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太平洋戦争で精神疾患 元日本兵の追跡調査資料
2021年8月19日 19時06分
太平洋戦争などで精神疾患となった元日本兵100人余りについて、戦後、追跡調査した資料をNHKが独自に入手しました。資料には症状の原因となった戦場での過酷な体験や戦後も差別を受けた実態が記されています。
この調査は日中戦争や太平洋戦争の際、精神疾患となった兵士を収容していた千葉県の病院に勤務した精神科医の目黒克己さん(88)が昭和40年までに行ったもので、104人の元兵士から聞き取りなどをした調査資料は800ページ余りに上ります。
調査の結果、4分の1にあたる26人は戦後およそ20年がたってもPTSD=心的外傷後ストレス障害とみられる症状などが残っていました。
資料には発症の原因となった戦場での過酷な体験が記され、このうち中国で従軍していた元兵士は、ゲリラを討伐するためとして集落を襲った時のことを語っていました。
ベトナムに残り独立戦争を戦った元日本兵の誇りと想い
大陸で終戦を向え、様々な理由で現地に残った日本兵が居た。独立の機運に沸きかえるベトナムしかし、日本軍から敗走したフランス軍が帰って来た。独立の指導者ホーチミンは、この危機を救う為に残存日本兵にベトナム兵士の指導を要請した。日本兵はベトナム名と家族を与えられてベトナム兵士として参戦し多数の戦死者が出たという。米中の支援が始まり政治情勢からの突然の帰国命令が・・・ベトナムの家族と引き離され日本で日越友好の為に奔走した元兵士の物語です。
インドネシア最後の元日本兵 小野盛さん死去
小野さんは戦時中、インドネシアで戦い、終戦後も現地にとどまってオランダからの独立戦争に参加したおよそ1000人と言われる元日本兵の1人です。独立戦争のあともインドネシアに残って現地の女性と結婚し農業を営みながら生活を続けていました。親族によりますと小野さんは10日ほど前に体調を崩して東ジャワ州の病院に入院していましたが肺や心臓の疾患のため25日6時前に亡くなったということです。94歳でした。元日本兵の親族で作る団体によりますと独立戦争のあともインドネシアで生活した残留日本兵は高齢化が進み、小野さんは最後の1人になっていたということです。
【新春スペシャル】(2)元日本兵の証言 学徒出陣・河村俊郎氏、戦後68年の日本へのメッセージ(1)2/2【西村幸祐放送局】
今年日本は、8月15日で敗戦後68年を迎える。半世紀以上が過ぎているのに、いまだに戦争中の日本への非難が、主に特定アジアから繰り出されている。
なぜ、そんなことになるのだろうか? 支那と南北朝鮮が、なぜ70年前の戦争や戦前の日本の歴史を外交カードとして持ち得ているのか?
そんな、馬鹿馬鹿しいことが起きるのは、日本人が日本人の歴史を失ってしまったからなのである。
大正12年(1923)生まれの河村俊郎氏は、19歳で学徒出陣し、官立無線電信講習所(現電気通信大学)を繰り上げ卒業、南方戦線フィリピンに赴いた。
戦後は中央大学法学部を卒業後、国際電々(株)に入社、同社を定年退職後、KDDIエンジニアリング・コンサルタント(財)を経て、外務省JICAのアフリカ諸国へのODAプロジェクトへ参画、昭和50年(1975)に日本が戦後初めて先進国の仲間入りをしてパリ郊外シャトー・ランヴィエにて開催の第一回先進国首脳会議に参加した際に、随員の1人として参加、国際通信部門の重責を担った。
そんな河村氏は何を考えて戦争を戦い、何を見つめながら日本の戦後復興を担ってきたのか?
貴重なインタビューを収録して4カ月、ここにその第一弾をお届けする。
協力・インタビュー
鈴木千春(戦史検定広報部長)
戦史検定 http://www.senshikentei.org/
協力/花時計 http://www.hanadokei2010.com/
●西村幸祐放送局 http://broadcast.kohyu.jpn.com
●西村幸祐 公式 http://kohyu.jpn.com
●西村幸祐 公式ブログ http://kohyu.jpn.com/blog
●西村幸祐 連絡フォーム http://kohyu.jpn.com/contact.html
【新春スペシャル】(2)元日本兵の証言 学徒出陣・河村俊郎氏、戦後68年の日本へのメッセージ(1)1/2【西村幸祐放送局】
今年日本は、8月15日で敗戦後68年を迎える。半世紀以上が過ぎているのに、いまだに戦争中の日本への非難が、主に特定アジアから繰り出されている。
なぜ、そんなことになるのだろうか? 支那と南北朝鮮が、なぜ70年前の戦争や戦前の日本の歴史を外交カードとして持ち得ているのか?
そんな、馬鹿馬鹿しいことが起きるのは、日本人が日本人の歴史を失ってしまったからなのである。
大正12年(1923)生まれの河村俊郎氏は、19歳で学徒出陣し、官立無線電信講習所(現電気通信大学)を繰り上げ卒業、南方戦線フィリピンに赴いた。
戦後は中央大学法学部を卒業後、国際電々(株)に入社、同社を定年退職後、KDDIエンジニアリング・コンサルタント(財)を経て、外務省JICAのアフリカ諸国へのODAプロジェクトへ参画、昭和50年(1975)に日本が戦後初めて先進国の仲間入りをしてパリ郊外シャトー・ランヴィエにて開催の第一回先進国首脳会議に参加した際に、随員の1人として参加、国際通信部門の重責を担った。
そんな河村氏は何を考えて戦争を戦い、何を見つめながら日本の戦後復興を担ってきたのか?
貴重なインタビューを収録して4カ月、ここにその第一弾をお届けする。
協力・インタビュー
鈴木千春(戦史検定広報部長)
戦史検定 http://www.senshikentei.org/
協力/花時計 http://www.hanadokei2010.com/
●西村幸祐放送局 http://broadcast.kohyu.jpn.com
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4・17 慰安婦の真実を暴くパネル展 in NAGOYA
以下のニコ生の再アップです。【かわいそうな慰安婦のかわいそうじゃない真実を暴くパネル展】途中、4Fで行われるはずだった「慰安婦の証言のつどい」と間違えてやってきた、従軍慰安婦はいないと証言した元日本兵の方、「胸ぐらをつかんでいい」でおなじみの朝日新聞の記者など、ある意味見所いっぱい。ちなみに「慰安婦の証言のつどい」は近くのKKRホテルで行われたそうです。