、自伝的エピソードのおかしみとかなしみと狂気を増幅変形するユニークな作風で一躍人気者に。役者として、劇作家として、演出家として、まさに八面六臂の活躍を継続する彼の天才に迫ります。ハイバイの最新作『夫婦』の話はもちろん、過去の名作群についてもたっぷりとお話を伺います。平田オリザが創始した「現代口語演劇」を独自のスタイルでアップデートする岩井流演劇術を徹底解剖。観客も作り手も大注目です!(佐々木敦)
■
「ニッポンの演劇」は、「日本・現代・演劇」のカッティング・エッジを解剖するシリーズ・イベント。
ふと気がついてみれば、70年代からテン年代まで、長い年月の間に登場した演劇人たちが群雄割拠状態でしのぎを削っているかに見える日本演劇シーン。それはまた、さまざまな形で海の向こうの舞台芸術の世界とも結び付きつつあります。ニッポンの演劇の独自性はどこにあるのか。その可能性と抱える問題はいかなるものなのか。毎回、最前線を牽引するキーパーソンをお迎えして、じっくりとお話を伺い、ディスカッションしていきます。
〈5/6〉市川紘司×本田晃子×上田洋子「建築からみる北京とモスクワ——共産主義建築のモニュメンタリティと祝祭性」【2016/1/28収録】 @ichikawakoji @yuvmsk
ソヴィエト建築の本田晃子、中国共産主義建築の市川紘司、そしてロシア文学者の上田洋子が、共産主義の二大首都・北京とモスクワの建築を、その中心にある広場から考察する。天安門広場と赤の広場を、建築・都市計画・祝祭などの面から徹底的に解明する。■1949年10月1日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言すると、中国では「頼れる兄貴」たるソ連の建築・都市計画思想が金科玉条となる。結果、古都・北京はドラスティックに変貌を遂げる。巨大な街区ブロックを基本単位とする再開発、中央から周縁へと同心円的に構成される都市計画、そしてスターリン様式を翻案した復古主義的記念建築…。こうした北京大改造の中心にあったのが天安門広場に他ならない。面積を大幅に拡張し、人民英雄記念碑等の国家モニュメントを多数附設することで、広場は数十万人を動員する派手やかな国家イベントの舞台へと設えられた。北京は、共産主義建築が、中華の伝統的都市構成と鋭く衝突しながら展開された稀有な空間である。その衝突の諸相を考えたい。(市川紘司)ソ連時代、赤の広場はメーデーや革命記念日の際の祝祭のための空間であると同時に、革命のために命を落とした無名戦士たち、ソ連邦の指導者たちが葬られた喪の空間でもあった。この祝祭と喪が重なり合う中心に位置していたのが、他ならぬレーニン廟である。文字通り不朽化されたレーニンの遺体が眠るレーニン廟は、ページェントの際には指導者のための観覧席としても機能した。だがその建設当初、この建築物をめぐる定義は決して明確ではなかった。果たしてそれは墓なのか、それともレーニンのモニュメントなのか。墓と記念碑、そしてレーニンの二つの身体(遺体と像)——これらの問題から、ソ連建築の神話的起源としてレーニン廟を読み解く。(本田晃子)
(2/4)【さやわか式☆現代文化論 #19】さやわか×柴幸男(ままごと)×三浦康嗣(□□□)「演劇と音楽のリズム——ままごと『わが星』再々演記念トークショー」【2015/6/30収録】 @someru
現在、三鷹市芸術文化センター星のホールで上演中の ままごと『わが星』(2015年6月14日[日]まで) は、ゼロ年代演劇の代表的な作品です。
本イベントは、演劇と音楽を繋ぎ合わせ後進のアーティストたちに多大な影響を与えた、ままごと主宰であり作・演出の柴幸男さんと、『わが星』で音楽を担当している□□□(クチロロ)の三浦康嗣さんをゲストにお招きして、再演が繰り返される普遍の物語『わが星』をさやわかさんに徹底解析していただきます!
<3/5>木ノ下裕一×児玉竜一「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」【2015/8/14収録】 @KINOSHITAyuichi
「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」というタイトルを頂戴しまして、畏れ多さに縮み上がっている次第です。私は、常に〈伝統〉というものの周辺に住み、〈部外者〉として古典を扱ってきましたので、自身の活動を通して新しい伝統をつくっていると感じたことはありません。しかし、現代演劇側の人間がいかに〈伝統〉を扱うことができるのか、その可能性と限界を探り、古典現代化についてのいくつかの方法論を作り上げていきたいとは常に思っています。それも、いろんなアーティストに示唆を与え、伝播していくような方法論を。それが可能になれば未来の演劇界はゆるやかに革新されていくかもしれないと夢想しています。ですから今回の分不相応なタイトルを、古典現代化に必要な〈統(おおもと)〉を〈伝〉えるという意だと勝手に解釈し、あえて甘んじることにしました。分不相応といえば、一方的に敬愛してやまない児玉竜一先生にお付き合いいただくことも、願ってもない幸運で、大変張り切っているのであります。(木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一)歌舞伎という演劇はまことに多義的です。商業演劇なのに伝統芸術、高尚な顔をして猥雑、難解のようでエンターテインメント、時流に敏感でいて保守的、〈確固としたフォルムを持つアメーバ〉のような矛盾そのもの。そんな存在であることを、あんまりちゃんと認識してもらっていないところが、さらに厄介です。木ノ下歌舞伎は、そんな厄介のまっただ中に切り込んで、〈伝統〉の中から〈現代〉を取り出す鮮やかな手練手管の数々で観客を瞠目させています。この上の文章(↑)のような、謙譲と気配りに満ちた文章を書く人が、どうしてあのような激烈で痛切な劇世界を作り上げるのか、客席のみなさんとともに知りたいと思います。和歌山出身で京都に学んだ木ノ下さんが、いかにして歌舞伎という厄介な〈伝統〉に執着し、しかもそこから離れて見る視座を得て、独自の方法論を築き上げるに至るのか、その歌舞伎的ヰタ・セクスアリスをうかがいたいと思います。なにぶん、上演後のアフタートークでは、関西のおばちゃん的しゃべりの名手として知られる木ノ下さんですから、<裕一・竜一>の即興漫才になるんだろうなと、大変楽しみにしているのであります。(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長 児玉竜一)
<4/5>木ノ下裕一×児玉竜一「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」【2015/8/14収録】 @KINOSHITAyuichi
「新しい伝統をつくる──木ノ下歌舞伎の演劇と革新」というタイトルを頂戴しまして、畏れ多さに縮み上がっている次第です。私は、常に〈伝統〉というものの周辺に住み、〈部外者〉として古典を扱ってきましたので、自身の活動を通して新しい伝統をつくっていると感じたことはありません。しかし、現代演劇側の人間がいかに〈伝統〉を扱うことができるのか、その可能性と限界を探り、古典現代化についてのいくつかの方法論を作り上げていきたいとは常に思っています。それも、いろんなアーティストに示唆を与え、伝播していくような方法論を。それが可能になれば未来の演劇界はゆるやかに革新されていくかもしれないと夢想しています。ですから今回の分不相応なタイトルを、古典現代化に必要な〈統(おおもと)〉を〈伝〉えるという意だと勝手に解釈し、あえて甘んじることにしました。分不相応といえば、一方的に敬愛してやまない児玉竜一先生にお付き合いいただくことも、願ってもない幸運で、大変張り切っているのであります。(木ノ下歌舞伎主宰 木ノ下裕一)歌舞伎という演劇はまことに多義的です。商業演劇なのに伝統芸術、高尚な顔をして猥雑、難解のようでエンターテインメント、時流に敏感でいて保守的、〈確固としたフォルムを持つアメーバ〉のような矛盾そのもの。そんな存在であることを、あんまりちゃんと認識してもらっていないところが、さらに厄介です。木ノ下歌舞伎は、そんな厄介のまっただ中に切り込んで、〈伝統〉の中から〈現代〉を取り出す鮮やかな手練手管の数々で観客を瞠目させています。この上の文章(↑)のような、謙譲と気配りに満ちた文章を書く人が、どうしてあのような激烈で痛切な劇世界を作り上げるのか、客席のみなさんとともに知りたいと思います。和歌山出身で京都に学んだ木ノ下さんが、いかにして歌舞伎という厄介な〈伝統〉に執着し、しかもそこから離れて見る視座を得て、独自の方法論を築き上げるに至るのか、その歌舞伎的ヰタ・セクスアリスをうかがいたいと思います。なにぶん、上演後のアフタートークでは、関西のおばちゃん的しゃべりの名手として知られる木ノ下さんですから、<裕一・竜一>の即興漫才になるんだろうなと、大変楽しみにしているのであります。(早稲田大学文学部教授・演劇博物館副館長 児玉竜一)
<4/6>岩井秀人×佐々木敦「舞台の時間が人生を露出する——ハイバイから考える現代口語演劇」【ニッポンの演劇 #2】【2016/2/10収録】 @iwaihideto @sasakiatsushi
チェルフィッチュ岡田利規さんの降臨で幕を開けた「ニッポンの演劇」の第2回は、劇団ハイバイを率いる岩井秀人さんをお迎えします。
5年にも及ぶひきこもりから脱出して演劇に開眼し、自伝的エピソードのおかしみとかなしみと狂気を増幅変形するユニークな作風で一躍人気者に。役者として、劇作家として、演出家として、まさに八面六臂の活躍を継続する彼の天才に迫ります。ハイバイの最新作『夫婦』の話はもちろん、過去の名作群についてもたっぷりとお話を伺います。平田オリザが創始した「現代口語演劇」を独自のスタイルでアップデートする岩井流演劇術を徹底解剖。観客も作り手も大注目です!(佐々木敦)
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「ニッポンの演劇」は、「日本・現代・演劇」のカッティング・エッジを解剖するシリーズ・イベント。
ふと気がついてみれば、70年代からテン年代まで、長い年月の間に登場した演劇人たちが群雄割拠状態でしのぎを削っているかに見える日本演劇シーン。それはまた、さまざまな形で海の向こうの舞台芸術の世界とも結び付きつつあります。ニッポンの演劇の独自性はどこにあるのか。その可能性と抱える問題はいかなるものなのか。毎回、最前線を牽引するキーパーソンをお迎えして、じっくりとお話を伺い、ディスカッションしていきます。
〈3/4〉円堂都司昭×山本昭宏「『終末』と『核』から考える日本文化——『戦後サブカル年代記』と『核と日本人』をめぐって」 【2016/1/26収録】 @endingendless
2015年は戦後70周年にあたっていた。その出発点は、広島と長崎の原爆投下後に代表される、焼け野原の終末的光景だった。敗戦からの復興過程にあった日本を、核実験で目覚めた怪獣が襲った1954年の初代『ゴジラ』。列島全体が海に消える『日本沈没』や、1999年7月に空から恐怖の大王が降って来て世界が滅ぶという『ノストラダムスの大予言』が流行した1970年代。これらのように日本では、終末と再生のイメージが繰り返し語られてきた。2016年夏には、『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が総監督、リメイク版『日本沈没』や実写版『進撃の巨人』の樋口真嗣が監督・特技監督で『シン・ゴジラ』というゴジラ映画の新作が公開される。一方、安保法制問題や特攻隊を描いた『永遠の0』のヒットなどをめぐり、日本が右傾化している、戦争に向かっていると新たな破局への危機感を覚える人もいる。終末や核のテーマから離れられない日本文化は、どこから来てどこへ行くのか。『戦後サブカル年代記 日本人が愛した「終末」と「再生」』(http://amzn.to/1QksUWR)著者の私と、『核と日本人 ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』(http://amzn.to/1RQGwLb)の山本昭宏氏で語りあいたい。(円堂都司昭)■2000年代に盛り上がった「サブカル批評」は、近年になってその魅力を減退させたと言われる。他方で、マンガやアニメなどの日本文化に注目して、私たちの立脚点を問い直す仕事は、従来通り継続している。こうした流れのなかで、円堂都司昭氏も私も、それぞれ「終末」や「核」という視点から日本文化を整理し、一冊の本を上梓した。文化を手がかりに、戦後の問い直しを行ったのである。……全文は以下のリンクからご覧ください。「終末」と「核」から考える日本文化 | ゲンロンカフェhttp://genron-cafe.jp/event/20160126/