【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第185回:川賊の粘り「山崎の戦い 明智軍」】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第185回:川賊の粘り「山崎の戦い 明智軍」】

おらぁ!甘寧様が相手だ!八十万でも八百万でも掛かってこいや!孫権に仕えた呉軍きっての猛将:甘寧。字は興覇。巴郡臨江を出身地とし、地元有数の大豪族「甘氏」の子として誕生した。初めは確かな身分もあって役人仕事をしていた為に文官としての能力も高かったがいつしか任を辞して悪逆無頼のゴロツキのような生活を始める。甘寧一味は派手な飾りと鈴を身に付けており、鈴の音が聞こえると領民は震え上がったという。(演義においては「錦帆賊」と呼ばれる河賊[川賊]であったとされている)後に益州を抜けて手下800人と共に甘氏の先祖の故郷である荊州:南陽に向かい劉表に仕えられないかとするが任用には至らず、続いて劉表配下の黄祖に仕えた。黄祖配下の蘇飛に生活を補助され、蘇飛は甘寧を厚く待遇するようにと進言していたがそこから3年間、甘寧は冷遇されたまま時を費やす羽目になった。そんな中で、破竹の勢いで進撃する孫権軍が襲来したのである。父の仇である黄祖討伐に臨んでいた孫権軍の士気は高く、黄祖軍は敗走。そこで勢いに乗って突進してきた凌操(凌統の父)に対して黄祖軍の殿軍を担っていた甘寧が立ちはだかり、凌操を討ち取った。この武功を以ってしても自身への待遇は好転しなかった為に甘寧は出奔を決意。敵対していた孫権側へ上記の武功を元に自身を売り出した。父の仇である凌統は激怒して猛反対したが甘寧の能力を買っていた周瑜・呂蒙の推薦もあり、孫権は甘寧を重用した。それから数年後、かつての主である黄祖攻めに協力してこれを打ち破った。かつての恩人である蘇飛も処刑対象となっていたが甘寧は自身の頭を地面に何度もこすりつけて孫権へ助命嘆願を行った。黄祖には仇を、蘇飛には恩を、それぞれ返したのである。その後、合肥の戦いの翌年に病死。夷陵の戦いの前に病死しているが演義では夷陵の戦いにて蜀に協力していた異国の将:沙摩柯に討ち取られている。また、もうひとつの因縁の相手である凌統を曹操軍から救い、和解する話が存在している。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm43158071