【神道シリーズ・シーズン2】第33回・天狗党の乱と水戸学の崩壊

【神道シリーズ・シーズン2】第33回・天狗党の乱と水戸学の崩壊

義公斉昭や藤田東湖亡き後の水戸藩では、彼らの思想を受け継いだ急進派を抑える者がいなくなり、天狗党と言われた彼らは、万延元年1860年の桜田門外の変における大老井伊直弼暗殺や、文久2年1862年の坂下門外の変による老中安藤政信襲撃など、過激な尊王攘夷派として暴走する者が増えて行った。一方、尊皇攘夷急進派に藩の主導権を取られた長州藩や土佐藩では、天皇のいる京へ進出し、頻繁なテロ行為などにより攘夷派の勢いを増し、三条実朝や姉小路公知などを尊王攘夷派に傾かせ、公武合体派の幕府や薩摩・会津らと激しく対立を続けていた。しかし、文久3年1863年の8月18日の政変という孝明天皇によるクーデターにより、攘夷派の公家たちや長州勢力は追い出され、一旦勢いを増していた尊王攘夷派は公武合体派に押し返されることとなった。その間、水戸藩における急進派天狗党は、横浜港の鎖港問題において強力に鎖港の実行を幕府や朝廷に求めるため翌年の元治元年1864年の3月に藤田東湖の四男の小四郎が筑波山で挙兵し、日光東照宮を目指していた。同年6月に京の池田屋で宮部鼎蔵や吉田 稔麿ら多くの長州藩士たちが会津藩管轄下の新選組によって殺害されると、長州藩では攘夷急進派の来島又兵衛や久坂玄瑞らは長州藩兵2千人を連れて報復の為に上京し、武力で京都御所の奪還を試み、結果、壊滅的な打撃を受けて敗退するという、所謂禁門の変が勃発する。その頃、関東では、筑波で挙兵した藤田小四郎や武田耕雲斎らの天狗党は、水戸藩を中心とした尊皇攘夷政治を目指し、そのトップに徳川慶喜を添えるという計画で、幕府率いる大発勢と激戦を続けた上敗退したが、その間、軍資金が底を突くたびに各地で略奪や放火・殺人を繰り返し、関東での敗北が決定的となると、同年の11月からは慶喜のいる京を目指し、幕府軍の追討を避けながらの迂回コースで中部日本の山岳地帯を駆け抜け、12月には加賀まで到達するが、皮肉な事にじぶんたちが持ち上げた徳川慶喜自身の率いる幕府追討軍により追い詰められ、とうとう加賀の地で降伏することとなった。降伏し捕らえられた天狗党員828名のうち、352名が斬首となり、これでこの年1864年には水戸の天狗党も長州の尊皇攘夷急進派も壊滅的な打撃をうけることとなった。しかし、この後の3年間のうちに事態は急変を続け、わずか3年間のうちに尊王攘夷派は奇跡の大逆転を続け、慶応三年(1867年)10月24日には将軍徳川慶喜による大政奉還が行われ、さらに同年の12月9日には新政府による王政復古の大号令が出され、新政府構想の中から慶喜が外され、さらに徳川からの領地没収の令も出されたため、新政府に不満をもつ旧幕臣たちはその後1年半に渡る戊辰戦争を起こすことなったのである。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm38832723