【神道シリーズ・シーズン2】第32回・吉田松陰の思想遍歴

【神道シリーズ・シーズン2】第32回・吉田松陰の思想遍歴

吉田松陰は、文政13年(1830年)8月4日、長州萩城下松本村(現・山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれたが、杉家の貧困さのため、叔父で山鹿流兵学師範である吉田家の養子となり、叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。叔父のモラハラ、パワハラのスパルタ教育にもめげず、頭脳明晰な松陰は、9歳で明倫館の兵学師範を務め、11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義でその才が認められ、15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。嘉永3年(1850年)20歳の時に藩からの調査を目的として長崎遊学をした松陰は、停泊してるオランダ戦艦を視察し、さらに翌年、藩主の参勤交代の供をして江戸に出向した時に出会った幕府海防顧問の佐久間象山の教えを受けるうちにこれまで学んできた和風兵学の脆弱さと無力さを知り、山鹿・長沼兵学を捨て西洋兵学を学ぶ意思を固めた。その直後の寛永4年(1851年)12月には脱藩した上で翌年4月に至るまでの約5か月間の東北遊学を行い、日本の海岸線が海外勢力からの侵略に対してまったく無防備であること知り、さらに危機意識を高め、江戸に戻ると脱藩の罪で地位と家禄を剥奪され、長州に戻され、実家の杉家預かりとなるが、翌年、罪が許され、藩より諸国遊学の許可が出ると、再び江戸に戻り、佐久間象山から得た長崎にロシア船が停泊するという情報をもとに、ロシア船に乗り込んで海外渡航し、西欧列強の実情を把握しようと企てた。しかし、長崎に着いた時にはロシア船はすでに出航しており、乗り込みは失敗したため、今度は静岡の下田に停泊中のペリーの米艦隊に乗り込みを試みたが、断られ失敗し、その行為を自首した松陰は長州の野山獄へ送られ、その後3年以上の獄中生活を過ごすこととなった。西洋兵学を知り、水戸で会った会澤正志斎らから国体思想を学び、幕府に尊王攘夷政策を採ることを要求してきた松陰だったが、獄中生活のさなか、浄土真宗の僧侶で国学者だった黙霖との文通論争の中、佐幕思想を捨て、討幕思想に傾斜した松陰は、出所後に日米修好通商条約を結んだ幕府を打倒するための老中暗殺計画を立案し、それが漏れて江戸の石川藩の牢獄に入れらた上、安政6年(1859年)斬首刑となり29歳の短い命を閉じた。しかし、松陰の刑死の反響はあまりにも大きく、それが5年後の禁門の変から大政奉還に至る激動の4年間の火付け役になったのである。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm38795198