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大澤聡×仲正昌樹 「『ポスト・モダンの左旋回』のゆくえ――教養と理論の死をめぐる9年半越しの対話」 【四天王シリーズ #7】(2018/12/17収録)@sat_osawa
【収録時のイベント概要】
「ぜひ呼んでほしい!」との視聴者からの熱烈なコメントがニコ生で何度か流れたことにおこたえして、仲正昌樹さんをお招きします。前回分のゲスト片山杜秀さんに引きつづいて、仲正さんもゲンロンカフェ初登場となります。ということは次回のゲストも……とフラグが立ちそうではありますが、それはさておき。
ちょっと個人的なことを記すと、僕がはじめて人前でトークイベントをしたのは2009年5月で、もう10年ちかく前になります。そのときのお相手がじつは仲正昌樹さんでした。僕は聞き手役として編集者のひとに指名されたわけです。イベントのタイトルは「学問の復権――人文主義と大学」(三省堂書店神保町本店)で、活字化したものが『教養主義復権論』(2010年)に収録されています。どんな会場の雰囲気だったのか、はたしてお客さんは盛り上がったのか、そのへんのことはすっかり忘れてしまいました(書斎のどこかにイベントの様子を記録したDVDがあるはず!)。ただ、個人的な関心にひきつけまくった若かった僕の問題提起にも、正面からじっくり時間を費やして応答してくださるその話しぶりが印象的で(おかげでそのあいだに僕は次の発言を練ることができたわけです)、緩急自在な一連の著書の舞台裏を垣間見たような気がしたのでした。今回の対談はそのとき以来、じつに9年半ぶり!ということになります。
さて、イベントは2部構成で考えています――片山杜秀さんの回とそこもあえて同じにしましたが、内容はもちろん異なります。
前半パートは「理論動向編」として、1990年代以降の諸学問の動向や「理論」の衰退をたどる予定です。『現代日本の批評』(2017、18年)をはじめいろいろなところで僕が参照例に持ち出してきた仲正さんの『ポスト・モダンの左旋回』(2002年/増補新版:2017年)の時代認識を復習しながら、あらためて90年代からゼロ年代にかけての日本の思想状況の展開を点検してみたいと思います。そこに、僕の『1990年代論』(2017年)を合流させることで、社会や文化のより広い文脈のなかで「ポスト・モダンの左旋回」の諸相を捉えなおしてみたい。というのも、このあたりに現在の思想的閉塞感の原因のいくらかは詰まっていると思うからです。
後半パートは「教養主義編」として、上記の『教養主義復権論』の続編を9年半越しに再開できたらと思っています。仲正さんは僕の『教養主義のリハビリテーション』(2018年)の特設サイトに書評を寄せてくださっているのですが、その末尾は「現場的教養」と「対話的教養」に引き付けるかたちで次のように結ばれています。「身体感覚を伴った知の実践経験が必要となる[…]。「教養」はそのための準備運動だ。私自身大学教員になってから、医療訴訟に関わったり、演劇制作に参加するなど、従来の専門からかなり遠い仕事をしているうちに、それを実感するようになった」。このあたりをフックに、最近のご関心を(なにせもう何年もお会いしていないので)お訊きできたらと考えています。できれば、こっそり仲正さんの“本の読み方”などもうかがえたらなと。
また、仲正さんの2冊の近著(...全文は下記リンクからご覧いただけます)
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20181217/
大澤聡×片山杜秀「『平成』の終わりに考える日本思想――教養主義、右翼思想、社会批評」【四天王シリーズ #4】 @sat_osawa
【収録時のイベント概要】
平成が終わろうとしている。
激動の時代と言われる長い昭和を経て、1989年から始まった「平成」。
この間、日本思想は大きく変質した。
冷戦構造の崩壊後、1993年に55年体制は終焉を迎え、1996年に橋本内閣が成立すると、一挙に新自由主義がメインストリームに躍り出る。
1999年には「2ちゃんねる」が開設され、「ネトウヨ」と名指される新たな保守層が形成された。
しかしこれらの変化は、明治に始まる近代日本の帰結であることを見逃してはならない。
『近代日本の右翼思想』『未完のファシズム』などの著作で、戦前の右翼思想を鮮やかに読み解き、佐藤優との共著『平成史』ではこれらの知見を踏まえながら、平成日本の本質を解き明かした片山杜秀。
著書『批評メディア論』で戦前の文壇を徹底分析し、日本における「論壇」や「批評」の条件を明らかにすると、新著『教養主義のリハビリテーション』では、読書の習慣が喪失し、歴史感覚が失われていくなかで、いかに教養主義を現代に甦らせうるかを説いた大澤聡。
膨大な文献研究を通して、近代から現在までを一貫したパースペクティブで読み解いてきた2人の論客が、「平成」が終わろうとするいま、あらためて日本思想の軌跡と行く末を語る。
新たな元号を迎えるために必聴の対談。
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20180928/
大澤聡×先崎彰容×東浩紀「『日本思想』の再設定 ――西郷隆盛と三木清から考える明治維新150年」 @sat_osawa @SALOME_1975 @hazuma
明治元年(1868年)から150年の今年。近代国家の成立を目指した明治維新以降、激動の時代のなかで育まれた、それぞれの思想の内実を俯瞰する好機といえるでしょう。
ご登壇者としてお招きするのは、大正から昭和にかけての騒乱時に死力を尽くして真理を追求し続けた孤高の哲学者、三木清の思想の真髄を、『三木清教養論集』『三木清大学論集』『三木清文芸批評集』(講談社文芸文庫)の三部構成で編纂した大澤聡氏。
「そして、日本近代の思想家たちが西郷隆盛をどのように受け止め思想的評価を下したのかを体系だてて精密に読解し、近代化以降の日本の思想史を描き出した『未完の西郷隆盛』(新潮選書)を上梓した先崎彰容氏。
西郷隆盛や三木清の紡いだ思想は、どのように時代を突き破り展開していくのか……
過去150年の思想の流動を大胆にかけ巡りながら、これからの社会に接続する人文知の可能性について激論を交わします!
【イベントのページ】
https://genron-cafe.jp/event/20180313/
五十嵐太郎×さやわか×大澤聡「メディア/都市/コンテンツ——『1990年代論』から考える」 @taroigarashi @someru @sat_osawa
1990年代とはどんな時代だったのか?
批評家・大澤聡が編者となり、この8月に刊行された『1990年代論』。
当時青春時代を過ごした70年代・80年代生まれの世代の論者が、社会と文化の諸相を20のテーマから論じた、あたかも90年代百科事典のような本である。
90年代は日本の社会と文化にとって、どんな時代だったのか。それはどのような転機をもたらしたのか。
エヴァンゲリオン論や新興宗教建築論など、90年代文化にも多くの著作のある建築批評家の五十嵐太郎(1967年生まれ)、文化をオールラウンドに論じる批評家のさやわか(1974年生まれ)、そして『ゲンロン』の「現代日本の批評」シリーズでも大活躍の大澤聡(1978年生まれ)が、90年代を語り尽くす!
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20171006/
安藤礼二×大澤聡×杉田俊介×東浩紀「『現代日本の批評 1975-2016』再考——共同討議全3回完結記念」 【2017/1/13収録】@sat_osawa @sssugita @hazuma
一般発売前からSNSなどで大きな話題を呼んだ『ゲンロン4』。この本で、『ゲンロン』創刊から3回にわたって行われた特集「現代日本の批評」がついに完結した。
1975年から2016年までの論壇を、ゲンロンはどのように評価したのか。そこで何が語られたのか。これから語るべきことは何か。本イベントでは、特集「現代日本の批評」をあらためて総括する。「現代日本の批評」の討論には参加していない批評家の安藤礼二と杉田俊介による、この特集に対する問題提起をうけて、大澤聡、東浩紀はどう答えるのか。ポスト「現代日本の批評」の批評はどうなっていくのか。現在の日本の批評を担う4人が、批評の歴史、そして現在と未来について、熱く議論を戦わす金曜の夜。
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20170113/
大澤聡×山本貴光「ほんとうの本の読みかた——『百学連環』から知を再編成する」【2016/10/28収録】 @sat_osawa @yakumoizuru
いまから約150年前に、西周(にしあまね)が私塾で行った講義の記録「百学連環」。そこでは、「百学」がいかに「連環」しあっているかを示す学術マップが描かれていた。山本貴光は、新著『「百学連環」を読む』で、明治の啓蒙知識人によるマップを丁寧に読み解き、現代のわたしたちのガイドとなる新しい地図を描いている。今回のイベントでは、「百学連環」を出発点に、山本貴光と批評家の大澤聡が現代の知のありかたを再考する。情報時代のわれわれはどのように思想を紡いでいくことができるか。博識で知られる二人は実際にどのように本を選び、読み、情報を整理しているのか。構造から実践まで、知へのアクセスを徹底的に語るイベント。 ■ このイベントのねらいは2本立てで構成されます。あくまで私(大澤)個人の頭のなかでのイメージですが。ひとつは、人文的な知の枠組をどのように再編成していけばよいのか、この壮大な問いに暫定的な解答を与えること。これはやや抽象度や専門性が高いかもしれません。うってかわって、もうひとつの方は、具体的でテクニカルなものです。「読む」とはいかなる営為なのか、サンプルとして登壇者のいわば舞台裏を開示し、それを方法化(ハウツー化)すること。この硬軟2つのミッションはじつは相互に密接に連関しています。その詳細は対話のなかでしだいに明らかになるはずです。山本貴光さんの『「百学連環」を読む』は、大学の外部で「知」や「思想」や「批評」のサルベージに邁進する、ここゲンロンカフェにもってこいの1冊ではないでしょうか。150年前の知の激変期にその生態を真摯に観察し、未来のあり方を提言した西周の思考の軌跡が透かし見えるわけですから。思うに、大学をはじめ今般の知的な領域に求められるのは、既存の諸領域を自己目的的に横断する企画力などではもはやありません。そんなものではなくて、ありえたかもしれない別の線引きを過去に遡行しては何度でもシミュレートしてみせる構想力でしょう。西周とそれを解読する山本さんは、その構想力の立ちあげに有効ないくつものヒントを示してくれています。しかし、本書のポイントはそこだけではない。読みはじめるとすぐに、「百学連環」の解読作業を進める山本さんの頭の働かせ方の軌跡を実況中継式に進行形で記録することで、“「読む」とはいかなる営為か”を読者に体感的に理解させることにも目的が設定されているとわかります(詳細は『週刊読書人』2016年9月30日号掲載の私の書評にゆずります)。読書や学習や調査に関するアドバイスや、考えるヒントが随所に埋め込まれていて、それらを繫ぎ読んでいけば、そこに本格的な教養論や読書術が浮びあがってきます。二重化したねらいをイベントに課したのはこのようなしだいです。山本貴光さんというまたとないガイドを得て、デジタル時代の読書術、たとえばリサーチ方法からメモの取り方まで、あるいは本の選び方なり、資料の整理の仕方なり、アイデアを拡張するコツなり、日ごろ気になってもなかなか他人に訊けないそのあたりの事情についても歴史を参看しつつ、じっくり検討していけたならば、みなさんにとってもどこか意義ある対話となるのではないか、そんなふうにいまは考えています。(大澤聡)
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20161028/
渡部直己×大澤聡「批評という快楽——『日本批評大全』徹底解剖」【2017/3/3収録】 @sat_osawa
2017年1月、批評家・渡部直己による『日本批評大全』(河出書房新社)が刊行された。上田秋成、本居宣長から蓮實重彦、柄谷行人まで、近現代の批評の珠玉の70編を集め、そのすべてに優れた解題が付された労作である。1776年から1980年までの200年から渡部が厳選した70編の批評文には、解題のみならず、それぞれ鍵となる一行が抜き書きされている。多面的に提示される批評の魅力に、読者は否応なく引き込まれてしまう。批評は病であるだけでなく、快楽でもあるのだ。日本の批評を味わうとはいったいどういうことなのか。『日本批評大全』の編著者渡部直己と、その刊行をサポートした大澤聡が、批評の愉しみを語り尽くす!
【イベントのページ】
http://genron-cafe.jp/event/20170303/
大澤聡×福嶋亮大+東浩紀「批評に近代は必要かーー『批評メディア論』から読む『復興文化論』」【2015/4/11収録】 @sat_osawa @liang_da @hazuma
大澤聡は1978年生まれ、福嶋亮大は1981年生まれ。わずか3年しか違わず、同じ時代の光景を見てきたはずの2人の文芸評論家だが、その仕事を並べてみるとずいぶんとスタイルに隔たりがある。その差異はひとことで言えば、従来の批評との距離感に集約されている。東大駒場を出て近畿大に勤める大澤が愚直なまでに「近代日本の批評」の歴史を継承しようとするのに対し(『批評メディア論』)、柿本人麻呂から中国現代文学まで自在に飛び回る福嶋は、むしろ文芸批評を近代の呪縛から解き放とうとしているかのようだ(『復興文学論』)。であるとすれば、批評の未来はどっちにあるのか? 近代文芸批評を継承し再構築するべきなのか、あるいは解体し再出発するべきなのか?ひらたく言えば、小林秀雄や吉本隆明や柄谷行人はいまでも読むべきなのか、それとももうどうでもいいのか?ゲンロンでは、批評を志す若い世代にそんな根本の問いをあらためて投げかけるため、本対談を企画した。30代の秀英がぶつかる本格批評対談。弊社主催で6月から始まる『批評再生塾』の参加者も必聴である。(東浩紀)批評のスタイルやモチーフは多種多様であるべきだと思います。これは大前提。ただし、多様性や複数性を大義名分とした没交渉や棲み分けは、最終的に当該ジャンルの悲惨な縮減を招来するだけでしょう。何度でも交叉させていく必要がある。その交叉点から新しい想像力が生まれればいい。近代日本の批評は「「近代」とはなにか?」という自己言及的な問いにたえず取り組んできました。私からは2、3の歴史的事例をごく 簡単に紹介・復習します。そのうえで、福嶋さんと一緒にたっぷり時間を使って、これからの批評のかたちを検討していけたらと思っています。(大澤聡)日本の近代批評は、日本文学のコンセプトや存在理由は何かという大問題と組み合ってきた。批評の未来のために、そのような問題設定をどう受け継いでいけばよいか、とりわけ「近代」ないし「前近代」をどう評価していくべきか、そもそも文学ないし批評は何のためにあるのか、等々のテーマを、労作『批評メディア論』の著者とともに幅広く討議する。ふるってご参加ください。(福嶋亮大)
大澤聡×東浩紀「ゲンロンから遡る批評の歴史《2015→1930》——大澤聡『批評メディア論』刊行記念」【2015/2/6収録】 @sat_osawa @hazuma
【イベント概要】
1月20日発売の新刊『批評メディア論——戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店)の刊行を記念し著者の大澤聡さんをお迎えします。
この国で「批評」はいかなる使命を担ってきたのか。批評メディアの歴史を批評的に分析しつつも、同時に、アートや建築をはじめあらゆるクリエイティブの現場に応用可能なヒントを1冊に凝縮した、と大澤さんは語ります。そこで、ゲンロンカフェを経営し独自の実践を続ける東浩紀とともに、批評やメディアの過去と現在と未来についてあますところなく徹底討議していただきます!
【登壇者より】
この本に7年半も費やしてしまいました。2007、8年といえば、批評や出版は変動期に突入。局地的には無限の可能性に開かれていました。当時は僕にもいくつかのチャンスが廻ってきたように記憶しています(新書ブームなど)。ですが、愚図な僕は不遜にもそれらをことごとく見送るほかなかった。なにを書いたところで、当面は先行世代の蓄積に敵わないという畏怖の念や照れが拭えなかったためです。僕にとって、『近代日本の批評』など過去のあらゆる批評的成果は参照する対象というよりも、批評に従事するのであればこの国の批評の出自や履歴を一通りふまえていなければならない、そんなメッセージ(=教養主義的抑圧)として作用しました。デビュー作で1930年前後に遡行したのもそのためです。この時期、現在まで続く批評環境が急速に成熟していきます。結果的に、始源の発掘から再起動へ、という僕なりの提案を言外に孕みもつ一冊に仕上がりました。成否はみなさんの判断にゆだねます。
直接的には、論壇や文壇、あるいはその基盤を構成するインフラ群の出発点を扱っています。ですが、むろん目的はそれに限定されない。多ジャンルの方々と広く議論できるよう仕掛けを施したつもりです。これからのクリエイティブな作業すべてに要求されるコアを詰め込みました。デザインなりアートなり建築なりビジネスなり、とりわけ場や空間の設計に携わる方々との対話を想定し書き進めました。ここゲンロンカフェが遠景で意識されていることに勘づく読者もいらっしゃるかもしれません。
今回、提案いただいた対談企画に便乗する形で、ゲンロンそのものを批評する機会にできればと思っています。この場所には80年以上におよぶ日本の批評の記憶が流れ込んでいる。ホストの東浩紀さんに戦略を開示していただきつつ、そのつど僕の方で言論の歴史の各トピックに接続していく、そんなスタイルをイメージしています。現在/歴史とメタ/ベタをぐるぐる往還しながら進む、幾重にも入り組んだ構造の議論となるはずです。おざなりな刊行記念イベントで済ます気はありません。多様な関心をもつ方々にお越しいただければ幸いです。
(大澤聡)
<3/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<2/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<6/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
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全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<5/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
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全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<4/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
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全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
<1/6>大澤聡×岸政彦「『断片』と『批評』のあいだで——日常世界を記述するためのレッスン」【2016/3/24収録】 @sat_osawa @sociologbook
ぼくたちは自分が遭遇した出来事に「意味」づけをしては、納得したり、安堵したり、疲弊したりしながら日々をすごしています。その過程で「解釈」や「分析」を挿し挟まないではいられないし、ちょっと油断するとそこに「批評」めいたものを追加しようとすらしてしまうものです。話を盛りに盛り、オチらしきものを接木して「物語」に仕立てあげてしまうことだってある(社会の「物語化」の欲望が学問的に批判の対象になった時代もありました)。
けれど同時に、ぼくたちはそもそも上手く整序されない体験を無数に抱えているし、批評や物語や意味やを添付しないことには語ることができないのだとしたら、なかったことになってしまうものごとも世界には溢れている。ここを突破する回路をさまざまな書き手や研究者が思案してきたはずですが、もちろん方法が確定されているわけではありません。
昨年刊行された『断片的なものの社会学』(朝日出版社 http://amzn.to/1WuWl8R)で岸政彦さんは、過去に見聞きした出来事たちを思い出したように「断片」のままに、ときに文脈を与えぬまま、ごろっと置いておくスタイルをとりました。ひとつ前に出た『街の人生』(勁草書房 http://amzn.to/1Q4xlEM)は、5人の街の人びとへのインタビュー音源をほとんどそのまま文字に起こして収録した本です。これらにはたくさんのヒントが詰まっているとぼくには思えました。もちろん、学問上の意義だけではありません。日常生活のうえでのヒントとしてもそう。
今回のイベントでは、岸さんといっしょに、世界や日常を記述するための方法をめぐって、ざっくばらんに、ほんとうにざっくばらんに、お話しできればと思っています。
……
全文は以下のリンクからご覧ください。
「断片」と「批評」のあいだで | ゲンロンカフェ
http://genron-cafe.jp/event/20160324/
〈7/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
〈6/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
〈5/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
〈4/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
〈3/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
〈2/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
〈1/7〉大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン——『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(5/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(4/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(3/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(2/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
(1/5)大澤聡×加藤賢策×山本貴光「思想とデザイン──『アイデア』No.370刊行記念トークショー」【2015/8/7収録】 @sat_osawa @katokensaku @yakumoizuru
読んだ雑誌を思い起こすとき、文面・文体や内容だけが思い浮かぶものもあれば、表紙や扉、フォント、紙質、余白のかもし出す空気感まで蘇ってくることもある。思想そのものに形はないが、私たちは各時代のそれを、雑誌という姿で今も手に取ることができる。
ページを開けば、そこには情報だけでなく、当時の時代性、空気感、熱気のようなものが濃厚に閉じ込められている。それは編集者や作家、思想家、デザイナーによる絶え間ない試行錯誤の結果であり、各者がページの上でせめぎ合った闘いの結果でもある。
『IDEA No.370 : 思想とデザイン』は、1960年代以降の思想誌の歴史をデザインを軸に、ビジュアルと編集で見せた、画期的特集である。
『思潮』『思想』『現代思想』『試行』『思想の科学』『批評空間』…
大胆なデザインを取り入れた『パイデイア』『遊』『エピステーメー』『GS』『週刊本』
名前を聴くだけで知的好奇心に胸がざわめくような雑誌の数々。また、それ自体も雑誌である本誌のビジュアルそのものが、60年代以降のデザインの成果を、ある意味で総括して見せているとも言える。
印刷製版にコンピューターが導入された1960年代以降、雑誌の「見た目」は大きな変化を遂げた。80年代以降、DTP技術はAdobeとMacintoshの登場によってさらに革新され、今や世界中のほとんどの雑誌がAdobeで作られていると言っていい。
エディトリアルデザインに次なる革新は来るのか。そもそもこの先、紙束の雑誌という形態にまだ未来はあるのか。
古代から現代に至る出版史の大きな流れも視野に入れつつ、編集者、デザイナー、批評家、研究者というそれぞれの立場から、過去と未来の「雑誌」を考える、ビジュアル満載、創造的トークショー。
批評の奇妙な思春期――1980年代/文学/メディア 斎藤 環(精神科医・批評家)×大澤 聡(批評家・メディア史研究者)@ジュンク堂池袋本店
2015/8/3収録大澤聡さんの『批評メディア論』が話題となっています。精神科医の斎藤環さんは『毎日新聞』の書評で批評の「風景を一変させる」成果であるとして、文体と視点の「新しさ」を絶賛されました。二人を掛け合わせるとどんな化学反応が起こるのか?批評の行方を占うべく、今回のイベントが企画されました。転換点となった1980年代の文化状況を復習するとともに、現在の文学やメディアにも目配りしていただきます。対話のなかで新たなパースペクティブが提示されることでしょう。年長の読者にとっては懐かしく、若い読者にとっては噂に聞けどよく知らぬ、そんな「80年代」について批評的に語り尽くす珍しい機会です。【講師紹介】斎藤環(さいとう・たまき)1961年生まれ。精神科医/批評家。筑波大学医学医療系社会精神保健学教授。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。専門は思春期・青年期の精神病理、病跡学。著書に『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)、『ビブリオパイカ――斎藤環書評集1997-2014』(日本評論社)、『世界が土曜の夜の夢なら――ヤンキーと精神分析』(角川書店)他多数。大澤聡(おおさわ・さとし)1978年生まれ。批評家/メディア史研究者。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。日本学術振興会特別研究員を経て、現在、近畿大学文芸学部専任講師。著書に『批評メディア論――戦前期日本の論壇と文壇』(岩波書店)。各種媒体にジャーナリズムや文芸に関する文章を発表。