【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第18回・島地黙雷と黙雷の時代

【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第18回・島地黙雷と黙雷の時代

長州藩が14万5千の幕府軍から第二次長州征伐の攻撃を受けていた時、勤王派を支持していた西本願寺に属していた青年島地黙雷ら真宗僧侶たちは金剛隊という僧侶部隊を結成し、長州藩士たちと戦い、その中で後に明治政府の中心になる木戸孝允や伊藤博文、井上馨、山形有朋、江藤新平など多数の重要人物たちとの信頼関係を築き、この人脈が明治5年から10年にかけての黙雷の時代を形成することになったのである。新政府発足以来、平田国学派に押された新政府は、神仏混淆禁止令発令後、各地で激しい廃仏毀釈の嵐が吹き荒れると、その嵐は東海北陸の浄土真宗の影響力が強かった地域にも及び、明治3年頃からは北陸や東海を中心に真宗門徒農民による大規模な蜂起や騒動が勃発し、さらに、朝廷との血縁関係も含めた東西本願寺の繋がりを憂慮し、政府は、「朝廷からの命令」という建前で神仏分離政策を進めていただけに、それが朝廷自身によって否定されてしまうと神仏分離政策自体がとん挫してしまう可能性があることと、真宗門徒たちによる反撃も大規模に発展すると国内統一どころか内戦に発展する危険性もあっただけに、真宗側との調整役を政府は求めていた。幕末以来長州の勤王派と繋がりのあった黙雷は、神祇省の廃止と、国民教化のための教部省の設立を建白し、結局、政府は黙雷の意見を取り入れ、教部省を設立し、同時に大教宣布運動を推進する大教院・中教院・小教院を設置し、国民全体の何を教えるのか不明な教化運動が展開されることとなった。明治政府が当初目指していた、平田国学派が主張する祭政一致の天皇を中心とする神道国家路線は、真宗門徒たちの反撃により頓挫し、今度は真宗側からの提案で始めた神儒仏共同の国民教化運動も、実質、民間に深く広く浸透していた浄土真宗の布教活動となり、国学派は反発し、西郷隆盛を中心とする薩摩閥の力を借り、大教院の執行部を乗っ取り、仏教勢力に祝詞の拝礼などを強制するに至り、真宗の脱退を招き、結果、教部省自体が廃されることとなり、黙雷の時代も終焉することとなった。さらに明治13年には、政府と国学派が対立し、教部省を継いだ神道事務局内で伊勢派と出雲派の対立から政府は平田派全体を政府から排除し、逆に平田派を政府や公安の監視対象としてしまった。もともとキリスト教に敵意を抱き、キリスト教に対抗する為に仏教と平田神道との大同団結を訴えた黙雷ではあったが、結果、しょせん水と油は交わらず、政府は両者と距離を置き、大國隆正の唱えた祭政分離の国家神道の道を歩むことになったのである。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm40602642