闘う悲劇の美少女・中野竹子と楠公精神 〜会津戦争・福島県会津若松市・大河ドラマ「八重の桜」もう1人のヒロイン〜

闘う悲劇の美少女・中野竹子と楠公精神 〜会津戦争・福島県会津若松市・大河ドラマ「八重の桜」もう1人のヒロイン〜

大河ドラマ「八重の桜」で、山本八重(後の新島八重)が取り上げられてからは、八重さんの方ばかりが有名になり忘れられがちだが、「八重の桜」放送以前は、どちらかといえば中野竹子の方がよく知られていた。 中野竹子は、江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩藩邸で生まれ、僅か5歳で百人一首を全て暗唱し、幼少期からその聡明さはずば抜けていたという。また、薙刀や書道の腕前も一流で、薙刀では道場の師範代を、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を務め、文武両道に非常に優れた才能を発揮した。 慶応4(1868)年8月23日、十六橋、戸ノ口等、会津藩の要衝を破り、若松城下に新政府軍が攻め寄せた。そこで、竹子たちは同じ道場の薙刀の稽古仲間の女性達に呼び掛け、娘子隊(あるいは婦女隊)と呼ばれる女性だけで編成する義勇軍を結成した。来るべき戦闘にむけて髪を短く切り、女子用の袴を履き、男装に準じた姿となった。娘士隊に入隊しなかった八重に対して、竹子は「あなたはなぜ、娘子隊に入らないの⁉︎」と激しく非難したという。8月25日夕方、娘子隊は、現在の福島県松岡市神指町大字黒川にかかる柳橋(涙橋)に於いて、新政府軍と遭遇し、戦闘となった。武勇に秀でた中野竹子は何人かの兵を薙刀で斬り殺し善戦したが、敵の放った銃弾が彼女の額に命中してしまう。頭を撃たれた(胸を撃たれたとも)竹子は、まだ息があり、自身の首を取られないようにと、母のこう子(当時まだ16歳だった妹・優子であったとも)に介錯を頼む。落とされた首級は、法界寺の梅の木の根元に埋葬された。竹子が死の間際まで握っていた薙刀の柄には、次の辞世が書かれた短冊が括り付けられていた。  〜もののふの 猛き心にくらぶれば        数にも入らぬ 我が身ながらも〜この辞世は、楠木正成の嫡男・楠木正行が、四條畷の戦いに向かう直前に、吉野皇居の後村上天皇に拝謁すべく吉野に立ち寄った際、後醍醐天皇御陵のある如意輪寺本堂に髻を切って収め、その扉に刻んだ辞世〜かへらじと かねて思へば 梓弓    なき数に入る 名をぞとどむる〜の「なき数に入る」をなぞらえ「数にも入らぬ」と詠んだものと思われる。実際、正行らが髻を切ったと同じように、竹子らも従軍が正式に決定された際、髪を切っており、この行為もまた、四條畷に向かう正行に倣ったものと思われる。会津藩では、楠公父子の桜井の訣別にみる「忠孝両全」の精神を藩士らに手本として教えていた事が今回の現地調査で判明したので、竹子もまた、楠公父子について詳しく知っていたのは当然の事である。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42683164