黄巾の乱、鎮圧

黄巾の乱、鎮圧

西暦184年8月後漢政府にて2ヶ月経っても宛城を落とせない朱儁を洛陽に呼び戻すべきであるとの意見が出始めた。それに対し大司農張温が「秦の白起や燕の楽毅は敵に打ち勝つまで何年もかかった」と答え、霊帝も同調した。この出来事がきっかけで何者かが朱の更迭を進言しているとの噂が朱の耳に入る。これにより朱は攻勢を強め趙弘の殺害に成功する。これを受け黄巾軍は韓忠を指揮官に据え籠城を続けた。しかし、朱に就いていた孫堅自ら先頭に立って城壁を登り指揮を執る等して勝利を収めた。韓は朱に降伏を願い出たが、朱はこれを拒否した。包囲を緩めた隙に韓は逃亡し数十km北上したが、10,000名の黄巾軍の兵が殺害され、韓も秦頡によって斬首された。これを受け黄巾軍は孫夏を指揮官に据えた。宇宙一元化 公式HP http://universe-centralization.com/top.html

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