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【神道シリーズ】第55回・八百万の神⑫庚申信仰【後編】日本の信仰の根底に道教思想
日本に正式に庚申信仰が伝わった時期は判定が難しいところですが、日本書紀などにはすでに4世紀頃から庚申という言葉が使われていた記述がみられたりします。
日本書紀の記述では、皇極天皇は道教の熱烈な信者で、「皇極」という名称自体も道教の最高神の北斗星の北辰神の「北辰」という意味で、しかも、旱(ひでり)のひどい時に北辰神を祀って道教儀式をして雨を降らせた、という記述さえあります。
日本に正式に庚申信仰が伝えられたのは天台座主3代の知証大師(円珍)が唐より帰国する際に持ち込んだ、とされていますが、それより以前の養老8年(727年)にも「続日本紀」の記録で、宮中内裏の酒宴で「庚申」という言葉出てきています。
日本で初の「庚申待」が行われたのは、「日本略記」によれば、朱雀天皇の天慶2年(939年)に「庚申御遊(ごゆう)」が行われたとあります。
こうした、中国から朝鮮半島や日本に伝わった庚申信仰は、日本では本格的に庶民の間で爆発的に流行したのは室町時代の終わりから江戸時代中期頃までにかけてで、明治になると政府によって禁止されています。
三宝荒神と言い、庚申と言い、道祖神と言い、そして宮中や伊勢神宮までも含めて道教思想は日本の信仰の根底をなしていることだけは間違いありません。(詳細は動画内で)
【神道シリーズ】第54回・八百万の神⑪庚申信仰【前編】(青色金剛・日本における道教信仰と仏教の習合)
庚申と三宝荒神と道祖神で共通していることは、三者とも路上に置かれた石像神で、いずれも中国道教由来であり(三宝荒神は仏教の影響が大きいが)、室町時代末期から江戸時代中期にかけて民間の間に流行り神として爆発的に流行した流行神であることと、日本の八百万の神信仰(民間)の中でも信仰頻度として三つ合わせると八百万の神信仰全体の三割以上を占めると言われて事です。
三宝荒神は役小角以降の雑密修験道や真言密教の影響が大きいですが、庚申と道祖神は天台(比叡山)の影響が絶大だと言えます。
東晋の時代の中国の「抱朴子」(ほうぼくし)という道教の書の中で出てきた守庚申の信仰は、その後、朝鮮半島や日本に伝わり、日本では9世紀に天台座主の知証大師・円珍によって唐より「庚申経」という守庚申について書かれた書が伝わり、平安時代には庚申御遊として宮廷貴族や高僧の間で庚申が祀られていました。
これが江戸時代になると、今度は民間の間で庚申講というものが形成され、庚申の夜は寝ずに体内の三尸の虫が自分の罪科を天帝に報告されないように青色金剛を祀って対処します(庚申待)。
インド⇒中国⇒日本へと伝わった三猿信仰は三尸と繋がり、比叡天台では、庚申の申(さる)と三猿と古事記の猿田彦の「猿」と語呂合わせで繋ぎ、庚申尊の本地・青色金剛、垂迹・猿田彦の本地垂迹を比定しましたが、江戸中期に国学者(山崎闇斎)によってその関係は逆転されました。(ただ、いずれにしてもそこには古事記の中の猿田彦のストーリーとは一切無関係の、庚申としての猿田彦です)
庚申待(頭山バージョン) 古今亭志ん生
のなめ さんの掲示板での書き込みを拝見して、手持ちの音源を確認したら、落語のまくらで頭山を演じていました。うpされているのとは別音源です。