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中緬国境雲南徳宏州瑞麗市:瑞麗江広場、姐告口岸
早くは2009年に旅先の重慶で知り合った韓国国内宝飾品業者からミャンマー産翡翠の輸入地としても有名な雲南省徳宏州瑞麗市行きを薦められたことがありましたが、なにしろ、上海からでも相当に遠い街であり、「天涯地角」とも形容され、また、コロナ期間中には度重なるロックダウンもあり、訪れないままとなっていました。国境を挟んで向かい側はミャンマーシャン州ムセです。戸籍地がムセ以外のミャンマーの方についても、通行証による瑞麗市訪問が9月から再開されたところを、10月にはミャンマー北部で少数民族武装グループによる「1027作戦」が始まるという情勢の急展開があり、さらには大量の難民が発生しているとも報道され、11月になって徳宏芒市空港に降り立ちました。本動画作品の撮影日は11月16日で、当日は途中から小雨が降ってきました。工事をしている場所が多く、動画にはその騒音も混ざっていますが、小さめの音ではあるものの、向かい側のムセから伝わってくる重火器や小銃と思われる射撃音もスマホによって捉えられており、ソフトウェア的に音量を若干上げる処理を行いました。瑞麗江広場から見て、瑞麗江を挟んでの真向いは、ミャンマー側に少し突き出た中国領の姐告地区であり、射撃音は、さらにその奥のムセからであって、音源まではまだかなりの距離があるように感じられました。さらに歩いて、姐告大橋を越え、姐告口岸大国門までやってきたときには、さらに音源に近付いたので、音量は大きくなっていると感じられましたが、夜まで続いていた付近の工事の騒音に掻き消されて、自分の耳ではそれほどはっきりとは聞こえなかったように記憶していたものの、スマホは射撃音を捉えていました。ただし、このときには、射撃音の発生頻度はもうかなり下がっていました。歴史を振り返れば、第二次大戦において、日本軍は西のインドインパールのみならず、東は雲南省西部にまで攻め込み、後に押し返されて、玉砕をした拠点もあったようです。ある意味、第二次大戦の残り火がいまだに燃え続けているとも言えるミャンマー社会の変革に現代日本も貢献できることを願っています。ともあれ、嘗ては国境を隔てるフェンスのある場所においても、これぞ本当の国際貿易だというような感じで、フェンス越しに物品や金銭のやり取りが見受けられ、その実況を撮影した動画をよく見掛けたものでしたが、コロナ期間中に国境に沿って高いフェンスが設置されて完全に塞がれており、2009年や2015年のように難民が雲南省に雪崩れ込むというようなことは発生しなくなっていると言えるでしょう。なお、瑞麗江広場内に建立されている「知青紀念碑」(文革期の知識青年を記念したもの)には、10月に上海で亡くなられた李克強前総理の追悼文が貼られていたことをここに付け加えておきます。
ミャンマー政変 ④ / 44A
学びを深めるためにこまめに投稿しています。カヤ族の女性は首を伸ばしたりギターをひいたり神秘的ですね。
長田紀之 聞き手=福冨渉「ミャンマーとはだれの場所か──クーデター、民族、そして『ビルマ』」(2021/11/12収録) @sh0f #ゲンロン211112
【収録時のイベント概要】
アジア経済研究所研究員の長田紀之さんをお招きして、ミャンマーの政治・社会についてお話をうかがいます。聞き手はゲンロンの福冨渉。
今年2月に起こった軍事クーデターが、日本でも大きなニュースとなったミャンマー。市民による抗議デモが続く一方、国軍による弾圧によって多くの命が落とされています。抵抗運動のなか「国民統一政府」が樹立され、少数民族武装勢力との協力のもと、国軍との戦闘開始すら宣言されました。かたやASEANの首脳会議は、国軍司令官の出席を事実上拒否するなど、国際的な圧力も高まっています。
なぜこれほどの混乱となったのでしょう。その理由を考えるには、ミャンマーの込み入った歴史や複雑な民族構成を知る必要があります。古来から多くの王朝が乱立して争いが続いてきたこの国は、19世紀に英国の統治下に置かれます。第二次大戦中には日本軍にてこ入れされた対英独立義勇軍が設立されました。戦後ようやく独立するものの、種々の少数民族を巻き込んだ内戦が続き、軍事クーデターを経て、国軍が長期にわたって政権を握り、1988年の民主化運動は流血の事態を引き起こします。2010年代になってようやく、アウンサンスーチー氏が率いる国民民主連盟が中心となった民政移管がなされたかに見えましたが、2021年にはふたたびクーデターが起こったのです。また、ロヒンギャ問題として知られる宗教対立の火種も、いまだにくすぶったままです。
いったい「ミャンマー」とはだれにとっての場所で、「ミャンマー人」と呼ばれるのはどのような人々なのでしょうか。現地の政治史・都市社会史を研究する長田さんのお話から、日本とも歴史的・経済的に深い関係を結んできたミャンマーのいまとこれからを、広く語り尽くすイベントです。
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ミャンマーとはだれの場所か – ゲンロンカフェ
https://genron-cafe.jp/event/20211112/
ミャンマー政変 ⑦ / 44A
これでミャンマー政変は完読しましたが、感想としては、ミャンマーの今の状態は日本の戦国時代とあまり変わらないと感じる
各地で部族が群雄割拠していて、政府としてはどう治めてよいか模索している。例えば軍部は織田信長でスーチーは徳川家康みたいな感じだ。スーチーには国を統一する力があるかもしれないが70過ぎて軟禁されているので、もし解放されても昔のような力があるかわからないし、後継者がいるかもわからない。
まぁ面白いのは日本に来ている技能実習生などは、とても聡明な人らが多いので、彼ら彼女らが中心となって新しいミャンマーを作っていったら面白いと思います。
はい今回は感想でした。
中緬国境雲南瑞麗市弄島鎮:召武定王城、雷允飛行機製造所跡、雷允国境検問所
瑞麗市中心部から南西に30km程度離れた弄島鎮に到着すると、早速、向かい側のミャンマーシャン州ナムカムから伝わってくる射撃音が聞こえてきて、前日の姐告口岸でシャン州ムセから伝わってきた射撃音よりも大きくて近いように感じられました。以前、広島県内の自衛隊演習場のある街で暮らしたことがありましたが、日々の生活の中で、小さな射撃音が遠方で鳴っているというのとは異なります。弄島鎮中心部の食堂で食事を終えて出てきた頃には射撃音の発生頻度は下がっていて、また、そこから西に向かって離れるほどに音は小さくなっていくように感じられました。高速道路の建設工事現場を迂回して、さらに進むと、雷允古城・召武定王城跡にやってきました。召武定とは、古代に周辺地域の部族を統一して治めたタイ族(シャン族)の王様です。さらに進むと今度は、中央杭州飛行機製造所跡にやってきました。これは日中戦争期に浙江杭州市から疎開してきたもので、現在は陳列室もありますが、残念ながら、当日は開いていませんでした。朱尤科「试论德宏州级文物保护单位雷允中央飞机制造厂遗址的保护与活化利用途径」では、敷地内にある10件の文化遺産が列挙されているとともに、さらなる保護と有効活用に関する提案がなされています(『德宏社会科学』2023年第2期总第69期、2023年6月、117~120ページ)。瑞麗市も弄島鎮も三方をミャンマーに囲まれているという特殊な形状をなしていて、西へ、そして、さらに南へ向かうと、国境フェンスが延々と続いていました。タイ族の集落を抜けて、さらに進むと、遂に雷允国境検問所にやってきました。最近、向かい側のナムカムの避難民はミャンマー側の難民キャンプ等から自宅へと徐々に帰還しつつあるようです。