【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第61回・儒教招魂社・靖国神社その①

【神道シリーズ・シーズン3】(戦後編)第61回・儒教招魂社・靖国神社その①

靖国神社のルーツを辿ると、江戸初期の水戸藩主・徳川光圀が唱える南朝正統論の中で、特に天皇の為に命を尽くして戦死した楠本正成を崇敬し、現在の神戸市中央区の湊川神社のルーツとなる楠木正成の招魂墓碑を建てたが、この水戸藩に伝わる楠木正成崇拝は、江戸中期以降、倒幕を目指す勤王の志士たちの間に広まり、幕末になると、この水戸藩の藩士たちと接触のあった長州藩士たちが下関戦争で戦死した長州藩士たちを下関桜山に招魂場を作り、儒教式で戦没者たちを祀ったところから始まる。この動きは、慶応4年1968年に新政府が京都東山に幕末の勤王の志士たちの戦死者たちを祀った霊山官祭招魂社を創建し、この儒教的な招魂思想は明治2年1869年の東京招魂社の創建に繋がり、さらにこの儒教的招魂社が明治12年1879年に靖国神社と改称され、儒教的招魂社でありながら神社の体裁を整えて行くこととなる。招魂とは、亡くなった人の魂を呼び寄せることで、儒教では、魂は不滅のものだり、死後もこの世に存在すると信じられていた為、招魂の儀式は行われていた。儀式では、故人の墓の前で食べ物や飲物、香などを供え、亡くなった人の冥界での幸せを祈った。招魂の儀式は、故人の魂を慰め、冥界で幸せに暮らせるようにするために行われるが、同時に、生きてる者たちの心を慰める意味もあった。故に、靖国神社の前身である東京招魂社の時代には、戦没者たちは忠魂霊と呼ばれ、天皇の為に戦争で戦い、その忠誠の下で戦死した忠臣たちの霊魂を招魂し、天皇が参拝して慰霊する、という形が採られていた。しかし、明治12年になり、靖国神社と改称され、神社の形式を採るようになると、儒教的な招魂思想はそのままで、外観や祭祀の在り方だけを変え、やがて、明治37年1904年の日露戦争の頃になると、それまで忠魂霊と呼ばれていた戦没者たちは英霊と呼ばれるようになった。この英霊という言葉は、水戸の儒学者・藤田東湖の中国宋代の忠臣文天祥(ぶんてんしょう)の詩から引用した英霊という言葉から来ており、やはり、儒教の思想がその底辺にあった。そして、やがて靖国神社は、このように儒教的な招魂思想に神社という衣をかぶり、日清日露戦争、第一次大戦と進むにつれ、戦没者の数が急増する中、大きな発展を遂げることとなったのである。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42335032