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【神道シリーズ・シーズン3】第7回・全国の神仏分離政策①諏訪・住吉・四国遍路
暴力的な寺院破壊を伴った廃仏毀釈運動とは別に新政府主導で進められた全国の神仏分離政策は、基本的に寺院や仏像・仏具・仏什の破壊を目的にしたものではなかったが、「神仏を切り離す」という原則は貫かれ、強引な神仏の引き離しや、引き離せないところは廃寺にして神社を新設するなどと不自然な分離活動は続いたが、最後は仏教信仰の強い住民による下からの抵抗により廃寺になった寺は復興を遂げ、破壊された神宮寺に残る国宝級の仏教遺産も信仰の篤い信徒や社人、住民らの力によって救出されてきた。
春宮と秋宮からなる下社諏訪大社には平田国学が入り込み、下社大祝の金刺信古は平田篤胤の門人となり、尊王攘夷運動にも積極的に関わり、国学的廃仏主義に燃え、明治前より諏訪大社下社神宮寺の破壊を始めた。大祝の金刺古信のみならず副大祝の山田氏も神宮寺の堂塔、仏具を撤去しようとしたが、高島藩の藩民たちは仏罰や祟りを恐れてその協力を拒否した。
諏訪大社上社神宮寺でも一級の国宝級資産である諏訪明神の本地・普賢菩薩騎象像や上がり・下り仁王門に祀られていた金剛力士像、そして不動明王像や毘沙門天象などが善光寺に救出搬送されていたが、一部破壊を受けたこれらの像はいずれも片目がえぐられていた。
これは、やはり仏罰や祟りを恐れての仏像の魂抜きという作業だが、こうした事実からしても地元の仏教信仰の深さを物語っていると言える。
住吉大社では、1200年以上の歴史を持つ新羅寺と呼ばれていた住吉神宮寺は、東西に大きな多宝塔を持つ名刹の一つであったが、神仏分離政策の中で東塔は完全に破壊されたが、西塔は四国遍路の切幡寺にそのまま搬送救助されていた。
四国遍路でも多くの寺院が廃寺に追い込まれ、神仏習合性の高い寺院は神社を新設して独立させ、中には、崇徳上皇の配流先となった白峯寺では、崇徳上皇の神霊が強引に京都に新設した白峯神宮に移されたが、今でも崇徳上皇の神霊参詣は白峰寺で行われており、また、廃寺に追い込まれた寺院すべてが住民・信徒たちによって復興された。
こうした一連の住民たちの静かなる抵抗は、日本全土で日本人の仏教信仰の深さを物語っており、
長い歴史の中で培われた伝統的信仰はにわかな神道という名の国学イデオロギーで表向きの形を強引に変えても本質的な部分は何ら変わっていなことを物語っているのである。
【神道シリーズ】第29回・諏訪信仰(諏訪大明神>本地・普賢菩薩千手観音菩薩大日如来)今日に続く信仰
諏訪信仰と言えば諏訪大明神と言うのが古今一貫しているものですが、この諏訪大明神という名前が出てきたのは平安時代で、弥生系(中国江南地方より陰陽五行思想や社稷思想<穀物信仰>を持って移民した人たち)の諏訪の地元民の信仰していた洩矢(もりや)神(蛇神・ミシャグジ神)の諏訪に出雲系(スサノオ族=新羅系移民)の建御名方神が同地に居ついてから、諏訪の信仰が二重構造(洩矢神信仰と建御名方信仰)になっていたところに、10世紀頃になると真言宗系の両部神道の影響が広がり、諏訪湖の本地は大日如来、諏訪大社上社は普賢菩薩、下社は千手観音菩薩が本地と、仏経の神様となり、これが諏訪大明神と呼ばれるようになり、その後、室町時代、南北朝時代、戦国時代と武士を中心とした厚い信仰が広まるようになります。
この諏訪大明神という考え方は、明治時代に破壊されようとしましたが、地元や全国の諏訪神社に伝わる伝承信仰の力は強く、またたくまに復活して、今日でも諏訪大社と言えば諏訪大明神が信仰の中心になってます。