第二次上田合戦と徳川秀忠の遅参

第二次上田合戦と徳川秀忠の遅参

西暦1,600年10月12日徳川秀忠の軍が上田城を一望出来る染屋城に本陣を置き、上田城攻めを開始する。先ず牧野康成・康成の長男牧野忠成が刈田を行い、真田勢を挑発した。対する真田昌幸は鉄砲隊を出撃させるが、徳川勢の反撃によって一旦退却した。しかし徳川軍が城際まで迫ったタイミングで、城から弓等で反撃を行ない撃退した。その後昌幸と真田信繁が徳川軍の目前に偵察に現れて挑発し、それに乗った徳川勢は昌幸を討とうと先陣が神川を渡り、真田勢と激突した。大久保忠隣・酒井家次・本多正信等の軍が援軍に出たが、昌幸は上流で塞き止めていた神川の水を開放し、城に配置していた兵も動かして反撃に出た為徳川勢は混乱した。しかも戸石城近くの虚空蔵山に配置していた兵に徳川の本陣を急襲させた為、徳川勢は混乱の中で小諸城まで撤退を余儀なくされ、多くが増水した神川で溺死した。宇宙一元化 公式HP http://universe-centralization.com/top.html

http://www.nicovideo.jp/watch/sm41314954