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【神道シリーズ・シーズン2】第34回・山鹿素行の士道と日本中朝主義
山鹿素行は、元和8年1622年、陸奥国会津(福島県会津若松市)にて浪人・山鹿貞以の子として生まれたが、父は当時の会津藩主・蒲生 忠郷の家老・町野長門守幸和に身を寄せていたところ、藩主の死による蒲生家の断絶のため、町野幸和は幕府に直接仕えることとなり、素行親子も一緒に江戸に移住することとなったが、江戸移住以降、済松寺の袒心禅尼に養われ、書を学び始めるようになると天才的な才を発揮し、周りの者たち驚異する中、素行はまたたくまに四書、五経、七書はいうに及ばず、詩文などまでをマスターしてしまった。
素行の尋常ならぬ天才ぶりは注目を集め、わずか9歳にして幕府の大学頭/林羅山の門下に入り、朱子学を学ぶ運びとなった。
そして翌年10歳になると林門下の生徒たちに師として教えるほどの立場となり、さらに11歳になると松江城主/堀尾山城守から、2百石で召し抱えるとの申し出があったが、父が「安い給料で束縛されたくない」と辞退したのだ。
素行と父は素行の幕府召し抱えか1万石以上での高給での藩仕えかのどちらかを望んだが、幕府召し抱えはあとわずかなところで希望していた三代将軍家光の死去により実現せず、また、31歳の時に、1年余りの間赤穂藩で1千石でのレンタル移籍を行うものの、その後の契約条件が折り合わず江戸に戻り、全国に6千人もの門下生を抱えながら著作活動を進めた。
その間、素行は、諸藩からの指南役などのオファーを断り続ける一方、北条氏長から北条兵学を、光宥から両部神道、広田担斎から忌部神道を学び、さらに40代に入ると儒教の古学に関心を寄せるようになり、次第に幕府の御用学問であった朱子学を古学の立場から批判するようになった。
その頂点が素行45歳の時に著した「聖教要録」で、この内容は、当時会津藩主であり、同時に4代将軍家綱の後見役でもあった保科正之の逆鱗に触れ、その後、正之の死後3年まで続く赤穂藩預かり謫居、つまり、指定された屋敷の敷地の中での禁固刑が9年間続くこととなる。
これは、素行が生涯求めていた幕府仕えへの道を完全に絶たれることを意味はしたが、ただ、この9年間の間に素行は自分が属していた北条兵学からの離脱と山鹿兵学の独立、そして彼独自の日本中朝主義、つまり、儒教とは実は中国ではなく日本のオリジナルであり、日本書紀に書かれてるのは儒教の歴史であり、日本自体が中国であり、日本人こそ中国人であると言う儒教日本起源説を展開し、やがては陰陽五行説に基づく易学理論の象数宇宙論に至り生涯を閉じることとなった。
山鹿素行の士道的武士道論は、彼より少し遅れて佐賀藩にて葉隠武士道を確立した山本常朝の武士道論とともに江戸時代の武士道観を形成して行ったのである。
【青山繁晴】なぜ坂本龍馬を語るのか?[桜H30/10/5]
独自且つ的確な視点と情勢分析による鋭い提言や価値ある情報発信において他の追随を許さない青山繁晴が、視聴者からの質問に答える形で、日本の現状と未来を展望していく『青山繁晴が答えて、答えて、答える!』。
今回は、なぜ青山が坂本龍馬を語るのか? お答えします。
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【聞書3】やる夫が葉隠武士になるようです【意見編】
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