【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第137回:牢固の戒告】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第137回:牢固の戒告】

我が策の一端を、お見せしようぞ!!許攸・沮授と並ぶ袁紹軍参謀の一人:田豊。字は元皓。若き頃から学問を重んじており、その博学ぶりから後漢の侍御史(監察官)に任ぜられる。しかし、後漢の腐敗を目の当たりにした田豊は間もなく任を辞した。田豊の才を聞きつけた袁紹は、彼を強く勧誘して他主から引き抜く形で召し抱えた。そして時が流れ、反董卓連合時は味方であった公孫瓚と袁紹が敵対。田豊の外交戦略と軍事戦略によって徐々に戦力を削がれた公孫瓚は袁紹軍に攻め滅ぼされた。だが、対曹操軍となる中原北部の覇者を決める決戦「官渡の戦い」前後で袁紹に陰りが出始める。この戦いでの両軍の対峙の最中、劉備軍を押さえるために曹操が一時離脱した為田豊はこれを好機に攻めるべきと進言するが、袁紹は子の病気を理由に断った。勝機をみすみす逃すことになったことに田豊は激しく怒り、杖を叩き割って怒ったという。(この「怒りのあまり杖を折った」逸話が、イラストの田豊が杖を持っている理由である)劉備軍を征伐した曹操が陣営に戻ってきた為に、田豊は戦法を変えて持久戦を進言。「戦力/勢力の差を利用して周辺有力者を取り込んで曹操の力を削ぎ、戦わずして勝つべきだ」と。しかしこれも聞き入れられなかった為に田豊は諫言を行うが、これに怒った袁紹は田豊を投獄。結果、勝利を急いだ袁紹軍が曹操軍にしてやられてしまうのは歴史の通りである。俄然有利な戦いで敗走する憂き目にあった袁紹に対して、元から田豊と不仲であった逢紀が讒言を行った。「田豊は、閣下が敗走したことを知り、ほれ見たことかと獄中で手を叩いて大喜びしています」と。これを聞いて怒った袁紹は田豊の処刑を命令するが、田豊は既に獄中で自殺していた。官渡決戦で田豊の献策を聞き入れずに曹操軍を壊滅/滅亡させることが出来なかったことが原因で袁家はそれから7年後、曹操軍によって滅亡に追い込まれることとなった。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42495299