タグ 廃仏毀釈 が登録されている動画 : 28 件中 1 - 28 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
デーヴィッドアイク著、大いなる秘密、the answer第二巻 捏造された世界宗教。宗教監獄マトリックス幻想をけ破り、自らの意思で本当のワンネスにたどり着け
大いなる秘密「爬虫類人」-レプティリアン-〈上〉超長期的人類支配計画アジェンダ全暴露-デーヴィッド-アイク
https://www.amazon.co.jp//dp/4879191450/
答え-第2巻-世界の仕組み編-デーヴィッド・アイク
https://www.amazon.co.jp/dp/4867421332/
日本国史 上巻 田中英道
https://www.amazon.co.jp/dp/B09VC2PXZV/
南方熊楠 神社合祀例
http://www.minakatakumagusu-kinenkan.jp/kumagusu/life/goushihantai
加瀬英明さん 神道が世界を救う 和をたっとぶ神道こそが日本の神髄自然と共生する神道の思想こそが健全な社会を作る 【22年5月28日ユーチューブより転載】
神道がせかいを救う 加瀬英明さん、マンデロカデロさん
https://www.amazon.co.jp/dp/B07Z2YK7X2/
神道には、絶対神も教祖も教団も信者もいない。布教を押し付けられることもない。 聖書も経典もないから、制約も戒律もない。なにも押し付けるものがない。 教祖もなければ、絶対神もいないということは、神道は対抗や紛争の種にはならない。 旧約聖書を共通点とするユダヤ教も、キリスト教も、イスラム教もみな対抗しあい それぞれ殺しあったり、遺跡や銅像を破壊したりしてきた歴史を持つのである。 神道はただ、そこにあり、私たちの心の中に1万6千年前から根付いているものである。 だからこそ、われわれの国は2600年も平和の国として連続性を持って、存続できたのである。
田中英道先生の日本国史 世界最古の国の新しい物語 上巻 日高見国の存在、卑弥呼の不存在 日本こそが歴史ある国である
https://www.youtube.com/watch?v=RG3w1QOUw80&list=PL9a92aDLS7JaBz-lReYcPlQCrPU4_BZmn&index=10&t=1s
田中英道先生の日本国史 下巻 日本の言葉、日本の歴史を取り戻す 新しく正しい日本の歴史認識 連続性のある日本 https://www.youtube.com/watch?v=c35-eUQ5VKk&list=PL9a92aDLS7JaBz-lReYcPlQCrPU4_BZmn&index=21
100年後の人類はどうなっている!? Dr.苫米地 2018年10月29日 https://www.youtube.com/watch?v=kQf2PVL-jPA&t=50s
東京日和 写真集 神社・仏院編5
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B0822WFTPL/
明治維新という過ち、原田伊織さん著 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト、明治維新は薩長暴力テロリストによるクーデター。廃仏毀釈による文化破壊
【討論】幕末・明治維新を考える[桜R4/11/1]
https://www.youtube.com/watch?v=MU-RArGjkqQ&t=6191s
明治維新という名の洗脳 苫米地英人博士
https://www.amazon.co.jp/dp/B01M66H9QQ/
世襲議員という名の差別 苫米地英人博士
https://www.amazon.co.jp/dp/4866251468/
若い 天皇 を 人質 と し、 勅許 を 偽造 し てまで 決行 し た 長州・薩摩 と 岩倉具視 の 討幕 の ため の クーデター は 失敗 に 終わり、『 王政復古 の 大 号令』 は 実質的 に 消滅 し た。 そこで 長州・薩摩 は『 鳥羽 伏見 の 戦い』 へと 幕府 の 挑発 に 成功 し、 一気に『 戊辰戦争』 という 内乱 へ もち 込ん で、 結局 武力 で 討幕 に 成功 し た。 そして、 戦争 に 勝利 し た 長州・薩摩 が、 世に「 明治維新」 と 呼ば れる 麗しい 歴史 を 書い た ので ある。
【神道シリーズ・シーズン3】第13回・三河大浜騒動(浄土真宗の反撃)
明治新政府は、寺院統廃合と神仏分離政策、および、宮中、伊勢神宮、全国神社の祭祀統一などにより、欧米のキリスト教のような一神教的神道国家の形成を目指したが、そこに大きく立ちはだかったのは浄土真宗とその膨大な数の門徒たちであった。
新政府は寺院の数を減らしたり、寺院を神社に変えたりすることにより仏教の弱体化と国家が直接管理する全国神社により「神道国家日本」を目指したが、その過程で多くの真言宗、天台宗、曹洞宗、臨済宗、日蓮宗などの寺院が廃寺化されたが、それはすべて朝廷の命令の下にという口実で強権を持って進められた。
しかし、阿弥陀如来以外を信仰対象としない浄土真宗にはもともと権現とか明神と言った神祇信仰は持たなかった為、国家神道を押し付ける新政府の政策には強く抵抗した。
寺院統廃合政策に対して浄土真宗は全国で抵抗を続けたが、明治4年(1972年)2月に富山で2000人以上の真宗門徒農民の一斉蜂起が起きた翌月の3月には三河の大浜で真言宗僧侶や門徒農民数千人による大浜騒動が起き、暴動自体は鎮圧されたものの、それにより大浜での寺院統廃合および神道化政策は中止となり、この動きは全国的な真言宗の抵抗運動に大きな弾みをつけると同時に、新政府の神仏分離政策や廃仏毀釈運動に対して大きなブレーキをかけて行くこととなった。
現在の愛知県碧南市、西尾市、安城市を含む三河大浜の地域は、当時、千葉県に本拠地を置く菊間藩の遠隔飛び地として菊間藩の管轄下にあり、藩は、平田国学の門下生で小参事の服部純を大浜の寺院統合および神道化政策のトップとして派遣した。
この動きに不満を訴えた大浜の真宗寺院の僧侶たちは暮戸会所に集まり、藩の本部である大浜陣屋に談判に出かけることを決めたが、その道中、多数の真宗門徒農民たちが集まり、談判団の数は数千人に膨れ上がり、僧侶たちは彼らに解散を求めたが応じず、結局大浜陣屋北の片山家庄屋で暴動となり、藩側が砲撃により鎮圧に乗り出すこととなった。
結果は、事態の大きさに対して藩側の処罰は予想よりはるかに軽く、このことからしても真宗を挑発することの恐怖感を藩が感じていたことを物語る。
新政府の強引ともいえる国家神道化計画は、当時東部中国地方から畿内、中部地方全域、そして関東の一部にまで勢力を持ち、当時の人口の三分の一から二分の一近くを占める真宗門徒たちを無視して進めることはできず、結果、神道化政策もかなり形骸化される結果となったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第12回・東京(浅草寺・増上寺・寛永寺・宮中)における廃仏希釈
京都で長い伝統を持つ送り火や節分節句、門松、七夕、七五三などが禁止され、奈良では多くの名刹巨刹の寺院が廃され、住民と政府との間で強い摩擦が生じていた頃、東京と改名した江戸では、神仏習合して長い歴史を持ち、徳川から深い敬愛を受けていた増上寺、寛永寺、浅草寺などが神仏分離の名のもとに境内にあった権現社などが次々と切り離され、神社化された。
しかし、地元住民の深い信仰で支えられていた浅草寺では新政府の思惑通りには進まず、7世紀に隅田川で聖観音を見つけた漁師の檜前浜成・竹成兄弟とそれを自宅を寺院に変えて祀った土師中知の三名を三社権現という神として祀る浅草寺の由緒社伝は室町時代頃に作られ、新政府は浅草寺境内にあった三社権現社を浅草神社としたが、権現号自体は取り払われたものの、今でもこの三名を神として祀っており、さらに由緒もありのままが書かれている。
徳川の菩提寺であった増上寺と祈願寺であった寛永寺も廃仏毀釈の嵐に邁偶することとなる。
増上寺は浄土宗の寺院であったが、元は真言宗の寺院であった為、熊野権現社、車折明神社など11の社を抱えていたが、それらの社の旧社殿はすべて破却され、幸稲荷神社とされた幸稲荷社にすべての権現・明神が大神として合祀された。
天台宗の寺院・寛永寺は、山主に代々皇族出身の法親王が就き、輪王寺号を継承し、天台座主と日光山門主も兼帯し、形式上将軍と対等の地位を持っていた。
しかし、その寛永寺も、慶応4年1868年10月に新政府軍と旧幕府側の彰義隊が上野で戦闘を始めた時、新政府軍は恭順した増上寺を基地とし、寛永寺に立てこもる彰義隊を攻撃し、僅か1日で勝利し、戦禍にまみえて寺院は悉く焼け落ち、彰義隊の死体の山と化してしまった。
その後、新政府は寛永寺の境内の不忍池にあった弁天堂に鳥居があったため、堂舎を取り壊そうとしたが、僧侶や信徒たちによる必死の抵抗により、鳥居のみを取り壊すことにより仏教寺院として維持していくことを可能とした。
東京遷都に伴い、江戸城を新皇居とした明治政府は、京都御所から歴代天皇の位牌や念持仏を祀る御黒戸を撤去し、それまで中国式であった皇室儀礼をすべて明治に作られた神式に変え、皇室祭祀の中心であった仏教祭祀や皇位継承儀式をすべて廃止し、新しい神道式に変えた。
こうした一連の、新政府による伝統否定政策は、逆にこんにちで言う「神道」なるものが明治に作られ、明治より始まったのだという事実を証明することになってしまったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第10回・伯耆大山・竹生島・金毘羅の廃仏毀釈
鳥取県の伯耆大山では、奈良時代から一貫して続いていた地蔵菩薩信仰が鳥取藩の神社取締役の国学者役人である小谷古陰によって伯耆大山信仰の中心であった大山寺が廃寺にされ、そこに大山はもともと大山祇命の信仰の地であったが出羽の衆徒らが乗り込んできて地蔵信仰を大山祇命と習合させたのだ、という歴史的にありもしなかったストーリーを捏造し、大山寺は廃寺改装され、
新設の大神山神社の一部とされてしまった。
そしてやがて、そこに平田国学派の役人たちが祭神を大国主神に変更するよう建白書を出し、それが通ってしまい、地蔵菩薩信仰の中心地大山寺は大国主を祀る神社となってしまったのである。
琵琶湖に浮かぶ小島、竹生島は、聖武天皇の時代に行基を派遣して仏教の神・弁財天を祀るように命じたことに始まり、その時に創建された宝厳寺が竹生島弁財天大権現を祀り、竹生島弁天信仰の中心となってきた。
しかし、明治政府は、琵琶湖を管理する大津県庁を通じて、強引に宝厳寺を延喜式神名帳にある都久夫須麻神社であると主張し、宝厳寺を廃して神社へ改変してしまった。
宝厳寺側は抗弁したものの受け入れず、朝廷の命令であることを強調して、背けば朝敵になり成敗されると脅迫されて強行した。
金毘羅信仰は、16世紀頃から讃岐の地で真言宗の松尾寺がヒンズー教の水神クンビーラを十一面観音を本尊とする金毘羅権現として祀ったことに始まり、
明治前まで金毘羅信仰は盛んで、全国から金毘羅講の参詣客が訪れ、讃岐の地は「こんぴらさん」で親しまれるようになっていた。
しかし、新政府から派遣された平田派国学者の役人たちは、平田篤胤の著書「玉襷」の総論追加から引用した、琴平はかつて大国主神の別宮であった、という創作話を根拠に、松尾寺を廃し、そこを大国主を祀る神社にするように命令し、松尾寺最後の住職・宥常は、最初は抵抗したものの、結局松尾寺の神社化を受け入れ、松尾寺を改変して金刀比羅神社とし、自ら還俗してその神社の初代宮司となり、仏像仏具を廃棄し、神道化を進めた。
しかし、宥常は、松尾寺にあった本尊の十一面観音像だけはかたくなに死守し、後に旧松尾寺の院の一つだった普門院が新松尾寺となると、この十一面観音像を巡り所属訴訟まで起こることとなった。
かくして、伯耆大山、竹生島、讃岐と、すべてが明治前までお寺であったところが神社にされ、由緒社伝まで捏造されていったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第8回・吉野・羽黒三山の廃仏毀釈
現在の日本の神社はほとんどが明治前には寺院であったところが神社に変えられたもので、特に山岳信仰に至っては100%と言ってよいほどもともと寺院と寺院が管理する権現社であったところが明治期に神社に変えられているのだが、その過程の中で名称こそ寺を神社に改められ、権現は大神に変更されても中身の祭祀や信仰だけは維持しようと戦い続けた山岳信仰が多く見られた。
新政府は神仏分離政策を進める中、平田国学に強い影響を受けた役人たちを各地の宗教政策の担当に充て、日本全土の神道化を目指したが、新政府の実現しようとしたその神道化の中身が実は平田神道であり、この神道論・神道説の中には誇大妄想的日本中心主義と顕界と幽界、つまり人の生死の哲学はあってもそれぞれの地で長年信仰され染みついてきた権現信仰や仏教信仰に置き換わりうるだけのコンテンツは到底提供できず、当然地元からは強い反発と抵抗を受けることとなる。
平田国学に染まった役人たちは、道の至る所に散在する地蔵仏や庚申、道祖神、小祠、堂宇などを破壊しまくり、権現社を神社に改め、山頂に鎮座する寺院をことごとく神社に改変してきたが、一番欠けていたものは彼らが唱える「神道」の宗教的コンテンツであった。
吉野では、奈良時代から役小角による修験道と蔵王権現の信仰があり、平安以降は真言宗や天台宗の密教の修行の場となり、地元では陰陽行的な金精明神と密教の蔵王権現信仰が根付いており、また、羽黒山、月山、湯殿山を有する奥羽三山では古くから役小角の影響を受けた能除の修験道が発達しており、さらに中世以降は羽黒山、月山では天台宗、湯殿山では真言宗の修験道が発展し、羽黒山権現、月山権現、湯殿山権現の信仰が定着していた。
こうした密教修験道に基づく強い地元信仰のあった地に新政府は平田国学が提唱する神道という名の新興宗教によって置き換えようとしたが、結果、地元や真言・天台の抵抗もあって、寺院や権現の名称自体は失っても中身の信仰や祭祀は維持するという結果になったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第7回・全国の神仏分離政策①諏訪・住吉・四国遍路
暴力的な寺院破壊を伴った廃仏毀釈運動とは別に新政府主導で進められた全国の神仏分離政策は、基本的に寺院や仏像・仏具・仏什の破壊を目的にしたものではなかったが、「神仏を切り離す」という原則は貫かれ、強引な神仏の引き離しや、引き離せないところは廃寺にして神社を新設するなどと不自然な分離活動は続いたが、最後は仏教信仰の強い住民による下からの抵抗により廃寺になった寺は復興を遂げ、破壊された神宮寺に残る国宝級の仏教遺産も信仰の篤い信徒や社人、住民らの力によって救出されてきた。
春宮と秋宮からなる下社諏訪大社には平田国学が入り込み、下社大祝の金刺信古は平田篤胤の門人となり、尊王攘夷運動にも積極的に関わり、国学的廃仏主義に燃え、明治前より諏訪大社下社神宮寺の破壊を始めた。大祝の金刺古信のみならず副大祝の山田氏も神宮寺の堂塔、仏具を撤去しようとしたが、高島藩の藩民たちは仏罰や祟りを恐れてその協力を拒否した。
諏訪大社上社神宮寺でも一級の国宝級資産である諏訪明神の本地・普賢菩薩騎象像や上がり・下り仁王門に祀られていた金剛力士像、そして不動明王像や毘沙門天象などが善光寺に救出搬送されていたが、一部破壊を受けたこれらの像はいずれも片目がえぐられていた。
これは、やはり仏罰や祟りを恐れての仏像の魂抜きという作業だが、こうした事実からしても地元の仏教信仰の深さを物語っていると言える。
住吉大社では、1200年以上の歴史を持つ新羅寺と呼ばれていた住吉神宮寺は、東西に大きな多宝塔を持つ名刹の一つであったが、神仏分離政策の中で東塔は完全に破壊されたが、西塔は四国遍路の切幡寺にそのまま搬送救助されていた。
四国遍路でも多くの寺院が廃寺に追い込まれ、神仏習合性の高い寺院は神社を新設して独立させ、中には、崇徳上皇の配流先となった白峯寺では、崇徳上皇の神霊が強引に京都に新設した白峯神宮に移されたが、今でも崇徳上皇の神霊参詣は白峰寺で行われており、また、廃寺に追い込まれた寺院すべてが住民・信徒たちによって復興された。
こうした一連の住民たちの静かなる抵抗は、日本全土で日本人の仏教信仰の深さを物語っており、
長い歴史の中で培われた伝統的信仰はにわかな神道という名の国学イデオロギーで表向きの形を強引に変えても本質的な部分は何ら変わっていなことを物語っているのである。
【神道シリーズ・シーズン3】第6回・リセットされた伊勢神宮(今の伊勢神宮は明治に創られた新伊勢神宮)
日本書紀には、アマテラスの身代と言われる八咫鏡が宮中から常世の世界を求めて五十鈴川のほとりの宇治山田に移ったという話や、後の天武天皇たる大海人皇子が壬申の乱で戦争を祈って伊勢の方向に遥拝した話が出てくるが、実際に伊勢神宮の名称が登場するのは11世紀に天台僧・皇円によって書かれた扶桑略記で、古書の中で確認できる伊勢神宮では、神宮の成立は天武天皇の治世の8世紀頃とされ、もともと伊勢の宇治山田の地で伊勢大神たる由化ノ神を氏神としていた渡会氏の地に、出自不詳の荒木田氏がアマテラスを祀る内宮の禰宜として登場し、渡会氏は由化ノ神ならぬ豊受神を祀る外宮の禰宜とされた。
その8世紀以降明治までのおよそ1200年以上の間続いてきた内宮荒木田氏・外宮渡会氏の禰宜や中世以降明治前までずっと続いていた伊勢大麻を配り参詣者たちを募っていた伊勢御師や江戸時代以降盛んになった伊勢講までをも明治新政府は一瞬にして強制的に廃止してしまった。
一方、中世以降、密教との繋がりを通じて発展した内宮や、道教思想に基づいて伊勢神道を形成して神宮の独立性を確立した外宮の存在基盤も新政府による神宮周辺の寺院の全廃や内外宮禰宜の社家・荒木田氏、渡会氏を追放し、伊勢神道の道教的祭祀を全廃し、薩摩など外部から平田国学など国学神道論の影響を受けた部外者たちを権禰宜など神宮運営の中心に据え、新たな祭祀と地方官庁が伊勢大麻を生産して住民に強制的配布をする、など過去の伊勢神宮の歴史を完全否定する新伊勢神宮建設計画が進められた。
やがて伊勢神宮は神宮としての独自性よりも、明治期に新たに作られた宮中祭祀と歩調をとるように新たに作られた明治神道形式で統一され、さらに全国神社も独自祭祀を禁止し、宮中、伊勢神宮、全国神社と共通性する祭祀の構築が新政府によって進められた。
こうした強引で人工的な日本教の建設には、浄土真宗を中心とする仏教勢力や庶民の根強い反対や抵抗によりかなり緩和され、骨抜きにはなって行ったのだが、伊勢神宮や伊勢周辺寺院も含め、失ったり破壊された伝統文化はあまりのも大きかったのである。
【神道シリーズ・シーズン3】(特別編)神道の歴史は明治以降
神道は、往古の昔、仏教伝来より前からあったと信じてる人は多いですが、実は、神道とは明治以降に創られたものだという真実について語ります
お伊勢参り、江戸時代の大旅行ブーム
参考文献
・書籍
加藤武雄著『豊臣秀吉. 下巻』(昭和19年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1719787/17
長崎市編『長崎市史. 地誌編仏寺部 上』(大正12~14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978668/28
山本秀煌著『日本基督教史.上巻』大正14年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/943939/226
蜷川新著『続・維新前後の政争と小栗上野』(昭和6年出版)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179005/163
鹿児島県 編『鹿児島県史. 第3巻』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1239976/412
しばやん著『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』
渡辺京二著『逝きし世の面影』
鎌田道隆著『お伊勢参り』
・絵画
広重画『伊勢参宮宮川渡しの図』神宮の博物館http://museum.isejingu.or.jp/museum/collection/05176.html
廣重画『東海道五十三次』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1911036/30
狩野内膳作「南蛮屏風」https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/399808/0/2
広重『伊勢参宮略図』1855年(安政2年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1302527
『伊勢參宮名所圖會 5巻[4]』1797年(寛政9年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2555628/4
ほか
・論文
日本女子大学名誉教授村井早苗『キリシタン禁制をめぐる天皇と統一権力』file:///C:/Users/owner/Downloads/KJ00007901559.pdf
・ブログなど
『近代資本主義の成立と奴隷貿易』西山俊彦
http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/doreimondai_2.pdf
しばやんの日々『秀吉はなぜ「伴天連(バテレン)追放令」を出したのか』2011, 02. 05
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-132.html
他多数
BGM:甘茶の音楽工房 https://amachamusic.chagasi.com/
【神道シリーズ・シーズン3】第5回・明治以前からの廃仏毀釈(岡山藩・津和野藩・土佐藩)まなすさんの土佐廃仏毀釈解説付き
最も早い時期から神社統廃合や寺院統廃合が行われていたのは水戸藩と岡山藩で、岡山藩では陽明学者の熊沢蕃山の影響を強く受けた藩主池田光政はまず淫祠と呼ばれる陰陽行に基づく男女性器をシンボルにした陰陽石や道祖神およびそうした神体を祀る小詞・堂宇・庵などが破却整理の対象となった。そして権現神や明神を祀ってる社から記紀の神々を切り離して寄宮という場所にまとめて祀るという、所謂「寄宮」政策が行われた。
しかし、こうした政策は神仏分離というよりも実は民間信仰の否定破壊であり、その上にさらに仏教葬祭を禁止して神道葬祭に強制的に切り替えさせるという政策も民衆の抵抗があり、結局徹底した寺院整理は実現できず、神道葬祭強制も結局もとの仏教葬祭に戻す武家や民衆の動きにより実現できなかった。
しかし、岡山藩では神社統廃合は徹底して行われ、約94%の神社的祠、堂宇、庵が破壊された。
一方の寺院統廃合では特に日蓮宗不受不布施派がターゲットにされ大半が破却された。
島根県西部の津和野藩では、幕末に平田派の国学者、大国隆正や福羽美静の影響を受けた藩主・亀井茲監は廃仏を目的とする寺院統廃合は行わなかったものの神仏分離政策は徹底され、当時急増していた新創建神社の整理とともに寺院の神社化や平田国学者による社伝の書き換えなどは徹底された。
さらに寺請制度の廃止と神社請制度による置き換えを目指したが幕府からの圧力により頓挫した。ここでも仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制が行われたがうまく行かなかった。
土佐藩では、明治直前より平田国学の影響を強く受けた藩役職の者たちにより寺院統廃合と廃寺化した寺院の神社化が進められた。
この三藩に共通していることは、寺を失い、僧侶を失っても民衆の仏教信仰は止まず、
仏教葬祭の廃止と神道葬祭の強制はことごとく失敗し、同時に民衆の信仰の中心であった民間信仰が徹底的に破壊され、巨大な心の空洞を産みだした。一連の廃仏毀釈および寺社統廃合により仏教を消し去ることには失敗したが、日本人の古くから引き継がれてきた民間神道は徹底的に破壊され、明治以降はそうした民間信仰の維持を願う民衆と神道という名の平田派系の新興宗教との静かなるせめぎ合いが続いていくのであった。
【神道シリーズ・シーズン3】第4回・薩摩・宮崎(日向)における廃仏毀釈
薩摩藩の島津家は元々は仏教信仰の篤い家柄で、戦国時代の島津家15代当主の貴久の時代には「仏を信じざる者は我が子孫にあらず」とまで言われ、菩提寺・曹洞宗の福昌寺や勅願寺の心岳寺などを中心に代々敬虔な仏教信仰を行って来たが、幕末の11代藩主斉彬の時代になると、薩摩藩士・田中頼傭が京都より持ち込んだ国学の影響で廃仏思想が高まり、それが藩内の財政改革や富国強兵の必要性などと事情が重なり、
厳しい廃寺政策が採られることとなった。
藩主・斉彬が目をつけたのは水戸藩における神社統廃合による財政改革や寺院の破却によって得られる梵鐘や金仏や金属什器が溶かして大砲や鉄砲製造の為の素材になるという点で、先代より引き継いだ500万両以上の借金と外国勢力の侵略に備えた軍備の充実の点からみても一石二鳥の政策であった。
しかし、斉彬の後を継いだ12代藩主忠義の父・久光は、
我が息子で幼い忠義の後見役として藩の実験を握り、国学の影響も強く受け、さらに藩の廃仏政策を強力に推し進めて行った。
寺院の破却を加速させ、そこから得られた金属類は大砲や鉄砲などの武器のみならず鋳貨の偽造、つまり贋金作りにまで利用され、それによって得られた資金でますます藩の軍事力を強大化して行った。
やがて廃仏政策は藩内に一つの寺も残らないところまで推し進められ、
一方ではかつて大寺院であった天台宗の書写山円教寺を破却して霧島神宮という神社に改編し、社伝も6世紀から神武天皇らが祀られてきたかのように書き換えられた。
となりの宮崎は、当時、飫肥藩・佐土原藩・高鍋藩などの小藩に分かれ、いずれも大藩である隣国の薩摩藩の影響下にあり、廃仏政策も薩摩藩の意向を忖度するかの如くに行われ、結果的に薩摩藩を上周るレベルでの廃仏毀釈が行われた。
しかし、宮崎南部の高鍋藩ではそうした廃仏政策に抵抗する寺も多く、浄土宗の円福寺では住職の関代が体を張って抵抗して廃寺を免れたり、また、明治3年1870年には真言宗智山派の伊満福寺の僧侶が宮崎藩の役人によって崖から投げ落とされて殺害されるような事件さえ起きている。
こうした一連の厳しい廃仏政策はこの両県から大半の寺院を消滅させ、強引に神道化を進めたが、しかし、彼らが進めた神道化政策とは、やってることは仏教と変わらないが、形を彼らが創り出した神道式に変えると言う換骨奪胎に過ぎなかったのである
【神道シリーズ・シーズン3】第3回・明治以前より始まっていた廃仏毀釈①(水戸藩<前期・後期>・長州藩)
一般的にすべてを丸めて廃仏毀釈と呼ばれることが多いが、実は廃仏毀釈という概念は大きく三つのジャンルに分類される。一般的に言われるのは大政奉還直後から明治4年ぐらいの4年間ぐらいの間に松本・苗木・佐渡・隠岐など一部の地域で行われた過激な廃仏毀釈活動で、一つは江戸初期より水戸藩や岡山藩で行われていた寺社統廃合政策と幕末に水戸学や国学に影響されて行われたより進んだ寺院統廃合であり、
いまひとつは明治以降明治10年過ぎ頃まで続いた新政府による神仏分離政策である。
広義での廃仏毀釈には江戸初期より水戸藩・岡山藩で行われた儒学的な廃仏主義・祭祀思想に基づく寺社統廃合より始まり、当初は仏教の完全否定ではなく、無住の寺、宗教活動をしていない寺、祈祷のみで葬儀を行っていない寺などが統廃合の対象となっていた。
しかし、幕末になると後期水戸学、陽明学、平田国学に影響されてより過激な廃仏思想に基づく寺院統廃合が進み、薩摩藩のように藩内の寺院がゼロになるような藩も出て来た。
危険な思想の兆しは長州藩にみられる淫祠の破却思想で、これは荻生徂徠による儒教経典礼経によるもので儒教的な排仏主義から来ている民間信仰破壊で、民衆の最も身近な信仰対象である小祠、堂宇、石仏、庚申塚、地蔵菩薩像などが破壊尽くされ、民衆を不安と恐怖のどん底に突き落とす事となった。
確かに明治以前の寺院統廃合においては明治以降のような暴徒による暴力的な廃仏毀釈活動は見られなかったものの、長い歴史の中で定着していた民間信仰の破壊や火葬仏教葬儀の廃止など、国民の伝統を破壊する活動は続けられた。それまで仏教の神々を祀っていた権現社や仏教に帰依した氏神を祀っていた明神社は古事記や日本書紀に出てくる神々に祭神に変えられ、新設神社とされ、ありもしなかった由縁や社伝を付け加えられて行った。
藩主たちは儒学や国学に基づき権現社・明神社の神社化を民衆の抵抗を抑えながら進めて行ったが、彼らの提唱する神道なるものにより民衆の間に生まれた心の空白を埋めることはできなかった。なぜならもともと仏教に無関係な古事記日本書紀に基づく神々の信仰などというものは存在しなかったからである。
【神道シリーズ・シーズン3】第2回・廃仏毀釈②(佐渡・隠岐・富山)
廃仏毀釈は、慶応4年1868年3月8日の吉田神道配下と日吉社社司ら40名による日吉社の仏壇仏具の破壊焼却に始まり平田国学の影響を強く受けた一部の藩主藩士や庄屋豪農らにより明治元年より明治4年の終わりぐらいまでの間に全国5か所ぐらいの地域で過激な仏教排撃、寺院破壊と僧侶の強制還俗と帰農、そしてぶっそうさい火葬の禁止と神葬祭土葬の強要が実施され、やがて寺院や民衆の方から政府や朝廷に抗議の請願が出され、実地調査をした新政府がその惨状に驚き、事件関係者を処罰し明治4年の後半頃より収束をみることとなった。明治以前より廃仏寺院統合や廃仏毀釈が行われてきた水戸藩、薩摩藩、岡山藩、津和野藩、土佐藩などを除くと明治以降に平田国学の影響を強く受けて過激で破壊的な廃仏毀釈が行われたのは、松本、苗木、佐渡、隠岐、富山の5地域であるが、これらの地域に共通している点は、いずれも浄土真宗の強力な勢力圏であり、真言宗や
天台宗や浄土宗、禅宗の寺院が次々と破壊され、僧侶たちには還俗が強制される中、浄土真宗だけは民衆門徒やtouzai本願寺の政治力も含め、実に根強い抵抗を見せ、この力がやがてこうした一連の過激な廃仏毀釈活動を終息させていくこととなった。
結局一連の過激な廃仏毀釈活動が齎したものは、実行犯たちの思惑に反していかに仏教が国民にとって切り離せない唯一の信仰になっていたかを改めて証明した結果になったのだ。
【神道シリーズ・シーズン3】第1回・廃仏毀釈と平田国学の復古神道①
日本の歴史史上最大の汚点とされる廃仏毀釈は、大政奉還の翌年3月の慶応4年1868年3月に薩長新政府により神仏混淆禁止令がだされると翌4月に日吉社の社司・樹下茂国と生源寺希徳らが吉田神道配下の者たちで結成した神威隊40名を引き連れ、日吉社に祀られた仏像仏具経典などを破壊しつくした暴力的破壊活動を契機に明治元年以降の数年間に全国いくつかの地域で過激な寺院破壊活動が展開された事件のことを言う。
廃仏寺院統合の動きは明治前より水戸藩、岡山藩、薩摩藩、土佐藩、津和野藩などいくつかの朱子学・陽明学・国学の影響が強かった藩で江戸時代初期、中期、後期、末期から見られていたが、それらはあくまで寺院の統廃合であって仏像仏具什器などの破壊を意図するものではなかった。
しかし大政奉還後に始まった廃仏毀釈運動は仏教や僧侶たちに対する憎悪と嫌悪が動機となっており、この上からの仏教破壊活動は仏教を信仰する住民
との間に大きな摩擦を引き起こしていった。
廃仏毀釈運動の特徴は、長州・薩摩・津和野など陽明学国学の影響を強く受けた旧藩主や藩士たちがこぞって新政府の神仏分離政策を口実に各地で過激な仏教破壊活動を行い、仏教を信仰する村民たちや浄土真宗を中心とした仏教勢力からの根強い抵抗を受けることとなり、やがて新政府によってそうした破壊活動が罰せられることにより収束に向かった一連の暴力活動を指す。
廃仏毀釈活動は明治元年から4年ぐらいまでの間に集中し、明治9年にはほとんどの破壊活動は終了するが、
廃仏毀釈運動とは別に進められた神仏分離政策も地元の抵抗に会いながら新政府は朝廷からの命令という言葉を盾に強引に推し進め、結果、明治10年頃には日本の寺院の約半数は消滅し、さらに廃仏毀釈で失われた国宝クラスの文化財は日本の文化財全体の三分の二以上に及んだと言われる。
廃仏毀釈活動は、慶応4年の日吉社の仏像仏具経典破壊を引きりに明治元年から明治4年ぐらいにかけ、松本、苗木、佐渡、富山、隠岐などで特に酷い暴力的破壊活動が行われ、これらの破壊活動の首謀者は旧藩主、旧長州藩士、平田国学の影響を強く受けた旧幕臣らで、いずれのケースも平田国学という点で一つの線で結ばれている。
仏教の神・権現神や仏教帰依した氏神明神が長く定着していた日本の国土に平田国学の復古神道というこれまでの歴史に無かった新興宗教を強制的に根付かせる事が一連の破壊活動の根底にあった。
形式的には神仏分離という名目で過去に長く定着していた権現明神信仰を消し去り、新設神社に新たな由緒社伝を捏造したものの、それは同時に信仰の無い神社を増産していくことになったのである。
大神淫夢伝
修行をやっています。いつの日か仙人になれると信じて
寺に火をつけてしまったので初投稿です
道教や仏教などのことは勉強中なのでどこか間違ってるかもしれません
画像提供してくれたカルパス兄貴ありがとう!フラーッシュ!
あめんどう兄貴、gaburusu13兄貴、gaburusu13兄貴、ずぶろっきん兄貴、HUITJLTYXOICVBOU兄貴、物部布都姉貴 、サム兄貴、棚町薫兄貴、豆板醤兄貴、颯れてぃ兄貴、アズガ兄貴
広告ありがとナス!
【MUGEN凶悪】チビキャラ軍vs巨大キャラ軍 ランセレバトル大会 part2
ランセレ様は今日もご乱心です
更新報告・BGMリクのほうをブロマガにしていただけると助かります。
=============================================
チビデカ杯マイリスト【mylist/60635120】
OP【sm32475648】
Part1【sm32486780】← ここ → part3【sm32531563】
大会ルールと参加者一覧【ar1388052】
=============================================
≪キャラ解説のコーナー≫
ナナヤン・・・本大会に出場しているオロチンのリスペクトキャラ。全ての七夜を倒さないとライフが一切減らないため、ジャスガと合わせて防御寄りなキャラ。
ミニ天子・・・実はオワタ式なので殴って倒すことも出来るらしい(見たことない)。
【異常事態】 重要文化財に油をかけられまた仏像が盗まれる。広がる被害
世界遺産・国宝・貴重文化財に油被害が相次いで全国で広がっている。
必ず犯人には罰が当たります。
都道府県対抗 寺院の数ランキング
都道府県の寺院の数をランキングにしました
正確には、「宗教団体の寺院」の数なので、厳密な寺数と
異なる場合がありますので、目安としてお楽しみください
神社版:nm23735315
色々調べてるうちに、8月になってしまいました…orz
【データ参照元】
文化庁 | 宗教法人と宗務行政 | 宗教年鑑(H22年12/31現在分)
http://www.bunka.go.jp/shukyouhoujin/nenkan/index.html
【BGM】
【NNIオリジナル曲】和都街灯風情【準和風インスト】:nm15030225
Autumn Gold / オリジナル曲:sm15582451
都道府県関連のマイリスト:mylist/30242458
密教・修験道の歴史(日本に神道などという宗教は無い)7-2
【永久保存版】密教・修験道の歴史(日本に神道などという宗教は無い)
Pちゃんのコミュニティ
co569686(グローバリズムと日本【政治:経済枠】)
挨拶と密教シリーズについて sm22837427
第7回目
(1-1)sm22915770 (1-2)sm22915806
「対馬」韓国人が仏像を盗んだ犯行現場に行きました。
長崎県の対馬で、韓国人による仏像盗難事件が起きました。その犯行現場に行って来ました。
会津若松・飯盛山☆さざえ堂のからくり人形
100円で動くおもちゃ(違
友人が試しに動かしてたので、便乗して後ろから撮影。
ちなみに運ばれてきたものは御神籤でした。
ストリートファイター2 AC・GB・SMS・PCE・MD・SFC・X68000 BGM比較集 Part 2/2
ストリートファイター2の対戦BGMをつなげてあります。AC(SF2)→GB(SF2)→SMS(ダッシュ)→PCE(ダッシュ)→MD(ダッシュプラス)→SFC(SF2)→X68000(ダッシュ)、ザンギエフ(GB)→E・ホンダ→ダルシム→バイソン(GB・SMS)→バルログ→サガット(GB・SMS)→ベガ(GB・SMS)順です。GB・SMSはキャラ横に記載のあるもののみで、あとは削除されています。SMSはセガ・マスターシステムの略で、移植はTEC TOYというブラジルの会社がおこなっています。Part1→sm2433396、ピンチBGM比較(OP、キャラセレクト補足)→sm3298587、その他のBGM比較集→mylist/4743709