【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第83回:野望の果て】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第83回:野望の果て】

果ては殺戮、果ては冷たき星、全ては源氏の天下のため・・ッ!清和源氏を祖とし、武士の棟梁と称される河内源氏。その第六代目棟梁:源義朝。後に平氏と戦いを繰り広げる源頼朝や源義経といった次代の英傑達の父である。幼少期・少年期は現在の千葉県周辺で過ごす。成長後は関東圏における武士団(坂東武者)を統率して名を馳せた。(これにより源氏は東日本を中心に拠点基盤を形成することとなる)その活躍ぶりは京にも届いたことが義朝の京進出に繋がり院近臣の家系である由良御前を妻としたことで影響力を急激に高めていった。そんな時に発生したのが皇族を含めた朝廷内の権力争いを発端とした保元の乱である。後白河天皇と崇徳上皇を担いだ貴族たちの代理戦争を担うこととなった義朝は後白河天皇側に付き崇徳上皇側に付いた父:為義や、弟:為朝と争うこととなるが、平清盛らと協力してこれに勝利。戦功を元に上皇側に付いた父や弟たちの助命嘆願を申し出るがその多くは処刑されてしまった。上記の遺恨は当然義朝の心に残り、さらには恩賞の差、伊勢平氏との格差、それらの不満が積み重なっていった。さらに時が経ち、後白河天皇が上皇となったのち再度朝廷内の派閥争いから平治の乱が発生。後白河上皇が寵愛する僧侶「信西」と、それまで朝廷で絶大な権威を誇った「藤原信頼」の派閥争いであり平清盛は信西側へ付いたが、後白河上皇へ上記の恨みがあったとされる義朝は藤原信頼側に付いた。義朝は清盛の留守を狙って後白河上皇/二条天皇を軟禁。さらには信西を攻めて自害に追い込んだがこのクーデター行為の知らせを聞いた清盛はすぐに軍勢を編成して京に戻ることとなった。義朝のこの行動は隠密裏に少数で決起したものであり、軍と呼べるものではなかった。(国家レベルの動員を行ったものではなく一族衆や自身近臣のものだけで構成されたものだった)さらには軟禁していた後白河上皇/二条天皇が脱出してしまった為に一気に窮地に立たされ、信頼一派はすぐに鎮圧されてしまう。義朝は鎌田政清の家人宅へ逃げ延びたが、恩賞目当てに裏切られ殺害されたという。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

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