【神道シリーズ・シーズン3】第48回・植芝盛平の生涯【前編】

【神道シリーズ・シーズン3】第48回・植芝盛平の生涯【前編】

植芝盛平は、1883年(明治16年)12月14日、和歌山県西牟婁郡西ノ谷村(のちの田辺市)の富裕な農家・植芝家の長男(姉3人・妹1人)として生まれた。父・与六の家系は相生流という柔術の流儀を継ぎ、母のゆきは甲斐甲斐武田氏の血筋で明治中期以の開設した撃剣道の創始者・糸川軍太を同族に持つと言う、両方とも武芸をたしなむ家の血筋に盛平は生まれている。しかし、幼少時の盛平は病弱で内向的な読書好きの少年で、寺の学問所で四書五経を習う一方、数学や物理の実験に熱中するが、これを危ぶんだ父与六は、近所の漁師の子供と相撲を取らせるなどして、盛平の体力と覇気を養うよう努めた。生来負けず嫌いの気性もあり、やがて盛んに海に潜ってはモリ突きを楽しむなど活発で外向的な少年に育っていったが、14~5歳までは華奢な痩身であった。盛平は珠算では天才的な才能を示したが学校にはなじめず、13歳で中学校を中退し、特技の珠算を生かして税務署に努める事となった。しかし、正義感から地元の漁業法改悪反対運動に参加したためにそれが元で税務署を退職することとなり、19歳になると父親から援助で上京した東京で文房具卸売業「植芝商会」を設立し、事業は成功を収めるものの、体調を崩し一年足らずで会社を畳んで田辺に帰郷し、2歳上で幼馴染の姻戚・糸川はつと結婚した。20歳になると軍人を目指して徴兵検査を受けるが身長が2センチ足りず失格するが、日露戦争勃発の機運が高まる中、再度徴兵検査を受けて合格し、 また、同時期に堺の柳生心眼流柔術・中井正勝に入門し、行軍演習や銃剣術の訓練において目覚しい活躍を見せ、仲間から「兵隊の神様」と持て囃された。1905年(明治38年)22歳になると、伍長に昇進し、盛平は直訴により日露戦争の戦地の転出を希望し、戦地に派遣されたものの、戦争は終結に向かっており、戦場に現れることはなかった。23歳で軍曹に昇進し、職業軍人としての道を目指すが、父与吉の反対により断念し、田辺に帰郷した。1912年(明治45年/大正元年)29歳になると、政府の北海道開拓団体募集に応じ、農家・漁民の次三男を主とする54戸80余名の「紀州団体」長として紋別郡上湧別村白滝原野に移住し、北海道開拓に精を出すが、その時期に、大東流合気柔術の師範・武田惣角に出会い、すぐさま惣角に弟子入りし、自宅を道場として惣角を迎え入れ、地元の若者を集めて道場は活況を呈するが、盛平は約5年間、惣角から大東流武術を学ぶこととなった。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm41872536