忠臣蔵の討入りの真意は「仇討ち」というだけではなかった!大石内蔵助が先祖代々受け継いだ遺徳

忠臣蔵の討入りの真意は「仇討ち」というだけではなかった!大石内蔵助が先祖代々受け継いだ遺徳

「忠義」なる精神性が失われた昨今にあり、赤穂義士の討入りは単なる敵討ちや仕返しの如く評す声も聞かれます。もちろん、大石内蔵助の事蹟は、そんな短絡的なものではなかったのは当然なのですが、それを決定的に裏付ける史実が大石家発祥地・滋賀県大津市大石の地に残っているのです。実は、大石家の祖・中臣金こそが、かの「大祓詞」を編んだ人物だったのです。かの大化の改新で知られる中臣鎌足の従兄弟にあたる中臣金は、天智天皇の勅命を受け、大石の地を流れる瀬田川の急流(現・佐久奈度神社)にて、大祓詞を奏上、これが大祓詞(現在一般的に伝えられる説)の初見となります。佐久奈度神社の社名は『大祓詞』の中の一節「高山の末 短山の末より 佐久那□太理に落ち多岐つ 速□川の瀨に坐す瀨織津比賣と云ふ神 大海原に持ち出でなむ」(参照→『大祓詞全文奉唱』 https://youtu.be/vyJg-ij9-GA )に由来します。大祓詞とは罪穢れを打ち祓う祝詞である事からもわかるように、禍事を打ち祓う働きがあり、これを司ったのが大石家の祖であった訳です。中臣氏はご存じの通り、大化の改新で蘇我入鹿誅殺に大きな貢献を果たしましたし、大石での大祓奏上は、白村江の戦い直後の当時に、大陸からの凶事を封じる為に為されたもの。当時は何時大陸から日本へ攻め寄せてくるとも分からぬ緊迫した情勢でしたし、攻め寄せてくるならば、海を渡り川を遡って、当時の都・大津京に襲来する事となるわけで、だからこそ、大祓詞は、全ての禍事が大海原に押し放つ、と編んでいるのです。中臣金から時代はくだり、鎌倉時代末期の大石内蔵助の五代祖の代まで、大石家は佐久奈度神社を氏神とし、浄土寺を菩提寺として、この地を領有してきました。そして、大石家の祖である中臣鎌足や中臣金がそうであったように、天皇のもとで、国賊を打ち祓ってきた家の末裔としての天命を、大石内蔵助は充分に悟っていた上でのあの事蹟だったのです。何故ならば、勅使の御馳走人を仰せつかった浅野内匠頭が、その大役を果たすべく苦心したにも関わらず、吉良上野介は、私怨によって浅野内匠頭の邪魔をし、こともあろうに、この重要な国事の任務遂行の妨げを図った、つまり、吉良上野介の仕出かした事とは、単に浅野内匠頭への嫌がらせには留まらず、国事に対して妨害行為を行なったに等しく、大石内蔵助が、かような国賊を放っておけなかったのは、彼に課せられた天命が故に他なりませんでした。主君は切腹、赤穂藩はお取潰しとなった事が、大石内蔵助の中に眠っていたDNAを覚醒させたのでしょう。つまり、忠臣蔵の事蹟とは、浅野内匠頭に対する忠義に留まらず、それは、国家、國體への忠義であった訳です。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm43141288