タグ 徒然草 が登録されている動画 : 205 件中 129 - 160 件目
種類:
- タグ
- キーワード
対象:
話題の扱い方 『徒然草 気まま読み』#81
今回扱うのは、第七十八段。
全文を紹介すると…
今樣の事どもの珍しきを、いひ廣め、もてなすこそ、又うけられね。世にこと古(ふ)りたるまで知らぬ人は、心にくし。今更の人などのある時、こゝもとに言ひつけたる言種(ことぐさ)、物の名など心得たるどち、片端言ひかはし、目見あはせ、笑ひなどして、心しらぬ人に心得ず思はすること、世なれず、よからぬ人の、必ずあることなり。
今回も前回に続いて、「情報」というものはどう扱うべきと兼好が考えていたかがうかがい知れる段。新しいもの、珍しいものにすぐ飛びついて「拡散」させることは好ましくないと考えているところなどはいかにも兼好らしい。
でも、「新しもの好き」もそんなに悪くはないんじゃないかなあ…?
心を慰めるもの 『徒然草 気まま読み』#60
今回扱うのは、第二十一段。
前段部分を紹介すると…
萬の事は、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きものは有らじ」と言ひしに、またひとり、「露こそあはれなれ」と爭ひしこそ、をかしけれ。折にふれば何かはあはれならざらん。
ある人は、見て最も心を慰められるものは月だといい、ある人は露だと言い争う。
現代では考えられない論争で、時代の違いを感じさせられるが、逆に言えば現代人は何もせずに花鳥風月を眺めるような「すき間の時間」を持つ心の余裕を失っているのではないだろうか?
倹約を旨とすべし 『徒然草 気まま読み』#29
今回扱うのは、第二段。
全文を紹介すると…
いにしへの聖の御代の政をも忘れ、民の愁へ、國のそこなはるゝをも知らず、萬にきよらを盡して、いみじと思ひ、所狭きさましたる人こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。
「衣冠より馬・車に至るまで、あるにしたがいて用ゐよ。美麗を求むることなかれ」とぞ、九條殿の遺誡にも侍る。順徳院の、禁中の事ども書かせ給へるにも、「おほやけの奉物は、おろそかなるをもてよしとす」とこそ侍れ。
ここに出てくる「順徳院」の教えは、現在に至るまで、歴代天皇が守ってきたことである。
それがこの時代には、貴族の間にも共有されていたことになる。
いや、兼好がわざわざ書いているということは、実際には守られていないという現状があったということか?
下手なとぼけ方「徒然草気まま読み」#147
今回扱うのは、第九十段。
全文を紹介すると…
大納言法印のめしつかひし乙鶴丸、やすら殿といふ者を知りて、常にゆき通ひしに、ある時いでて歸り來(きた)るを、法印、「いづこへ行きつるぞ。」と問ひしかば、「やすら殿の許(がり)まかりて候。」といふ。「そのやすら殿は、男(をのこ)か法師か。」とまた問はれて、袖かき合せて、「いかゞ候らむ。頭をば見候はず。」と答へ申しき。などか頭ばかりの見えざりけむ。
この時代には同性愛に対して非常に大らかだったという文化を伝えている一段。
大納言法院というくらいの高い僧侶が、乙鶴丸という稚児を目にかけていた。
というか、はっきり言えばこの二人は男色の関係にあったわけだが、その乙鶴丸に、他に男が出来たらしく、しょっちゅう通っていくので、ある時大納言法院、そのことを問い質したら…
最後の兼好のツッコミも面白い。
空振りの話 『徒然草 気まま読み』#88
今回扱うのは、第五十四段。
途中まで紹介すると…
御室(おむろ)に、いみじき兒のありけるを、いかで誘ひ出して遊ばむと企(たく)む法師どもありて、能あるあそび法師どもなど語らひて、風流の破籠(わりご)やうのもの、ねんごろに營み出でて、箱風情のものに認め入れて、雙(ならび)の岡の便りよき所に埋(うづ)み置きて、紅葉ちらしかけなど、思ひよらぬさまにして、御所へまゐりて、兒をそゝのかし出でにけり。
前回・前々回に続いて、今回も仁和寺の法師の失敗談。
そんなに、仁和寺には変わった法師が多かったのだろうか?「御室」は仁和寺の別称。出家後の宇多天皇が、仁和寺伽藍の西南に「御室」(おむろ)と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室御所」と呼ばれる。
そんな皇室ともゆかりの深い寺なのだが、当時の寺は女人禁制、男だけの世界。
そこには、ある種の同性愛的な感覚があった。
ある時、仁和寺にたいそう評判の稚児がいた。法師たちは、その稚児の気を引きたくてしょうがなく、一計を案じる。
なんだか僧侶というより、ほとんど男子高校生みたいなノリなのだが、はたしてどうなる?
身に虱あり、君子に仁義あり 『徒然草 気まま読み』#68
今回扱うのは、第九十七段。
全文を紹介すると…
其の物につきて、その物を費し損ふもの、數を知らずあり。身に虱あり。家に鼠あり。國に賊あり。小人に財(ざい)あり。君子に仁義あり。僧に法あり。
いかにも兼好法師らしい、一筋縄ではいかない、不思議な文章。
「そのものにとりついて、そのものを弱らせ、ダメにしてしまうものは数限りなくある。」
なるほど、それはそうだろう。
「身に虱あり」「家に鼠あり」「國に賊あり」
これは説明されなくても、そのとおり。
「小人に財あり」
ちょっとひねってきたな。でもそうかも。
ここまではいいのだが、後の二つは、一体どういう意味!?
荒れたる宿の「徒然草気まま読み」#142
今回扱うのは、第百四段。
冒頭部分を紹介すると…
荒れたる宿の人目なきに、女の憚る事あるころにて、つれづれと籠り居たるを、ある人とぶらひ給はむとて、夕月夜のおぼつかなき程に、忍びて尋ねおはしたるに、犬のことごとしく咎むれば、げす女のいでて、「いづくよりぞ。」といふに、やがて案内せさせて入りたまひぬ。
ある女性が人目をはばかって粗末な家に侘び住まいをしていた。
そこに高貴な身分の男性が、夕暮れの月あかりの中を忍んで訪ねてきた。
情景描写が非常に細かく、情感たっぷりに語られる男女の切ない一夜のお話。
この段は、兼好が伝聞等から既述した小説的なものというのが通説。
しかし泉美さんは作家の感性と探偵の分析力で、今まであまり言われていない、しかし説得力のある新解釈を披露!
心惑わす色欲 『徒然草 気まま読み』#55
今回扱うのは、第八段。
全文を紹介すると…
世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは假のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥え膏(あぶら)づきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。
時代を超えた古典には、現代にもそのまま通用する普遍性がある。
そしてその作者について、何世紀も前の人とは思えないような親しみを感じるところがある。
今回紹介する段は、まさにその二つの特徴が良く表れている。
とにかく、人間というものは「色欲」には逆らえない。
これはまさしく兼好の人間観察からも、そしておそらく兼好自身の体験からも導かれた、どんなに時代が移っても変わらない真理!
そして、このような体の人であれば、もう一層逆らえない…と言っているあたり、それは兼好の好みでは?と、隠しきれない人間性が滲んでいるところが、なんとも微笑ましい!
【実況初心者】 徒然草 最終回 【頑張ってみた】
なんだここ
長いぞ!!! part11⇒sm8042728/マイリスmylist/13173063/
己龍 kiryu 徒然草 ギター 弾いてみた!
超絶Kuro豹です!
己龍 徒然草 九条武政さんpart 弾いてみた!
Brog→http://profile.ameba.jp/tdg0602/
twitter→https://twitter.com/#!/TDG0602
一覧→http://www.youtube.com/user/TDG0602?f...
母の教育「徒然草 気まま読み」#103
今回扱うのは、百八十四段。
鎌倉幕府の執権・相模守時頼の母、松下禪尼のエピソード。
時頼を招く際、すすけた障子の破れたところだけを、禪尼自ら貼り替えていた。
そんな仕事は禪尼自らする必要もないし、そもそも破れたところだけを一コマ一コマ貼り替えるよりも、全部貼り替えた方が簡単できれいなのに、なぜわざわざそんな手間のかかることをしなければならないのか、と問われて、禪尼が答えたこととは?
幕府の最高権力者に上り詰めた息子に対してなお、むしろそのような立場になったからこそ、母として見せておきたかった態度とは何か?
酒乱に気をつけろ 『徒然草 気まま読み』#84
今回扱うのは、第八十七段。
結論は、最初の一行。
下部(しもべ)に酒のまする事は心すべき事なり。
下僕に酒を飲ませる時には、注意しなければならない。
これに続いて、その結論に至らしめるエピソードが語られる。京に住む具覺坊という遁世僧、宇治の親戚のところへ行くための迎えの馬が遣わされてきたので、長い道中のこととて、気を利かせたつもりで馬の口取りの男に酒を一杯勧めた。
ところがこの男、ちょいと一杯のつもりがぐいぐいやり出し、しかもとんでもない酒乱だったものだから、本当にシャレにならないことになってしまう…
お酒を勧めるなら、まず相手をよく見てからにしましょう!
デジャヴ体験 『徒然草 気まま読み』#72
今回扱うのは、第七十一段。
後半部分を紹介すると…
またいかなる折ぞ、たゞ今人のいふことも、目に見ゆるものも、わが心のうちも、かゝる事のいつぞやありしがと覺えて、いつとは思ひ出(い)でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。
デジャヴ、何かの折に「既視感」を覚えるということはよくあるものだが、そのことについて文章に書かれたものとしては、極めて古いものといえる。
前段は兼好法師の独特な感性による、そして後段はわりと普遍的な感覚のデジャブについて語られる。
些細なこと、取るに足らないことと思われそうなことにも注目し、書き留めていることもまた、兼好法師の特徴であり「徒然草」の面白さのひとつ。
頂点を極めず「徒然草気まま読み」#146
今回扱うのは、第八十三段。
前半を紹介すると…
竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はむに、何の滯りかおはせむなれども、「珍しげなし。一の上(かみ)にてやみなむ。」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相國(しゃうごく)の望みおはせざりけり。
律令国家においては、太政大臣が臣下としての最高位であった。
西園寺公衡は、恵まれた境遇にあり太政大臣の地位に就くことはほぼ確実であったにもかかわらず、左大臣でやめておこうと、自ら出家してしまった。
しかも、そのことに共感した藤原實泰も、望みのあった太政大臣の位を目指さなかった。
あえて頂点を目指さないという価値観に兼好も共感し、これを紹介しているわけだが、そこにある美学とは一体何だろう?
手近なことをきちんとすべし「徒然草気まま読み」#161
今回扱うのは、第百七十一段。
最初の部分を紹介すると…
貝をおほふ人の、わが前なるをばおきて、よそを見渡して、人の袖の陰、膝の下まで目をくばる間(ま)に、前なるをば人に掩はれぬ。よく掩ふ人は、よそまでわりなく取るとは見えずして、近きばかりを掩ふやうなれど、多く掩ふなり。棊盤のすみに石を立てて彈くに、むかひなる石をまもりて彈くはあたらず。わが手もとをよく見て、こゝなるひじり目をすぐに彈けば、立てたる石必ずあたる。
最初は当時行われていたゲームの話から始まる。
そこから話は一気に政治の正しいあり方を説き、医学書の話、遠征の話にまで行く。
小さなことから大きなことまで、大切なことは共通しているというのだ。
ジャンルにとらわれず、その本質を見極めようとする兼好の柔軟な発想がよくわかる一段。
豆と豆殻の会話「徒然草気まま読み」#145
今回扱うのは、第六十九段。
一部紹介すると…
書寫の上人は、法華讀誦の功積りて、六根淨にかなへる人なりけり。旅の假屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮る音の、つぶ\/と鳴るを聞きたまひければ、「疎からぬ己等しも、うらめしく我をば煮て、辛(から)き目を見するものかな。」といひけり。
兼好法師はかなり合理的な人というイメージがあるが、たまに不思議な話も書いている。
これもその一つで、仏教最高の経典とも言われる法華経を読み続け、心身全て清らかな境地に至った上人には、普通の人民にはとてもできない特殊な能力が備わるという話なのだが、その特殊な能力というのがなんと…
信心や修行についての話となると、ちょっと扱いが変わってくるところが面白い。
客の心得 『徒然草 気まま読み』#63
今回扱うのは、第百七十段。
最初の部分のみ紹介すると…
さしたる事なくて人の許(がり)行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば疾く歸るべし。久しく居たる、いとむつかし。
大した用もなく人を訪ねるのはよくない。用があって行ったとしても、用事がすんだらすぐ帰るべきである。
…とは言っているが、一度言ったことを杓子定規に何でもかんでもに当てはめるということはせず、一見、矛盾しているようなことをすぐ後に書いたりするのも徒然草。
ここでは、「客に行くとき」と「客を迎えるとき」で違うことを言っている。またそれが、兼好法師の懐の深さなのかも。
月見る景色なり 『徒然草 気まま読み』#23
今回扱うのは、第三十二段。
旧暦9月20日ごろ、ある人に誘われて、兼好は明け方まで月を見て歩くことになった。
現代人にはない時間の使い方である。
するとその途中で、誘ったその人は兼好を置いてある家に入って行く。
兼好、置いていかれたことを特に気にするでもなく、家や庭の様子の風情を味わい、その家の主の人となりを思い浮かべる。
さりげなく、そしてはかない余韻の残る、情緒あふれる徒然草の一つの世界。
人の臨終の有様「徒然草気まま読み」#158
今回扱うのは、第百四十三段。
全文を紹介すると…
人の終焉の有樣のいみじかりし事など、人の語るを聞くに、たゞ、「靜かにして亂れず。」といはば心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相を語りつけ、いひし言(ことば)も擧止(ふるまひ)も、おのれが好む方に譽めなすこそ、その人の日ごろの本意にもあらずやと覺ゆれ。この大事は、權化の人も定むべからず、博學の士もはかるべからず、おのれ違ふ所なくば、人の見聞くにはよるべからず。
人の臨終の様子を語り伝える時に、たとえほめそやすつもりでも、話を盛って伝えることは決してその人の本位に沿うことではないとたしなめる兼好。
そもそも、人がどのように訪れるかなどは、誰にも予想することはできない。ただその人の日ごろの心がけに違わぬ形で迎えられれば、それでいい。
常に死が自分の身近に、しかも後ろにあるという捉え方をしている兼好の考えがよく表れた、短いながらも味わい深い一段。
「若者と老人」徒然草気まま読み#123
今回扱うのは、第百七十二段。
一部をご紹介すると…
若き時は血氣内にあまり、心物に動きて、情欲おほし。身をあやぶめて碎け易きこと、珠を走らしむるに似たり。美麗を好みて寶を費し、これを捨てて苔の袂にやつれ、勇める心盛りにして物と爭ひ、心に恥ぢ羨み、好む所日々に定まらず
若者と老人の比較、考察をする一段。
若者は何かと血気にはやって「若気の至り」というようなことをやってしまうものだが、老いると精神が衰え、そう心を動かすこともなくなるもの。
ただ、老人には決して若者には及ばぬものがあり、若者には決して老人にはない優れたものがある…というのだが、若者の利点は現代でも変わらないのに対して、老人の利点の方は、現代には果たして存在しているだろうか…?
何事もあてにするな 『徒然草 気まま読み』#49
今回扱うのは、第二百十一段。
一部を紹介すると…
萬(よろず)の事は頼むべからず。愚かなる人は、深くものを頼むゆゑに、うらみ怒ることあり。
勢(いきお)ひありとて頼むべからず。こはき者まづ滅ぶ。財多しとて頼むべからず。時の間に失ひやすし。才ありとて頼むべからず。孔子も時に遇はず。徳ありとて頼むべからず。顔囘も不幸なりき。
何かをあてにする、誰かを頼りにするということをするから、それがうまくいかなかった時には、あてにしたものに対して恨みを持つということになる。始めから何もあてにしなければ、うまくいかなくても誰も恨まず、うまくいけば自然に感謝ができる。
あてにしないということは、寛容の心である。
そもそも、世の中に本当にあてにできるものなんてあるだろうか?
厳しいことを言っているが、この言葉に兼好が込めた、生きるうえで意識しておかなければならない心構えとは?
又五郎の凄さ「徒然草気まま読み」#141
今回扱うのは、第百二段。
前半部分を紹介すると…
尹(いんの)大納言光忠入道、追儺の上卿(しゃうけい)を務められけるに、洞院右大臣殿に次第を申し請けられければ、「又五郎をのこを師とするより外の才覺候はじ。」とぞ宣ひける。かの又五郎は老いたる衞士の、よく公事に馴れたる者にてぞありける。
宮中で大晦日に行われる重要な行事の実行責任者を務めることになった尹大納言光忠入道、滅多にあることではないので、どうすればいいのかと、その式次第を洞院右大臣に聞いたところ、又五郎に聞く以外にないとの答え。
上級貴族が一目置く、その又五郎とは誰か?
身分に関係なく、現場の人物の能力を正当に評価しているところに注目。
日暮れて道遠し「徒然草気まま読み」#138
今回扱うのは、第百十二段。
冒頭を紹介すると…
明日は遠國(ゑんごく)へ赴くべしと聞かむ人に、心しづかになすべからむわざをば、人いひかけてむや。俄の大事をも營み、切(せち)に歎くこともある人は、他の事を聞き入れず、人のうれへよろこびをも問はず。問はずとてなどやと恨むる人もなし。
人は世俗のことを軽視するわけにはいかないし、それから簡単に逃れることはできない。
しかし、人生は短い。これでは、一生を些事に囚われて終わることになってしまう。
では、どう考えればいいのか?
兼好法師が我が身と人生を振り返って言っているとしか思えない、荒々しい魂の叫びを聴こう!
「古さの名誉」徒然草気まま読み#117
今回扱うのは、第九十九段。
短いので、全文をご紹介。
堀河の相國は、美男のたのしき人にて、その事となく過差を好み給ひけり。御子基俊卿を大理(だいり)になして、廳務を行はれけるに、廳屋の唐櫃見苦しとて、めでたく作り改めらるべきよし仰せられけるに、この唐櫃は、上古より傳はりて、そのはじめを知らず、數百年を經たり。累代の公物、古弊をもちて規模とす。たやすく改められ難きよし、故實の諸官等申しければ、その事やみにけり。
どんなに経済的に裕福であろうと、あるいは権力を持っていようと、踏み越えられない一線がある。
簡単に変えてはいけないものがある。
そのことを、誰もが自然にわきまえていたということがわかる一段。
日本に保守主義というものがあるとしたら、その源流だともいえるような話だが、現代の日本の「保守」に、この感覚はあるだろうか?
恋の深淵 『徒然草 気まま読み』#89
今回扱うのは、第二百四十段。
全体に名文だが、特に格調の高い結論部分だけ紹介すると…
梅の花かうばしき夜の朧月にたゝずみ、御垣(みかき)が原の露分け出でむありあけの空も、わが身ざまに忍ばるべくもなからむ人は、たゞ色好まざらむにはしかじ。
うまくいく恋などつまらない、障害があってこそ恋は燃え上がる。
当時の寿命を考えると既に「老人」の域に入っていたはずの兼好だが、恋について語る感覚は若者のようにロマンティックである。
それは、現在の人間よりも情熱的だとさえいえるものがある。
興味の湧いた人は、ぜひ全文を原文で読んでみよう!
「尊い罵倒」徒然草気まま読み#122
今回扱うのは、第百六段。
一部をご紹介すると…
高野の證空上人京へ上りけるに、細道にて馬に乘りたる女の行きあひたりけるが、口引きける男あしく引きて、聖の馬を堀へ落してけり。聖、いと腹あしく咎めて、「こは希有の狼藉かな。四部の弟子〔四衆とも云ふ、釋迦の弟子の四種〕はよな、比丘よりは比丘尼は劣り、比丘尼より優婆塞〔俗のまゝなる男の佛弟子〕は劣り、優婆塞より優婆夷〔俗のまゝの女の佛弟子〕は劣れり。かくの如くの優婆夷などの身にて、比丘を堀に蹴入れさする、未曾有の惡行なり。」
高野山の身分の高い僧侶である證空上人が京に上った時の話。細い道でトラブルに遭ってしまった上人、思わず逆上してしまって…
徳を積み、いとやんごとなき位に就いた僧侶といえども、とっさの時にはどんな言動をするかわからない。むしろ、何の修行もしていない無学な男の自然な態度の方が超然としているようにさえ見える。
ふとしたことから人の本性が現れる瞬間、まさに兼好の「大好物」ともいえる場面を描いた一段。
「虚空よくものを容る」徒然草気まま読み#120
今回扱うのは、第二百三十五段。
一部をご紹介すると…
主(ぬし)ある家には、すゞろなる人、心の儘に入り來る事なし。主(あるじ)なき所には道行人(みちゆきびと)みだりに立ち入り、狐梟やうの者も、人氣(げ)にせかれねば、所得顔に入り住み、木精(こだま)などいふけしからぬ形もあらはるゝものなり。
人の心に関する、ちょっと面白い分析。
心に様々な思念が浮かんで気持ちが揺らぐことがあるのはなぜだろう?
仏門に入りながら、なお情緒豊かに様々なことを思い感じ取ってきた兼好だからこそ思い至った、心の謎についての詩的な考察。
今でしょ!「徒然草 気まま読み」#104
今回扱うのは、五十九段。
前半部分を紹介すると…
大事を思ひたたむ人は、さり難き心にかゝらむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん、行末難なく認め設けて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとゞ重なりて、事の盡くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。
ここでは具体的には出家を決意した人について語っているが、現代の我々の心構えとしても完全に通用する。
何か大事なことをやろうと決心しながらも、いざ実行に移そうとすると何かと気にかかることがあってなかなか踏み出せないということはある。
しかし、そんなことを言っていたら、一生いつまでもできっこない。いつやるの?今でしょ!
…と、ここまでなら、塾の講師からでも聞きそうな話だが、見どころは後半。
今すぐやるしかない、その理由として兼好が言うことは実に激烈!
そう考えれば、確かに今すぐやるしかない!
有り難き志 『徒然草 気まま読み』#85
今回扱うのは、第四十七段。
全文を紹介すると…
ある人清水へ参りけるに、老いたる尼の行きつれたりけるが、道すがら、「嚔(くさめ)嚔」といひもて行きければ、「尼御前(あまごぜ)何事をかくは宣(のたま)ふぞ」と問ひけれども、答へもせず、猶(なお)言ひ止まざりけるを、度々問はれて、うち腹だちて、「やゝ、鼻ひたる(くしゃみをする)時、かく呪(まじな)はねば死ぬるなりと申せば、養ひ君の、比叡の山に兒にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はむと思へば、かく申すぞかし」といひけり。
有り難き志なりけんかし。
ある老尼の、ちょっと不可解な行動。
なぜ彼女はそれをやっていたのか?
その老尼の行為をどう解釈し、どういう感想を持つかは、人によって分かれるところ。
そもそも、原文も写本によっては最後の「有り難き志」が「わりなき志」になっているものもあり、正反対の解釈も可能となっている。
しかし、これはやっぱり「有り難き志」と取るべきでは?
雪の朝の手紙 『徒然草 気まま読み』#70
今回扱うのは、第三十一段。
全文を紹介すると…
雪の面白う降りたりし朝、人の許(がり)いふべき事ありて文をやるとて、雪のことは何ともいはざりし返事に、「この雪いかゞ見ると、一筆のたまはせぬ程の、ひがひがしからん人の仰せらるゝ事、聞き入るべきかは、かへすがえす口惜しき御心なり」と言ひたりしこそ、をかしかりしか。
今は亡き人なれば、かばかりの事も忘れがたし。
雪の降る趣深い朝に送った手紙のやり取りをめぐる、ちょっとしゃれたお話。ほんの些細な出来事なのだが、それを印象に留めて書き記している兼好法師の情緒がしのばれ、その手紙の相手の人となりや、関係性までいろいろ想像したくなってくる、微笑ましい一段。
「慈悲の心」徒然草気まま読み#108
今回扱うのは、第百二十八段。
冒頭を一部紹介すると…
雅房大納言は、才賢く、善き人にて、大將にもなさばやと思しける頃、院の近習なる人、「只今、淺ましき事を見侍りつ」と申されければ、「何事ぞ」と問はせ給ひけるに、「雅房卿、鷹に飼はんとて、生きたる犬の足を切り侍りつるを、中垣の穴より見侍りつ」と申されけるに、うとましく、にくくおぼしめして、日ごろの御氣色も違(たが)ひ、昇進もしたまはざりけり。
動物に対しても、どんな小さなもの、弱き者、愚かな者にも、小さきもの、弱き者、愚かな者だからこそ情けを掛けなければならない。
元・武士であったことの片鱗をうかがわせる場面も時々見せる兼好だが、ここではまさに法師らしい慈悲の心を語る。
そして、このような境地に至ったからこそ武士を捨てたのではないかとも思わせる一段。
ぼろぼろの話「徒然草 気まま読み」#107
今回扱うのは、百十五段。
前半から紹介すると…
宿河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集りて、九品の念佛を申しけるに、外より入りくるぼろぼろの、「もしこの中(うち)に、いろをし坊と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候。かく宣ふは誰(た)ぞ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。おのれが師、なにがしと申しし人、東國にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。
『徒然草』に人生訓のようなものを求めている人は、まず引用しない段。
「ぼろぼろ」とは、無宿者、ならず者、ゴロツキの類の者たちのこと。
その無頼そのもののエピソードを紹介し、彼らの性格などについても決して快く思っていない様子の兼好なのだが、最後に好感を寄せているような一言を添えて締めくくっている。それはなぜか?