【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第59回・生長の家の分裂

【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第59回・生長の家の分裂

戦前は、昭和5年の結成以来ずっと一枚岩だった生長の家は、戦後になると全国で左翼学生運動が燃え上がった1960年代以降、新興宗教界でも既成仏教界でも宗教を否定するこうした左翼運動の拡散に危機感を抱き、保守勢力が大同団結を求められる中、教団内でもこうした保守運動に積極的に参加して行こうという反主流派と、あくまで信仰活動を中心に進める本部派主流派の間で大きな亀裂が入り、内部対立と教団分裂のうねりは次第に高まって行った。1960年には谷口雅春総裁を中心に生長の家青年会とそれを母体とした学生組織、生長の家学徒連盟、所謂、生学連が形成され、これは全国の左翼学生運動に対抗する意味で活動を始め、1966年には教団に所属する長崎大学の2名の学生、安藤巌と椛島有三が中心となり、全国の右派系学生の横断組織、全国学協を立ち上げ、さらには1970年には椛島がその全国学協の中から左翼学生と戦う組織、日本青年協議会を立ち上げた。そして、この動きは、全国学協の後裔組織として、より過激な反憲学連が形成されたが、これは、戦後の連合国主導の政策に反対するヤルタ・ポツダム体制打倒を目指すと同時に、かねてからの谷口雅春の大日本帝国憲法の復活を目指すものとして設立された。しかし、こうした日本の右派学生運動を組織した生長の家の青年たちは、やがて、日本の保守政治を大きく動かす方向に動いて行く。この反憲学連が結成された1974年には、谷口雅春らが中心となり、曹洞宗、臨済宗、統一教会、日蓮宗などの宗教保守勢力を集めて「日本を守る会」が結成され、さらには、1881年には当時参議院議員であった生長の家信者の村上正邦らが中心となり、「日本を守る国民会議」が結成された。しかし、このような生長の家の保守的傾斜も、1983年になると、優生保護法廃止に消極的な自民党に失望した谷口雅春は政策を急転換し、生長の家政治連盟や生学連を解散させ、本来の信仰中心の教団運営の方へシフトし、この流れは、1985年の谷口雅春の死を境に主流派と反主流派の決定的な決裂へと進み、2002年には「谷口雅春先生に学ぶ会」と「ときみつる会」という二つの会派が分離独立した。その後、2008年以降第三代総裁に就任した谷口雅宣は、教団の一切の政治的かかわりを断ち、環境問題やヴィーガニズムや反原発などの環境左派としての教団活動へと舵を取って行ったのである。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42241694