マイリスト 古戦場
兎侍@tetu さんの公開マイリスト
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太田口の合戦の古戦場(第一次長島合戦)
2026年の1月上旬、岐阜県海津市にある太田口の合戦の古戦場を訪れました。元亀2年(1571年)に織田信長が伊勢長島に攻め入った合戦の一つで、大垣方面から長島方面へ進軍した織田方の柴田勝家勢と長島の一揆勢が太田口付近で戦いました。退却する織田方の柴田勢に西の多芸山(養老山地)に潜んでいた一揆勢が襲いかかり、柴田勝家が負傷し、織田方で大垣城主の氏家卜全(うじいえぼくぜん(直元))が殿軍(しんがり=退却部隊の最後尾)を交代しますが、一揆勢に囲まれて討死にしたと伝わります。古戦場のすぐ東側は木曽三川の揖斐川が流れており、川の流れの変化や治水工事等で往時と地形は違っているかもしれませんが、西の養老山地は往時とあまり変わっていないはずなので、潜んでいた一揆勢が大垣~桑名間の狭い伊勢街道を退却する織田勢に襲いかかった様子を想像することができました。美濃山崎駅の南に氏家卜全の墓である「卜全塚」、石津駅の北に氏家卜全の首を洗ったと伝わる「卜全澤」、「卜全澤」から東にある揖斐川の堤防に「氏家卜全と戦死者の供養塔」があります。道中、養老鉄道が川の下を通る般若谷川(はんにゃだにかわ)や海津橋近くの海津橋饅頭、薩摩義士の墓がある円成寺、杉生神社(すぎおじんじゃ)も訪れています。お城→mylist/37297571
22:07|2026年01月23日 18:00:00 投稿
国府台合戦の古戦場
2025年の8月下旬、千葉県松戸市にある国府台合戦の古戦場を訪れました。戦国時代に里見氏等と後北条氏が争った古戦場で、天文7年(1538年)の第一次合戦と永禄6年(1563年)と7年(1564年)の第二次合戦に大別されるようです。矢切大坂では後北条方の江戸城代・遠山綱景や富永直勝が討死にしたと伝わります。矢切大坂や近くの矢切の渡しは、伊藤左千夫の小説『野菊の墓』の舞台にもなっています。国府台城と同じく、江戸川(太日川)の東は丘陵となっており、渡河した後北条軍と里見軍の間で激戦があったことが偲ばれました。お城→mylist/37297571
11:01|2025年10月03日 18:00:00 投稿
布施の戦いの古戦場(第一次川中島の戦い)
2025年の4月下旬、長野県長野市にある布施の戦いの古戦場を訪れました。天文22年(1553年)、長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った第一次川中島の戦いの合戦の一つで、長尾軍が武田軍の先鋒を打ち破りました。長尾軍は南下し、荒砥城も落としますが、塩田城に入った武田晴信が決戦を避けた為、長尾軍は越後に引き揚げ、武田軍も甲斐へ帰還しました。合戦の地の詳細な場所は不明ですが、篠ノ井駅周辺の布施郷と伝わり、篠ノ井駅の西口に「布施の戦いの地」の石碑と説明がありました。古戦場 → mylist/54578496お城 → mylist/37297571
6:23|2025年06月06日 18:00:00 投稿
今福の戦いを辿る旅
2023年の5月上旬、大阪府大阪市にある今福古戦場を訪れました。 慶長19(1614)年に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つで、 大阪城から北東約2kmの今福・蒲生周辺で行われた合戦で。 豊臣方の矢野正倫および飯田家貞がそれぞれ兵300で四重の柵を守備していましたが、 幕府方の佐竹義宣の軍勢が兵1500で攻略しました。 豊臣方は木村重成・後藤基次らが援軍として駆けつけ、 佐竹勢は家老の渋江内膳政光が討死にする等、豊臣方が優勢となりますが、 佐竹義宣から援軍の要請を受けた上杉景勝の軍勢が大和川の中州から豊臣軍に攻撃を加え、撤退させることに成功しました。 現在、古戦場周辺は開発され、往時を想像するのは難しいですが、 なだらかな高低差に往時の堤跡の姿や、 若宮八幡大神宮に佐竹義宣本陣跡の碑を見ることができます。古戦場 → mylist/54578496お城 → mylist/37297571
8:31|2023年07月14日 18:00:00 投稿
鴫野の戦いを辿る旅
2023年の5月上旬、大阪府大阪市にある鴫野(しぎの)古戦場を訪れました。慶長19(1614)年に発生した大坂冬の陣において行われた戦いの一つで、大阪城から北東約2kmの鴫野村周辺で行われた合戦で。豊臣方の井上頼次(いのうえよりつぐ)が兵2000で三重の柵を守備していましたが、幕府方の上杉景勝(うえすぎかげかつ)勢が兵5000で攻略しました。豊臣方は大野治長らが兵12000が援軍として駆けつけますが、上杉勢は豊臣勢の攻勢を防ぎきり、鴫野を占拠しました。その後、対岸北の今福の戦いで苦戦していた佐竹義宣から援軍の要請を受けた景勝は、大和川の中州から豊臣軍に攻撃を加え撤退させ、鴫野・今福の両戦いで上杉勢は武門の意地を見せました。現在、古戦場周辺は開発され、往時を想像するのは難しいですが、城東小学校に鴫野古戦場碑、八剱神社に上杉景勝本陣跡の碑があります。古戦場 → mylist/54578496お城 → mylist/37297571
9:32|2023年07月07日 18:00:00 投稿
小豆坂の戦いを辿る旅
2021年の3月下旬、愛知県岡崎市にある小豆坂(あずきざか)古戦場を訪れました。戦国時代に、三河側の今川氏・松平氏連合と、尾張の織田氏の間で天文11年(1542年)と17年(1548年)に合戦があったとされていますが、1542年の合戦については信頼が薄いとされているようです。1548年の戦いでは、織田軍は大将が織田信秀(織田信長の父)、先鋒に織田信広。松平軍は大将が松平広忠(徳川家康の父)、今川軍は大将に太原雪斎、副将に朝比奈泰能が出陣し、序盤は織田信秀と織田信広が松平軍を相手に優勢に戦いを進めたようですが、今川軍の攻勢にあい安祥城まで退却し、今川・松平軍が勝利したようです。現在、小豆坂古戦場に各地に点在していた石碑等が集められていますが、周辺は開発されているので、戦場を想像するのは難しいかもしれません。周囲は名前の通り坂が多いので、桶狭間の古戦場になんとなく似ているとも思いました。古戦場に関係ありませんが、動画の最後に東岡崎駅に寄っています。古戦場 → mylist/54578496お城 → mylist/37297571
6:24|2021年07月09日 21:05:02 投稿
設楽原の戦いを辿る旅
2019年の7月、愛知県新城市にある設楽原(したらがはら)の古戦場を訪れました。長篠の戦いの織田・徳川連合軍体武田軍の決戦の地として有名で、古戦場には織田・徳川軍が陣に築いたと伝わる馬防柵(ばぼうさく)があります。三河本郷駅から首洗い池→岡部竹雲斎の墓・岩手胤秀の墓→信玄塚→原昌胤の墓→新城市設楽原歴史資料館→内藤昌豊の墓→土屋昌次・温井昌国の墓→才ノ神武田勝頼本陣跡→真田信綱・昌輝兄弟の墓→五味貞氏の墓→設楽原決戦場→土屋昌次戦死の地→小幡信貞の墓→山県昌景の墓と訪れました。※aaaaaa殿・霞舞伎殿、広告ありがとさんでござんす♡長篠の戦い 鳶ヶ巣山砦編 → sm35619570長篠の戦い 長篠城編 → sm35655668古戦場→mylist/54578496
27:34|2019年09月14日 22:07:04 投稿
桶狭間の戦いを辿る旅・後編
2019年の6月、愛知県豊明市と名古屋市の桶狭間の古戦場を訪れました。永禄3年5月19日(1560年6月12日)、寡兵の織田信長が大軍の今川義元を打ち破った奇襲戦の舞台として有名です。主に今川軍の慰霊を目的に散策しました。前回は古戦場と付近の陣跡等を散策し、今回は周辺の城跡・砦跡を以下のルートで散策します。中島砦跡→善照寺砦跡→丹下砦跡→鳴海城跡→鷲津砦跡→丸根砦跡→大高城跡※aaaaaa殿・霞舞伎殿・JT殿、広告ありがとさんでござんす♡桶狭間の戦いを辿る旅・前編→sm35517964織田信長が桶狭間へ向け出陣した・清洲城→sm28121483岡部元信が守備した・鳴海城→sm32472616古戦場→mylist/54578496
15:00|2019年08月17日 13:19:02 投稿
桶狭間の戦いを辿る旅・前編
2019年の6月、愛知県豊明市と名古屋市の桶狭間の古戦場を訪れました。永禄3年5月19日(1560年6月12日)、寡兵の織田信長が大軍の今川義元を打ち破った奇襲戦の舞台として有名です。主に今川軍の慰霊を目的に散策しました。今回の散策ルートは以下になります。桶狭間古戦場伝説地→今川義元の墓→高徳院・松井宗信の墓→今川義元本陣跡桶狭間山→桶狭間古戦場公園→瀬名氏俊陣跡→長福寺・今川義元公首検証跡→井伊直盛陣跡→高根山・松井宗信陣跡桶狭間の合戦には関係ありませんが、近くの有松の街並みが綺麗だったので、動画の最後に入れています。※霞舞伎殿・aaaaaa殿・JT殿、広告ありがとさんでござんす♡桶狭間の戦いを辿る旅・後編→sm35551649織田信長が桶狭間へ向け出陣した・清洲城→sm28121483岡部元信が守備した・鳴海城→sm32472616古戦場→mylist/54578496
24:05|2019年08月10日 17:10:01 投稿
戸次川の戦いを辿る旅
2015年の12月末、大分県大分市の戸次川古戦場を訪れました。天正14年12月12日(1587年1月20日)に、九州制覇を目指す島津家久率いる島津軍とそれを防戦する大友義統、その大友方に助勢する為、豊臣秀吉が四国から派遣した長宗我部元親・長宗我部信親父子、十河存保、仙石秀久の大友・四国連合軍が戸次川(大野川)の近くで激突しました。結果は島津軍の勝利で、四国勢は長宗我部信親、十河存保ら多くの将兵が討ち死にしました。現在は戦場の跡らしいものはありませんが、将兵の墓や慰霊碑等があります。森林太郎(鴎外)の叙事詩「長宗我部信親」、司馬遼太郎の「夏草の賦」の舞台でもあります。※房丸檜扇殿、広告ありがとさんでござんす♡長宗我部氏の岡豊城→sm30856435古戦場→mylist/54578496
5:08|2016年01月20日 22:34:02 投稿
第四次川中島の戦いを辿る旅
2014年の10月18日、長野県長野市の川中島を訪れました。この日はユリウス暦で第四次川中島の戦いから453年目になります。現在のグレゴリオ暦だと10月28日が決戦の日になるので、合戦時の季節にかなり近いはずです。450年後には、遠く九州の小学校でも運動会の騎馬戦が「川中島の合戦」と名付けられる程、日ノ本中に知れ渡る合戦であったということを合戦に参加した死者への手向けとします。謙信公上洛の旅一覧→mylist/38927065春日山城(謙信公居城)→sm21440268古戦場→mylist/54578496
21:45|2015年10月18日 21:30:14 投稿
