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福島正則築城!亀居城(亀居公園)を巡る!
広島県にある亀居城に行って来ました!
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【福島正則夢のあと】「 亀居城跡 」の満開の桜 再訪・補遺編
【西国街道】江戸初期に福島正則が五年の歳月をかけて築城した要塞 亀居城である。
完成後間も無くわずか3年余りで幕府の命令により破却された城。あまりに大規模な堅城であったのが、災いしたのかもしれませんね。長く忘れさられていたが発掘され石垣など遺構が保存され城跡 亀居公園となっている。
元々は小方白と言われていたが山が亀の甲羅のような形なので亀居と呼ばれるようになった。
現代では広島県西端の桜の名所として有名。本丸跡からの眺めも良い。
行程=北側駐車場ーなしの丸、有の丸〜詰の丸と本丸の間の道を進み〜本丸石垣下から石本美由起歌碑〜本丸展望所へ。
小方あたりには古代山陽道の遠管(おが)駅があったと言われているそうです。海側から道はあまり広くなく坂がキツい。山の北側に車が入る公園入り口があり駐車場もある。北側には山陽自動車道が走る。
南は海、堀を巡らし、北側は急峻な山があり、西は山陽道苦の坂の難所があり要害の地であった。
お城に関しての歴史情報〜 大竹歴史研究会記事、西念寺HPより参照。
以前1回来て以来久方ぶりタイミングが合い満開の城址にやっと散策した完結です。
福島正則の亀居城跡へ(西国街道沿い)前編 sm38506561
亀居城と桜=メインは城跡散策〜桜が少し咲いていた(5分咲き)sm38555020
【福島正則夢のあと】「 亀居城跡 」と桜(5分咲き) 後編(公園南側入り口〜亀居城城跡本丸へ)
【西国街道】江戸初期に福島正則が五年の歳月をかけて築城した要塞 亀居城である。
完成後間も無くわずか3年余りで幕府の命令により破却された城。あまりに大規模な堅城であったのが、災いしたのかもしれませんね。長く忘れさられていたが発掘され石垣など遺構が保存され城跡 亀居公園となっている。
元々は小方白と言われていたが山が亀の甲羅のような形なので亀居と呼ばれるようになった。
現代では広島県西端の桜の名所として有名。本丸跡からの眺めも良い。
行程=JR玖波駅で下車〜駅から西へまっすぐに国道2号沿いに進み(この方が早い)〜黒川地区から間の宿(あいのしゅく、休憩などに使われた宿場)小方(おがた)へ入り〜陸橋を越え線路向こうの西念寺横を抜けて城跡公園入り口(松の丸辺り)〜松の丸〜なしの丸、有の丸〜三の丸〜二の丸〜本丸展望所。
小方あたりには古代山陽道の遠管(おが)駅があったと言われているそうです。海側から道はあまり広くなく坂がキツい。山の北側に車が入る公園入り口があり駐車場もある。北側には山陽自動車道が走る。
南は海、堀を巡らし、北側は急峻な山があり、西は山陽道苦の坂の難所があり要害の地であった。
4月初め再訪したので別に桜満開の補遺編をあげます。
お城歴史的な事項に関しての情報〜 公園掲示板、大竹歴史研究会記事より参照。
福島正則の亀居城跡へ(西国街道沿い)前編 sm38506561
補遺編 亀居城 満開の花模様 sm38557402
西国街道行く 鳴川石畳遺構〜鉾ノ峠〜玖波宿,〜小方宿(間の宿)へ 総集編
西国街道行く
広島市周辺の旧山陽道(西国街道)の一部を何回かに分けて歩いてみます。面影はわずかだと思いますが 歴史のある道ですから。
ルート=廿日市市の西端 大野鳴川〜石畳道〜鉾ノ峠〜唐船浜〜玖波(くば)宿跡〜黒川を経て
小方(間の宿跡)までのロングバージョン
石畳道は昔の街道のもので西国街道の遺構です。峠越えはJRのトンネル上を通過しますので少しスリルがある。馬試しと言われる峠は旧道にトンネルができ、国道二号線が海側にできているので使われなくなっており通れない。
玖波宿=安芸国最後の宿場(隣の小方の休息などに使われた予備的な間の宿と補完しあっていた)
洪量館が本陣で文化人なども集い文化の華が咲いたと言い伝えられている。四境の役(長州征伐)で長州軍に焼かれ灰燼に帰す。その後再建された古民家や蔵などが残り風情ある町並みをまだ残している。
間の宿(あいのしゅく)=正規の宿場本陣などがいっぱいの場合、脇本陣などへ宿泊をさせたそうです。
厳(いつき)神社=厳宮(ごんのみや)大明神と呼ばれた古社。かては福島正則の亀居城本丸あたりにありましたが廃城となり妙見丸跡に遷座された。城が忘れさられても社は今に残りました。
その昔、厳島のお島周り式(島を回り七つの浦の神社で神事をする)御烏喰式(おとぐい)式というのがあり養父崎で団子を筏で流し神烏(おがらす)が取りに来るんだそうですが現れない場合は、厳宮(ごんのみや)出しといいこの宮の前まで船で漕ぎ出して拝したと言います
前の動画と玖波宿のところが被りますが、宿場と間の宿の相補的関係があり振り返りながら1本にまとめました。