【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第202回:鬼島津の雄戦】

【英傑大戦】気まぐれにデッキ変えつつ英傑【第202回:鬼島津の雄戦】

全員、突撃して退路を切り開く!島津中興の祖:島津忠良の子、島津貴久。忠良の嫡男であり、後に島津の英主と称される英傑:島津貴久。さらにその貴久の子は男子4人であったが、それぞれが類稀なる才を持ち後世に置いて「島津四兄弟」の名を冠することになる。島津貴久の次男:島津義弘。祖父:島津忠良をして「雄武英略を以て他に傑出す」と称され若き頃よりその武勇と軍術に関して頭どうかしてるんじゃないかという才を発揮した。伊東軍が攻めてきた木崎原の戦いでは伊東軍3000に対して300の兵にて対峙。兵力差10倍を釣り野伏せを駆使することで覆し、勝利を収めた。(桶狭間・河越夜戦・厳島の戦いですら兵力差10倍を覆したものでは無い)後の豊臣政権下における朝鮮出兵では、泗川の戦いにて明・朝鮮連合軍(3万~20万)に対して7千の兵にて対抗。これを釣り野伏せにて打ち破り数万の死傷者を出させて勝利(島津軍の死者は僅か2名)関ヶ原の戦いでは当初、徳川家康の召集に応じて東軍側として出陣するも京都伏見城の守りを任ぜられていた鳥居元忠にその旨が届いておらず入城を拒否され大坂にて挙兵した西軍側に已む無く属する形となった。関ヶ原は僅か半日で西軍の壊滅状態となり、取り残された島津軍は前代未聞の敵中突破を敢行。後ろに退く後退ではなく、敵陣側・・即ち前に退く「島津の前退(退き口)」を開始したのである。島津大将たる義弘を生かさねば、この後の弁明が不可能となる。つまりは島津の生き残りを賭けた撤退劇だった。兵力300対8万。東軍本陣前まで迫る勢いで猛進後に曲がり退却に入る。後ろから迫る東軍の追撃を、家老陣であろうが誰もが下馬して足止めに入った。結果、義弘は生還して粘り勝ちとも言える交渉で本領安堵を獲得。徳川は島津をここで叩き潰せなかったことにより、250年後、崩壊を早めることとなった。長兄の英傑大戦: mylist/73130055

http://www.nicovideo.jp/watch/sm43524057