【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第196回:皇帝の路「一ノ谷の戦い 源氏軍」】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第196回:皇帝の路「一ノ谷の戦い 源氏軍」】

六国を滅ぼし、俺が新たな大地の王となる!古代中国史において「春秋戦国時代」と呼ばれる時代がある。儒学の始祖:孔子が書いた「春秋」及び、前漢の学者:劉向が書いた「戦国策」を由来とし紀元前770年から550年間。紀元前221年に秦国が中華統一を果たすまでの長き動乱の時代。秦国第31代君主:エイ政または趙政。後に中原最初の統一政権を確立して初の皇帝を名乗ったことから始皇帝と称される。当初、父:(後の)第30代君主の荘襄王と共に、休戦協定の条件として趙国の人質となっていた。荘襄王自体はこの時点では秦国君主となる可能性が低く、形ばかりの人質として趙国では冷遇されていた。その状況で現秦王:昭襄王が趙国へ攻撃を仕掛けた為に、報復としていつ殺されてもおかしくない状況となったが有力商人であった呂不韋が荘襄王を担いだことによって秦国内での立場は大きく好転。荘襄王はすぐに趙国を脱出し、残ったエイ政は潜伏しながら秦国へ脱出した。荘襄王はその後、呂不韋によって第30代君主に抜擢されるが、呂不韋による傀儡政権となった。僅か在位3年で荘襄王が死去するとエイ政が第31代君主となり呂不韋は相国(国家における王に次ぐNo.2)となって王をも凌ぐ影響力保持。しかし、太后(前皇帝の正室/現皇帝の実母)と肉体関係を持っていたという疑惑から呂不韋を失脚へと追い込んだことで。国家内の勢力を王主体とすることに成功した。秦国内勢力が統一されたことで、昭襄王の時代に完成された各国のパワーバランスの通り他六国を蹂躙に近い形で次々に滅亡に追い込み中原統一に成功。統一後、地方統治に関して中央政権からの役人派遣制に変更。貨幣・計量単位の統一を図った。さらに法による統制を重視する政策を取り、その邪魔となる儒家思想の迫害(焚書坑儒)を行った。しかし、最期は水銀を不老不死薬と信じて飲むほど死を恐れる病的状態になり後継者問題に発展。結果、後事を託せないまま死去。秦王朝は始皇帝の死去から僅か3年で滅亡した。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm43306361