【原曲メドレー】西狩獲麟

【原曲メドレー】西狩獲麟

僕はこれを最後のメドレーにしようと思う。でも、本当に最後かどうかは自分にも確信がない。何せ意志薄弱なのだから次にいつ制作の気が向いてしまうのかも解らないし、そうでなくともある程度触手を伸ばして合作等々のイベントがあれば、空気を読める程度に留めて参加する所存である。ともなれば最後なんて嘘吐きじゃないかという言葉が飛んできそうだがそうではない。胸懐の区切りが縁の区切りと判断したまでである。これは直接の原因ではなくあくまで退路を進む途中の出来事なのだが、例えばこんなことがあった。僕はつい先日、1000曲にも及ぶアニソンサビメドレー(無論、ここで言うメドレーとは「ニコニコメドレーシリーズ」に準ずるものではなく、単に作業用BGMを表すものだ)を投稿した( sm40425939 )。するとそこには、駆け抜けるアニソンメドレーシリーズに対する言及があった。僕はこれに強烈な違和感を覚えずにはいられず、どこに矛先を向けたらいいのか解らない焦燥に駆られた。確かに僕は本家の駆け抜けるアニソンメドレーをさんざ憧憬の対象としてきた。今まで僕が制作してきた全てのメドレーにおいて構成をなぞらなければ気持ちが悪かったほどだ。けれど、そのコメントがあったのは駆け抜けるメドレーどころか、ニコニコメドレーシリーズですらない動画なんだ。僕は駆け抜けるアニソンメドレー以前にアニソンを、楽曲を、作品を愛している。ニコニコメドレーという媒体を通じなくたっていくらでも愛せるんだ。だからもうニコニコメドレーの檻に囚われるのはたくさんだ、そう思った。当たり前だがニコニコメドレーを悪く言うわけではない。楽曲を繋ぎ合わせ、重ね、キャンバスに彩るようにすば新しいモノとして昇華するし、既存品をアレンジするのは日本人の得意技だ。どのようなものが投稿され、批評されようとそう簡単に文句をつけるものではない。だが、僕の愛する心は決してニコニコメドレーと混然一体になっているものではなく、それぞれが独立した重さを持ってエンターテインメントの名の下に置かれている。僕は考え抜いた末それを確かめるために一度身を引いて清め、まっさらになるべきだと判断した。この"最後のメドレー"のタイトルである「西狩獲麟」にはそういった思いが込められている。中国古代の乱世、西の方で奇妙な生物が捕獲され、あまりにも不気味な見た目だったため人々は恐れ慄いた。偶然それを目にする機会があった孔子が不気味な生物のもとに赴くと、その正体は聖獣である麒麟であった。本来太平の世に現れるはずの麒麟が乱世に現れ、しかも不気味がられている。このことにやるせなさを感じた孔子は、自身が書き上げてきた膨大な歴史書『春秋』をこの話を最後に打ち切ったという。違和感を覚えたのなら一度筆を置かなければならない――、これが僕の辿り着いた答えだ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm40441757