戦闘中、川の水と粉砕機でパンを製造

戦闘中、川の水と粉砕機でパンを製造

≈西暦633年5月15日ワラジャでの戦闘で敗れたササン朝ペルシア軍の残党が、ユーフラテス川の支流ハシーフ川を渡り、ユーフラテス川の間を移動しながらウライ(現在のイラクのアルカディシーヤ県)に落ち延びた。ムスリムはウライにササン朝ペルシア軍の残党がいる事を認識していたが、数が少なく問題視していなかった。しかし、アル・ヒラとウライの間にいた、ワラジャの戦いで2名の息子を殺害されたアブドゥル・アスワド率いるキリスト教系アラブ部族であるバニ・バクル族が大軍で合流した事で、ハーリド・イブン・アル・ワリードはハシーフ川を渡り、ウライに正面から接近した。アスワドはムスリムへの復讐を考えていた。ヤズデギルド3世はバフマン・ジャドヤにアラブの部隊を指揮しウライでムスリムの侵攻を止める様指示した。ジャドヤは、上級将軍ジャバンにササン朝ペルシア軍を率いさせてウライに向けて先行させ、自身が到着する迄戦闘を避ける様指示した。ジャバンは出陣したものの、ヤズデギルド3世と、ある問題について話し合う為にクテシフォンに戻った。しかしヤズデギルド3世が重病である事を知り、看病を行う事になった。ササン朝ペルシア軍はムスリムの目的はアル・ヒラを占領する事であると読んでいた。ムスリムの司令官の一人アル・ムタンナ・イブン・ハリサが軽騎兵の斥候と共にウライへ進軍し、ワリードにササン朝ペルシア軍の居場所を知らせた。ワリードは自軍を大きく上回る軍勢との戦闘を避ける為に援軍が到着する前に、ウライに到着しようとしたが失敗した。ワリードはササン朝ペルシア軍が作戦を練る前に戦闘を開始する事を計画し、当日中に襲撃した。ワリードは以下2名に両翼を任せ、軍陣を整列させた。①左翼:ウマル・イブン・ハッターブの息子アシム・イブン・ウマル②右翼:ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフの仲間であったアラブ人キリスト教指導者ハティム・アット・タイの息子で元キリシタンのアディ・イブン・ハティム昼前、ジャバンがムスリム侵攻の報告を受けた。ササン朝ペルシア軍はそれを受け、食事の時間であったがムスリムに対し強靱さを示す為に、食事を摂らずに軍の編成を行った。中央にササン朝ペルシア軍、両翼を以下2名のアラブ人キリスト教徒に任せた。①左翼:部族長アブジャル②右翼:部族長アブドゥル・アスワドしかしアスワドは決闘でワリードに敗れ殺害された。宇宙一元化 公式HP http://universe-centralization.com/top.html

http://www.nicovideo.jp/watch/sm41768991