広島、長崎に続く第3の核被害 第五福竜丸

広島、長崎に続く第3の核被害 第五福竜丸

終戦からまもなく74年。広島、長崎の原爆に続いて核兵器による3度目の被害を伝える資料館を郡司恭子キャスターが取材した。訪れたのは東京・江東区にある第五福竜丸展示館。郡司「大きいですね。これ船底ですね。下から見ると、とっても大きく感じますね」高さ15メートル、全長30メートルあまりの木造のマグロ漁船。65年前、核実験によって被ばくした『第五福竜丸』だ。1954年3月1日、アメリカは南太平洋のビキニ環礁で大規模な水爆実験を行った。この時、爆心地から約160キロの距離に停泊していたのが、第五福竜丸だった。約18年、この展示館の運営に携わってきた安田和也さんに、当時の出来事を聞かせてもらった。郡司「こちらの写真が当時の写真、これだけ空が燃えるように輝いていたんですね」安田さん「そうですね。突然昼間のように明るくなって、乗組員は一体、何だろうということで、船の後ろの方に集まってその方角を見ているんですね」その7~8分後に、大きな地鳴りが響いたという。安田さん「とにかくマグロを揚げなきゃいけない。縄を上げる作業を始めて2時間くらいたって、雨にまじって白い粉が降ってくるんですね」第五福竜丸に降り積もった“白い粉”の実物が展示されている。この白い粉こそが、水爆実験で放射能を帯びたサンゴの粉じん、いわゆる「死の灰」だったのだ。しかし、そうとは知らない乗組員たちは死の灰が降る中、4~5時間も作業を続け、23人全員が被ばくした。それから2週間後、漁港に戻った乗組員たちは、やけどや髪の毛が抜けるなどの症状を訴え、全員が「急性放射線症」と診断されたのだ。そして全員が闘病生活を送ることに。郡司「安田さんは、人と核というのは、今後どうやって向き合っていくべきだとお考えですか?」安田さん「50年、60年、70年も苦しみを与えるような兵器というのは、やはり非人道な兵器で、決してあってはならないものではないかなと。核兵器を削減していくこと、絶対使わせないようにすること、そしてなくしていくこと、そう簡単ではありません。高い、厚い壁があると思います。けれども、決してそのことを諦めてはいけないし、そういう努力が続けられていることも多くの人たちに知らせていく必要があるし、みんなが共有していくことだと思うんですね」

http://www.nicovideo.jp/watch/sm35532353