高村光太郎作 「智恵子抄」よりレモン哀歌そんなにもあなたはレモンを待つてゐたかなしく白くあかるい死の床でわたしの手からとつた一つのレモンをあなたのきれいな歯ががりりと噛んだトパアズいろの香気が立つその数滴の天のものなるレモンの汁はぱつとあなたの意識を正常にしたあなたの青く澄んだ眼がかすかに笑うわたしの手を握るあなたの力の健康さよあなたの咽喉に嵐はあるがかういふ命の瀬戸ぎはに智恵子はもとの智恵子となり生涯の愛を一瞬にかたむけたそれからひと時昔山巓でしたやうな深呼吸を一つしてあなたの機関はそれなり止まつた写真の前に挿した桜の花かげにすずしく光るレモンを今日も置かう昭和十四年二月朗読:かたくり