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プロ野球チームをつくろう!アドバンスに登場する元助っ人たち
ども。生きとります。
今回はやきゅつくアドバンスに登場する、かつての助っ人選手を紹介します。
なお、このゲームが発売した2002年当時の在籍助っ人選手は含まれておりません。
懐かしの助っ人選手 ブライアン・ギブンス
つべより。2m近くの長身から投げおろすサウスポーとして1997年に西武と契約。来日初登板初先発で完封勝利を挙げた。その後も完封勝利を挙げたが徐々にコントロールの悪さを露呈し、77イニングで62個の四球を出すお粗末な結果となってしまった。この年限りで同期入団のロバートと共に解雇となった。
懐かしの助っ人外国人選手 ジェイソン・グラボースキー
つべより。2006年にオリックスに在籍。マイナー時代中村紀洋とクリーンナップを組んでいたという縁で、中村が移籍したオリックスへやってきたがあまりの低打率のひどさと4本しかHRを打てないことから1年で解雇された。
【懐かしの助っ人選手】 マーク・ミムズ
つべより。1990年にドジャーズに入団したがメジャー経験は無い。
メッツのマイナー在籍時の成績が評価され、1998年のシーズン途中にオリックスと契約。
オリックス在籍のフレーザーとの併用で使われることが多く、9月ごろから先発陣の一人として使われた。
1999年は先発以外にリリーフとしても使われた。オフに退団した。
1985年日本シリーズ バース
1985年日本シリーズ バース■オリックス 鉄壁の外野陣→sm5831090■助っ人外国人列伝→sm5831052■長嶋茂雄偉人伝説→sm5831070■ベッケンバウアー→sm5831166
懐かしの助っ人選手 ロバート・ウィッシュネフスキー
つべより。1997年に西武と契約。メジャー経験はなく、台湾リーグでストッパーを務めていた経歴がある。156Kmの速球がアピールポイントで、主にストッパーとして勤めていた。前半は防御率が1点台だったのが徐々に弱点を突かれたのか最終的には4点台までに悪化した(これが影響しストッパーからは外されている)。同期のギブンスと共に解雇された。
懐かしの助っ人外国人選手 チャド・アレン
つべより。アトランタオリンピックや北京オリンピック予選でアメリカ代表で4番を打った実績のある選手として2007年オリックスに移籍した。右打ちがうまく、打率.286と決して悪くはなかったもののHRはわずか4本止まりと助っ人としては迫力不足だったので解雇となった。
懐かしの助っ人外国人選手 ジャスティン・ジャマーノ
つべより。リトルリーグ時代にマーク・マグワイアのシーズン最多本塁打記録を破ったことがある。メジャーでは通算8勝を挙げ2009年にホークスと契約。交流戦での広島戦で雨天コールドだったものの初先発での完投で来日初勝利を挙げている。シーズン通して14試合登板で5勝を挙げたものの本人のメジャー志向により1年で退団。その後はインディアンズで中継ぎとしてプレーするものの、2011年は韓国でプレーしている。
懐かしの助っ人選手 シェーン・バワーズ
つべより。2001年に森新監督率いる横浜と契約。先発ローテーションの一角を担う存在としての入団だったが1年目は3勝(13敗)、2年目は4勝(8敗)しか挙げられなかった。2002年オフに退団。04~05年在籍のバワーズとは無関係。
懐かしの助っ人選手 ルディ・ペンバートン
つべより。1997年途中に西武と契約。しかしその直後に故障になり、復帰後もろくな成績を残せずにいたが最終戦で満塁本塁打を放ち残留。1998年は9月までろくな働きをしなかったが、9月あたりから急激に調子を上げ一時期は4番を任せられるようになった。しかし守備面にやや雑さが目立ったためこの年限りで解雇となった。
元楽天 アンディ・トレーシー メジャーでのタイムリーヒット
2009年9月13日の試合らしいです。この年はフィラデルフィア・フィリーズに所属しています。
懐かしの助っ人選手 ティモニエル・ペレス
つべより。カープアカデミーを経て1996年広島と契約。打撃は荒かったがパンチ力があり守備も無難にこなす選手だった。俊足で代走で起用されることも多かった。1999年に退団し、その後メジャー球団を数球団渡り歩いた。
懐かしの助っ人選手 エドウィン・ハタド
つべより。1998年にオリックスと契約。自慢の速球を武器に1年目は先発・中継ぎ・抑えフルに活躍しオールスターにも出場した。この年は8勝を挙げている。翌年も中継ぎとして活躍したものの、眼の負傷によりこの年限りで退団した。
懐かしの助っ人外国人選手 クリフ・ブランボー
つべより。2005年に合併オリックス新助っ人第一号として入団。その年はオリックスの主砲として活躍するが翌年は打撃不振で解雇となった。打撃フォームがアッパースイングの為、ポップフライが多かった。
懐かしの助っ人外国人選手 アダム・リグス
つべより。05年にヤクルトに入団。06年には「バントをしない二番打者」として39本塁打を放つ活躍をする。翌年は主軸の岩村が抜けたことにより代わりの主軸として活躍を期待されたが怪我などがあり全く活躍できなかった。さらに翌年は不振とやる気の無さから首脳陣の怒りを買い、シーズン途中で解雇となった。
懐かしの助っ人選手 ウィリー・フレーザー
つべより。メジャー時代はエンゼルス在籍時に2年連続二桁勝利を挙げている。1996年にオリックスと契約し、その年リーグ優勝・日本一を経験する。強面であるが性格は繊細だという。98年まで在籍し、通算25勝を挙げた。現在は評論家を務めている。
懐かしの助っ人選手 デイヴ・ハンセン
つべより。メジャー時代は主に代打要員として活躍した。1998年にNPBと親交のあるトミー・ラソーダからの推薦で阪神と契約。当初は打率3割、90打点は行けるという触れ込みの元の契約でクリーンナップを組んだが、結果として打率は253となった。また三塁手だったが、17失策を記録している。この年限りで退団。
懐かしの助っ人外国人選手 ライアン・グリン
つべより。2006年は楽天に在籍し7勝を挙げるも交渉決裂で2007年日ハムに移籍。この年は交流戦で最優秀選手に選ばれるなど前年とはウソのような活躍を見せたが翌年はリーグワースト14敗を記録し解雇。2009年は先発不足に悩む横浜に移籍するも外国人投手としては20年ぶりの15敗を記録しこの年限りで退団した。
【千葉ロッテマリーンズ】ミラー 投手
06年在籍。まだYFKが健在でさほどリリーフに困っていたわけでもないのに「02年にメジャーで9勝」という売り文句でシーズン途中に入団。たしかに150kmを越える剛速球はかなりの威力があったものの、変化球をストライクゾーンに投げられずクイックも下手でボコボコに打ち込まれ二軍落ち。シーズン終盤に敗戦処理として戻ってきたが、12試合で防御率10点台では評価しようもなかった。
懐かしの助っ人選手 エリック・アンソニー
つべより。メジャー5球団を渡り歩き1998年にヤクルトとシーズン途中で契約。1997年本塁打王のホージーの不振、新入団のムートンの途中解雇もあって期待も大きかったが故障癖があり、44試合で12本塁打を放ったがこの年限りで解雇。ポジションは外野手だったが1試合しか守る機会がなく大半は1塁を守っていた。
懐かしの助っ人 C・D(クリス・ドネルス)
つべより。メジャー3球団を渡り歩き1996年に近鉄と契約。20本塁打を放つが1年で退団。翌年オリックスに移籍し、1年目は打率3割と17本塁打を放つも2年目以降は成績がガクンと落ち3年目は1軍登録なしで解雇された。引退後はオリックスバファローズのスカウトを務めた。
懐かしの助っ人選手 バーナード・ブリトー
つべより。メジャー時代はマイナーでは良く打つものの、メジャー昇格だと全く打てないため「ミスター・マイナーリーグ」と呼ばれていた。1995年途中に不振のマッキントッシュの代わりに入団し、56試合で21本と驚異のペースで打つが身内の不幸で帰国。1996年は29本塁打を放つが、練習法が合わないとしてそのまま退団した。
懐かしの助っ人選手 ルイス・アキーノ
つべより。メジャー時代は通算31勝を挙げている。96年、近鉄と契約した。その風貌から「投げるマリオ」とも呼ばれ、この年11勝と好成績を残すもわずか1年で解雇となった。因みに西武戦では滅法強く、6勝を西武から勝ち星を挙げている。
懐かしの助っ人選手 ケビン・ライマー
つべより。メジャーで通算52本塁打、1991~93年まで100安打を達成した実績を持って1994年ホークスと契約。ホークスの選手として初の福岡ドームでの満塁本塁打を記録するなど大活躍をし、この年、打率298、26本塁打、97打点をマークし、外野手としてベストナインに輝いた。翌年は一転、故障により成績ががた落ちとなり1996年の開幕直前になって解雇された。
懐かしの助っ人選手 ロブ・デューシー
つべより。メジャー時代は3球団を渡り歩き、1995年に日ハムと契約。主に1番として起用され、1番起用なのに良く本塁打を放つことから「恐怖の1番打者」と呼ばれた。1995年は25本塁打、1996年には26本塁打放つなどなかなかの活躍を見せたが、打率が低打率なのがネックだったために1996年限りで退団となった。
懐かしの助っ人選手 ウェス・チェンバレン
つべより。メジャー時代には通算43本塁打を放っている。1996年シーズン途中にウィットモアと共にロッテと契約。先に獲得した助っ人がまったくのはずれで途中解雇になったための代役であった。初打席でいきなり活躍し、シーズン終了まで4番を務めたが思うような成績は残せずオフに解雇となった。