【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第186回:維新の琥号「山崎の戦い 羽柴軍」】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第186回:維新の琥号「山崎の戦い 羽柴軍」】

国の行く末を見通し、私が人々の殿となる!薩摩藩所属、明治維新の立役者「維新三傑」の一人にして明治政府 参議兼内務卿:大久保利通。(※内務卿:内閣制度が設立する前の実質的な内閣総理大臣と同格の存在)維新三傑の一人である西郷隆盛と同じく薩摩藩下級武士の生まれであり藩校にて西郷隆盛らの後の維新志士と共に学び親友・同志となった。中でも大久保の学問の成績は他に抜きん出て聡明な学生であったという。20歳の頃に薩摩藩のお家騒動に巻き込まれて謹慎処分となり貧困生活を余儀なくされるが島津斉彬が藩主になってしばらくすると呼び戻され復職。斉彬は列国に対抗すべく富国強兵を合言葉に有能人材の登用を推し進めておりこれによって西郷・大久保は政務処理にあたる御徒目付に抜擢される。しかし、斉彬の死没によってまたも冷遇を余儀なくされ、次期有力指導者の候補たる島津久光に接近。さらに自身と同じく公武合体派朝廷側の公家:岩倉具視とも接近して「王政復古の大号令」すなわち旧体制の全廃及び新政府の発足を宣言させることに成功。武力倒幕を旨とした大久保は、鳥羽伏見及び戊辰戦争の勝利によって政府内の地位を確立した。以降は版籍奉還・廃藩置県などの政策を推し進め、近代化に向けて諸国視察へと加わった(岩倉使節団)征韓論においては親友:西郷とも意見が分かれた為に、失脚に追い込むこととなり改革において武士特権を剥奪したことから士族反乱の鎮圧を行うこととなるが大久保の最後の士族反乱鎮圧は、西郷隆盛を旗印にした西南戦争となったのは最大の皮肉であった。そして、西南戦争の翌年(1878年)、不平士族による急襲を受けて大久保は暗殺される。最期に馬車で読んでいた手紙は、亡き西郷隆盛から生前送られた手紙だったという。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm43131059