【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第169回:無心の強襲「姉川の戦い 織田・徳川軍」】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第169回:無心の強襲「姉川の戦い 織田・徳川軍」】

いざ、尋常に勝負せん!徳川十六神将・徳川四天王・徳川三傑、その全てに名を連ねる徳川家康の忠臣:榊原康政同じく徳川四天王と称された酒井忠次。その酒井家に仕えていた榊原家に生まれた。桶狭間の戦い前後、13歳の時に松平元康(家康)の小姓へと抜擢され元康から一字拝領して「康政」を名乗り、榊原家の家督を継ぐ。(康政は次男であったが、出世を期待されて本来の嫡男格[長男]を差し置いての家督相続だった)榊原康政の名を天下に轟かせたのは彼が22歳の時。織田徳川と浅井朝倉の命運を分かつこととなった決戦「姉川の戦い」である。兵力差はほぼ互角(兵力的に織田徳川優位とも浅井朝倉優位とも諸説あり)のこの戦いにて戦線が伸びていた朝倉陣を康政が側面から奇襲。これが織田徳川連合軍勝利の決定打となり朝倉軍が崩れ、その勢いで浅井軍を打ち破った康政は第一功の活躍となった。その後、小牧長久手では秀吉の振る舞いを糾弾する檄文を送りつけ森長可・池田恒興という名だたる将を討ち取る活躍を見せるが関ヶ原の戦いでは秀忠軍の軍監として同行するも真田の機略によって遅参の失態を犯す。この時、全力で秀忠を庇ったことから秀忠は当然として家康からも一層信用され関ヶ原の戦功としてむしろ加増の話が出るが「関ヶ原遅参の責があるのに加増されたら他の家臣に示しが付かない」と受け取りを拒否。康政の忠義ぶりに何かを報いたい家康は代わりに神誓証文と呼ばれる証文を与えた。「徳川家は、未来永劫 榊原家を決して見捨てはしない」という内容である。140年後、徳川吉宗の倹約令に逆らったとして改易の危機に立たされた榊原家。(※第163回 高尾太夫主役回: sm42798984  を参照)改易を免れることが出来たのは、この時の神誓証文が提出されたからである。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42889958