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日本統治時代に建てた防空貯水池をボロボロ日本語で探訪する【VOICEROID結月ゆかり】
2024年02月04日、日曜日、天気:晴れ。
迪化街を向かう途中、台北有名な寧夏夜市にやってきました。近くの円環(円形交差点)には、ひっそりと佇んでいる古跡があり、日本統治時代の防空貯水池(防空水槽)であります。元々ここは円公園という、日本統治時代初期に設計された公園を兼ねた円形交差点でした。第二次世界大戦中の1943年、空襲による火災を想定し、円形交差点の中に防空貯水池を掘りました。戦後すぐ埋められて、上に市場を建てた。1999年、市場が二度目の火事により焼失しました。2003年、二代目の市場が建て替えられました。しかし市場にあった有名店はみんな既に他の場所に移転し、二代目の市場が不人気のまま、2006年に閉館しました。2016年、二代目市場が取り壊され、円形交差点が公園に戻り、下にあった貯水池も再び日の光を浴びることになりました。
●動画リンク:
Youtube→https://www.youtube.com/watch?v=shhpAigMEvM
Niconico→https://www.nicovideo.jp/watch/sm43362580
●立ち絵、挿し絵:
結月ゆかりの落書き五十枚詰メ(宙ノくじらさん)
●音楽、効果音:
Ponte de Abril(Steve Adamsさん)
昭和天皇 拝謁記 国民の目を気にする姿も克明に
2019年8月18日 0:34
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目や国民との距離を気にして、自らの暮らしぶりが贅沢(ぜいたく)に見えないかや、皇室についての報道に神経をとがらせる姿が記されています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余りのべ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
田島長官が仕えた時期は、昭和天皇が象徴として歩み始めた一方、退位の問題もくすぶっていて、「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目を気にする様子がたびたび記されています。
終戦から4年がたった昭和24年8月30日の拝謁では、住まいとして使い続けていた防空施設の「御文庫(おぶんこ)」の増築が話題に上ると、昭和天皇は、「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘(あま)リ皆ワルク思ツテナイ様デ一部ニハ退位希望者アルモ大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハツマラヌト思フ」と述べたと記されています。
さらに、昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論などを唱へる人達、生活ニ困つた人特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されています。
これに対し田島長官が「退位其他の事を云々(うんぬん)する人ハ葉山へ御出掛などをそう八釜(やかま)しく申しハ致しませぬし、大切な御位置の方の御健康上御よろしい事ハ結構な事であります故よろしいと存じまして」と述べると、昭和天皇は「そんならそれでよろしい」と述べ安心した様子を見せたと記されています。
一方、皇室についての新聞報道に神経をとがらせる様子も記されていました。
昭和28年11月4日の拝謁では、昭和天皇が大手新聞の報道に触れ、「『菊のかーてん』などと書き出してハ誠ニ困る」と述べたと記されています。これに対し田島長官が「内容を読みますれば宮内庁のやり方の批難ではありませぬがどうも標題がわるうございまして」と述べると、昭和天皇は「見出しだけで中を読まぬ人も多く『菊のかーてん』といふ言葉で想像して皇室が国民ニ接近したがらぬとの印象を与へる事ニなつてハ困る」と述べたと記されています。
昭和天皇 拝謁記 国民の目を気にする姿も克明に
2019年8月18日 0:34
昭和天皇との対話を記した初代宮内庁長官の「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目や国民との距離を気にして、自らの暮らしぶりが贅沢(ぜいたく)に見えないかや、皇室についての報道に神経をとがらせる姿が記されています。
「拝謁記」を記していたのは、民間出身の初代宮内庁長官だった田島道治で、戦後つくられた日本国憲法のもとで、昭和23年から5年半にわたり、宮内庁やその前身の宮内府のトップを務めました。在任中、600回余りのべ300時間を超える昭和天皇との対話を詳細に記録していました。
田島長官が仕えた時期は、昭和天皇が象徴として歩み始めた一方、退位の問題もくすぶっていて、「拝謁記」には、昭和天皇が国民の目を気にする様子がたびたび記されています。
終戦から4年がたった昭和24年8月30日の拝謁では、住まいとして使い続けていた防空施設の「御文庫(おぶんこ)」の増築が話題に上ると、昭和天皇は、「今ハ皇室殊ニ私ニ対シテ餘(あま)リ皆ワルク思ツテナイ様デ一部ニハ退位希望者アルモ大体ハ私ノ退位ヲ望マヌ様ナ時ニ私ガ住居ヲ大(おおい)ニ新築デモシタ様ニ誤伝セラルレバ私ハ非常ニ不本意デ、イハバ(いわば)一朝(いっちょう)ニシテ信ヲ失フ事ハツマラヌト思フ」と述べたと記されています。
さらに、昭和26年12月19日の拝謁では、昭和天皇が葉山御用邸での静養について、「退位論などを唱へる人達、生活ニ困つた人特ニ軍人など戦争の為ニひどい目ニあつた人から見ると私が葉山へ行くなど贅沢の事をしてると思ふだらう」と懸念を示し、「行つていゝか」と田島長官に尋ねたと記されています。
これに対し田島長官が「退位其他の事を云々(うんぬん)する人ハ葉山へ御出掛などをそう八釜(やかま)しく申しハ致しませぬし、大切な御位置の方の御健康上御よろしい事ハ結構な事であります故よろしいと存じまして」と述べると、昭和天皇は「そんならそれでよろしい」と述べ安心した様子を見せたと記されています。
一方、皇室についての新聞報道に神経をとがらせる様子も記されていました。
昭和28年11月4日の拝謁では、昭和天皇が大手新聞の報道に触れ、「『菊のかーてん』などと書き出してハ誠ニ困る」と述べたと記されています。これに対し田島長官が「内容を読みますれば宮内庁のやり方の批難ではありませぬがどうも標題がわるうございまして」と述べると、昭和天皇は「見出しだけで中を読まぬ人も多く『菊のかーてん』といふ言葉で想像して皇室が国民ニ接近したがらぬとの印象を与へる事ニなつてハ困る」と述べたと記されています。