「悋気の火の玉」 五代目 三遊亭圓楽

「悋気の火の玉」 五代目 三遊亭圓楽

「悋気の火の玉」浅草の花川戸の立花屋という鼻緒問屋の旦那はいたって堅物。ある時仲間の寄り合いの流れで吉原に誘われた。一度遊んでみるとすっかり味をしめ、吉原に日参するようになる。そこは商売人のこと、そろばんをはじくとこれでは身代がもたないと分かり花魁を身請けして根岸の里の妾宅に囲った。原話は天保3年(1833年)に出版された桜川慈悲成の笑話本『延命養談数』の一編「火の玉」。安永ごろ、吉原遊廓の上総屋の主・逸磨の妻と妾の間に起きた騒動が、この物語の源泉だといわれている。五代目 三遊亭 圓楽1933年1月3日東京生まれ、六代目三遊亭圓生に入門上野鈴本演芸場で落語を見て「戦争ですべてを奪われ暗い顔をした人々にこうやって笑いを起こさせることができる落語はすごい」と落語家になることを決意した。落語家になって数年経っても「噺は上手いが圓生の真似だ」と言われ圓楽自身も悩みストレスで一時は体重が48kgになったり自殺未遂をしかけるほどだった。しかし母親から「お前は名人だよ」と言葉をかけられ自分にはこんなに気遣ってくれる人がいるのだという思いで、なんとかスランプを脱出。後にそれをネタにして若き日の自己のキャッチフレーズを「名人圓楽」とするが師匠などから「若手の分際で名人とは生意気だ」と怒られキャッチフレーズを「星の王子さま」に変更した。一時期は事実上テレビ専業の「落語家タレント」であった一方でレギュラーは多くバラエティ、ドラマと何でもこなした。「落語界・寄席でタブーとされることを全部やってやる」「寄席の価値観の逆をやる」という戦略をとり瞬く間にスターとなった。例えば「キザ」という価値観は寄席では排除されるものだが圓楽はあえてキザであり続けた7代目立川談志、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝休業後は8代目橘家圓蔵)とともに「東京落語四天王」と呼ばれたMusic:BGMer  http://bgmer.net

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