【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第112回:俊英の用兵】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第112回:俊英の用兵】

ボク、用兵にはちょっと自信があるんです!松下村塾塾生:山田顕義。松下村塾には塾生最年少である14歳で参加。(英傑大戦でのイメージは、松下村塾最年少であることを強く推したデザインとなっている)長州藩士の子として生まれた武士(上士と下士の間程度の家柄)であり兵学者:山田亦介(吉田松陰の兵学の師)の甥にあたる。しかしながら幼少期は「性質愚鈍、垂鼻頑獣(はなたれだるま)、ほとんど白痴の如し」とそこまで言わなくてもいいだろ級の罵倒評価を受けていた。そこから勉学(特に大村益次郎から西洋兵学)を徹底的に学び第二次長州征討からその才覚を発揮。幕府軍をメッタクソのボッコボコにせしめる用兵を見せた。続く戊辰戦争ではその辣腕を発揮して旧幕府軍に対して連戦連勝を上げる。その見事な指揮から西郷隆盛をして「用兵の天才」「神の如き用兵の妙」「小ナポレオン」と絶賛されるほどだったという。明治政府樹立後は師:大村益次郎の補佐として軍事監督役を務め益次郎が無くなった後は軍事幹部として日本国軍の基礎作りを担い日本陸軍の父と称された。その後、岩倉使節団の一員として欧米視察を行ったことで司法の重要性に着目。(小ナポレオンと称された因果か、ナポレオン法典を知ったことがきっかけであったとされる)帰国後は民法・商法・民事訴訟法などの法律整備に尽力した。46歳の時、病気療養を理由に司法大臣を辞任。その後47歳の時に倒れ、帰らぬ人となった。「生きた、闘った、使命を全うした、人生に悔いはない」明治維新を成し遂げた用兵の天才:山田顕義が、維新後よく話した口癖である。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42154679