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【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第55回・谷口雅春と生長の家(その②)
平田系神道カルトの多くが全宇宙および地球の創造神が日本の神だと説き、日本の天皇は全世界の宗主になるべきとか、世界の言語は日本語から発生しているなどと地上のすべての起源は日本から来てるという日本中心主義を唱える中、生長の家の谷口雅春は、そうした宇宙観・地球観および信仰神や天皇よりも人間ひとりひとりがどうよりよく生きて行くかという生命の在り方に焦点を当てた宗教観を持っていると言える。
谷口は、創造神の重要性は認めるものの、その創造神はただ単に人間や動植物に生命や環境を与えただけで予定調和的な仕組みは与えておらず、どう生きるかは一人一人の問題であり、創造神が助けるものでもなければ妨げるものでもない、としている。
ただ、一人一人の人間がいかに良く生きるかは、個々の人の中にある神性、つまり自分の体の中にある神の存在に目覚め、いかにそれを育んでいくかにかかっているとする。
言い方を変えれば、自分の中にいる神に気が付くためには、この現象界と言われる目に見える世界ではなく、目に見えないが実在する真の世界、つまり実相の世界に目覚める必要があると言う。
実は、この思想は、谷口が幼少より培われた仏教観念と青春期に出会ったキリスト教思想との間の葛藤の中、どちらかに優劣をつけるのでもなければ、その両者の折衷を採るわけでもなく、むしろ両者を止揚、つまり、両者の化学反応から生まれた独自の宗教観とでもいえる。
そして、その谷口の宗教観を決定付けて行くのは大本脱会後に出会ったアメリカのプロテスタント反カルバン派の一つであったニューソートというクリスチャンサイエンスで、この谷口の実相思想が確立する中、彼の教団・生長の家が誕生することとなる。
しかし、時は太平洋戦争直前で、当初谷口は、神の子である人を死なせて行くような戦争を賛美するような「海行かば」斉唱に反対したりしていたが、官憲の監視が厳しくなると谷口は突如方向転換をし、積極的な戦争協力に廻り、戦後は、政治の表舞台に立ち、明治憲法復活や元号法制化、建国記念の日制定法など戦後保守政治運動を推進し、神社本庁などと連携して日本会議を結成するなど右翼団体を思わせるような保守傾斜の道を進んだ。
しかし、引退後の谷口はまた180度旋回するように優生保護法廃止運動や完全菜食主義、反原発などリベラル急進派のように変身した。
彼の実相思想自体には一貫性があるものの、彼があの戦中と戦後のナショナリズム運動に走った理由を知る者は誰もいないのであった。
【神道シリーズ・シーズン3】(思想編)第54回・谷口雅春と生長の家(その①)
生長の家の開祖・谷口雅春は、1893年〈明治26年〉11月22日、兵庫県八部郡烏原村東所(現在の兵庫県神戸市兵庫区烏原町)に、新田義貞の血筋を引くと言われた谷口音吉と妻・つるの間に6子のうちの次男として生まれたが、4歳の時に、同じ谷口家の叔父の家に養子として引き取られ、優秀な成績のもと、大坂の旧制大阪府立市岡中学校を出た後、上京して早稲田大学英文科に進むが、女性のトラブルの為に途中退学し、神戸に帰省後、摂津紡績(現ユニチカ)の木津川工場で働き、そこでも付き合っていた遊女から性病を移され、また女性のトラブルで退職した後、紡績工場勤務時代の資本家に搾取される女工たちを見た体験や、性病で一命を落としそうになった体験から社会変革や神霊治療に興味を持ち始めたことがきっかけで、大正7年、大本教の本山である綾部を訪ね、その教えに心酔した上で翌年綾部に移住し、大本信者として入信した。
谷口雅春が大本にいたのは約3年間だったが、大正10年の第一次大本弾圧事件をはさみ、出口王仁三郎の側近の一人として霊界物語の朗読聞き取り記述を手伝ったり、大本系列の愛善新聞の出版局長を行ったりと、精力的にその宗教活動に協力した。
しかし、大正10年世界立替え説と言う、大正10年に世界が滅亡するという大胆な予言が外れ、その煽りがもとで第一次弾圧を受けることになった大本に失望し、一次弾圧事件の翌年の対象11年に大本で知り合い結婚した妻・輝子とともに大本をさることとなった。
その後、同じく大本を脱会した浅野和三郎の主宰する「心霊科学研究会」に一時期席を置いたが、その後は、神戸の養母の家に夫婦で居候しながら宗教雑誌への投稿と自費出版の執筆の日々にあけくれた。しかし、大量の投稿の内容が多くの読者に支持され、とうとう昭和5年には自主出版で月刊誌「生長の家」を創刊し、読者数も急増する中、5年後の昭和10年には宗教団体「教化団体生長の家」を創立し、それが今日に繋がる宗教法人「生長の家」へと発展していくのであった