「キャンセルされた歴史を取り戻す」満洲事変と満州国建国 1

「キャンセルされた歴史を取り戻す」満洲事変と満州国建国 1

 「なかった南京事件1」    https://nico.ms/sm39091675 草加市一杯会【手奇塾】 - ニコニコ (nicovideo.jp) 4回に分けて満州事変と満州国についてお話しします。また、深刻な不景気に見舞われた日本では、国内だけでは景気を回復できそうになかったので、満州は日本の生命線だと言って、広大な満州を占領・開拓することで日本を豊かにしようと考えたのですと教えています。 これでは日本は無法者国家ですね。世界恐慌が1929年に始まり、日本は、世界恐慌と、1931(昭和6)年の冷害による大凶作で、東北北海道の農民には、明日食べるものもろくにないという人々がいました。この時東北6県の知事は、冷害対策を岡田啓介首相や関係大臣に支援を懇請しています。今回の武漢コロナでも各種補助金が支出されたのと同じです。それでも農家の子供が栄養失調になったり、若い娘さんの身売りが多くありました。昭和初期の満州には、すでに20万人以上の日本人が住んでいました。その保護と、関東州および日露戦争に勝利し、ロシアから受け継いだ満鉄を警備するため、1万人の陸軍部隊(関東軍)が駐屯していました。関東州とは、遼東半島の南部で満州ではありません。日露戦争後日本が清から租借した土地です。そもそも満洲にいた満州人が、ジュシェン族、後にマンジュ族と改めましたが、シナに進出し、清帝国をつくりました。 満州とは、清帝国を建国した満州人の故郷の土地です。ですから満州人にとっては、とても神聖な土地で、清の時代は、厳しい移民法令を定めて、漢民族の満州への立ち入りを、小作人以外禁止していました。無断で立ち入ると死刑でした。さらに満州人と漢人の婚姻を禁止し、最後の皇帝溥儀が退位する数年前までこの禁制は続いていました。  1912(明治45)年、辛亥革命が起こり、満州人の支配を打ち破りました。清朝の最後の皇帝溥儀は、支那共和国と協定を結んでから退位しました。協定とは、故郷である満州を西洋でいう「王領」、つまり「封禁の地」とし、そうした清国の権利を明記し、確認した退位協定が中国の根本法となったのです。しかし、中国人は、この協定を守りませんでした。国際仲裁裁判所の決定を紙屑という人たちです。つまり協定を守ると満州人の満州支配を認めることになります。辛亥革命のときの漢人による満州人の虐殺行為は、1週間続いたといわれています。 満州事変後の満州建国を一番喜んだのが満洲に逃れてきた満州人と言われています。自分たちの国ができたのです。 これはイスラエルがやはり自分たちの国ができたことを喜んだのと一緒です。あるいは、アメリカが、フランスの援助で独立したのと同じです。

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