鈴木卓爾×深田晃司×渡邉大輔「いま、<映画を作る>とはどういうことか」【ポスト映画論講義 #6】(2019/8/19収録) @suzuki_takuji @fukada80 @diesuke_w

鈴木卓爾×深田晃司×渡邉大輔「いま、<映画を作る>とはどういうことか」【ポスト映画論講義 #6】(2019/8/19収録) @suzuki_takuji @fukada80 @diesuke_w

【収録時のイベント概要】ゲンロンカフェで、ゆるく、長く続けさせていただいているポスト映画論講義も1年4ヶ月(!)ぶり、今回で6回目。 今回のゲストは、鈴木卓爾監督と、深田晃司監督。鈴木監督は、現在、監督最新作『嵐電』が全国劇場公開中であり、深田監督は、まもなく新作『よこがお』が公開される。お二人は、平成が終わり、令和が始まったいま、私が誰よりもお話を伺ってみたい映画監督である。平成時代、とりわけその最後の2010年代に、日本映画の状況は大きく変わった。動画サイトや配信サービスをはじめとする新しいメディア環境の普及により、「映画」のイメージ自体が大きく揺らいだ。あるいは、社会全体の過剰流動化の中で映画を作る「拠点」も自明なものではなくなった。そして、その大きな転換点となったのが、2010年代の幕開けに起こった、2011年の東日本大震災だった。その後の10年間は、私や深田監督とほぼ同世代の比較的若い世代を中心にして、映画の輪郭と、それを生み出す/観るための足場をさまざまに模索していくプロセスだったと思う。その一端が、私にとっては、例えば『映画はどこにある』(フィルムアート社)にまとめられたような、インディペンデントな映画作家たちの活動だったことは、これまでにもいくどか述べてきた。少なくとも、私自身は、ここに「希望」を感じていた。そして、その模索の営みの一部は、2018年の上田慎一郎監督の低予算のワークショップ映画『カメラを止めるな!』の異例の大ヒットとして、ある意味で社会的な注目を浴びることとなった。ただ、それは果たして突破口だったのか? 『カメ止め』の喧騒もすっかり収まってしまったいま、2010年代の映画に孕まれていたのは、いったいいかなる問題だったのか? あえてこんな風に言ってしまえば、震災(原発事故)と『カメ止め』の後に、<映画を作る>とはどういうことなのか?……と、書いてみたが、これは私自身の問題意識であり、まずは、お二人の新作の話題から入りたいと思います。……ただ、私にとっては、鈴木監督も深田監督も、上記のような問いに対して、いまの日本映画の中で、最もラディカルに、そして最も飄々と(!)対峙している作家のように思える。深田監督は、映画の現場の厚生を訴えるアクティヴィストとしての顔を持つ一方、自作の中では今度の新作を含め、現代の公共性のありかを問い続けているし、鈴木監督は、ここ数年、大学や映画美学校での映画制作のあり方を模索し、なおかつ『ゾンからのメッセージ』や『嵐電』のように、「映画を撮ること」の足場そのものの生成過程を唯一無二の方法で問い直している。そして、何よりお二人には、『ほとりの朔子』や『さようなら』、そして『ジョギング渡り鳥』といった震災をテーマとした重要作もある。といったところで、当日は、毎回のように、私が司会役を務め、お二人の新作について、そして、映画作りの現在について、いろいろと伺っていきます。令和の夏の久々の映画トーク、ご期待ください!(文責・渡邉大輔)【イベントのページ】 https://genron-cafe.jp/event/20190819/

http://www.nicovideo.jp/watch/so37113509