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シーイーの古都京都巡り093感応寺
京都府民のシーイーが主に地元の神社や仏閣を、
独自の視線での紹介動画になります。
今回は
「感応寺」
です。
鹿児島県の寺院は、明治初期の廃仏毀釈で壊滅しました。
この寺院は鎌倉初期から鎮座と、島津家からの崇拝により、
由緒が深い事から、当時のご住職は、寺宝を守り切るというパワーを発揮。
臨済宗の開祖「栄西」が初めて建立した寺院であり、
島津家初代から五代までのお墓があるほどの、
実は大きな寺院だったりします。
創建天平元年〜 臨済宗 樂音山 「日光寺」〜 山口県岩国市寺山
サムネは本堂の眺め。山の樹々風情がとても良い。高照寺山麓の長宝寺でも同じ感想を持ちました。
情報がないので国道の案内板にあった情報のみ。
古い伽藍はもう残っていないようだけど・・1300年の歴史のある寺院ですね。
寺歴がよくわからないんですがおそらく天平時代(行基創建)密教寺院〜臨済宗の流れかと。
長寶寺とやはり歴史も似てますよね。
本尊は釈迦如来=寺社の紹介サイトにあった。臨時天龍寺派。
明治に開かれた岩国の南八十八ヶ所巡礼の第四十八番霊場。薬師如来。
この霊場のことはGoogleマップで霊場案内図を作っている方がありそこで知りました。
場所 国道2号線 岩国市保木を過ぎたあたりの大きなカーブ鳴滝橋を渡る手前の山への道をとる。Googleマップだと迫田橋バス停が最寄りのようです。
渓流沿いに山へ入る。途中田んぼが多く緑がきれいな田園地帯。道の最後部まで行くが見つからず都合2回行きました。最奥部(行き過ぎです)やや手前に脇へ登る道があり寺院下へ至る。
案内板等ないので分かりづらい。2号線分岐から車で5分程度を目安に。
寺山地区をあちこちぐるぐる回りました。細い道がたくさんある。
周防安国寺遺跡 臨済宗 日照山 高山寺と庭園(江戸期築庭のようです) 秋
高山寺は 元応二年(1320年)周防の豪族 理性居士に招かれ棊山賢仙により開山された古刹 賢仙和尚は夢窓国師の学弟にあたる名僧 没後 勅命にて照普済禅師の号を送られた名僧。
室町初期足利尊氏、夢窓国師らが図り南北朝期の戦死者の追善と国家安泰の祈祷場として一國一ヶ寺 安国寺が設置された。周防國では高山寺が充てられた
しかし旧安国寺の建物は江戸時代に記録、寺宝などとともに火災で焼失したそうです。
現在の本堂は平成元年再建。
本堂の御本尊は参拝したとき拝見ましたが千手観音様に見えました?どうなんだろう。
庭園は江戸期のものらしい 柳井市名勝指定。大きなモクセイの木は同市の天然記念物指定。花は9月〜10月らしいですが10月の終わりもうありませんでした。
古 庭園は心字池(今は水は張られていない)にかつては小さな滝組石から落水させ、背後の周防富士〜 氷室がヶ岳を大きく借景にしており大きな空間を生かしてあるようです。今も借景側にはほとんど建物もない(わずか見えますが)ので雄大な感じがします山がいい。植栽が剪定されて水があれば美しいでしょうね。
youtubeでリスナーさんに教えていただいたのですが本堂横の開山堂に釈迦如来像と阿難像などが安置されているのは焼失前の本堂の本尊だそうです。
追記:2021.1.2開山堂(1月1〜3日開放らしい)参拝してきました。釈迦如来像〜端正なリアルな感じの坐像(蓮華座に座して黄金の後背が大きなもの)右が阿難像、左に摩訶迦葉像がありました。リアルな感じの像で鎌倉時代らしいというんでしょうかね。
近くに古くは氷室ヶ岳の八合目あたりにあったという氷室亀山神社があるので合わせて参拝したいものです。歴史もあり小さい神社ですが静かに参拝できます。御朱印の書き置きもありました。
防長路巡り https://www.nicovideo.jp/series/19894?ref=user_series
峨眉山 普賢禅寺(臨済宗)普賢堂 と開山堂 山口県光市室積 令和2年6月
普賢寺(普賢禅寺)は伝では、性空上人開基とされ、境内寺歴の解説によれば一条帝の御代 寛弘3年(1006年)開基。開山は大林玄侑和尚という方らしい。
元は天台宗でのちに臨済宗に代わった古刹です。 御本尊は漁師により海中より引き上げられた象に乗った普賢菩薩像でありその出現のいわれから海難除けの守護仏の寺とされる。ちなみにご開帳は50年に一度だそうです次回は20年後らしい。
普賢堂は豪壮な建物で、まるで神社の拝殿と繋がった本殿見たいない感じに見える大きなもの。
寺伝の伝説では普賢菩薩を拝す願いを持った性空上人が、夢告に導かれ周防國熊毛郡の室積に来て、海中より引き上げられた普賢菩薩像にまみえ、草庵を建て祀り、後に寺院や普賢堂が建立されたというものである。どこまでが史実かは不明。
性空上人の最晩年の史実と寺伝は境内の解説版でも違っておりその辺は不明。実際に上人が来たのかその法門に連なるものか?天台系の僧が開基説話に仮託したものか?
毛利氏の祈願所として御手普請の寺として寺格も高かった。
現山門(仁王門)は寛政十年(1798年)建立で仁王像と楼上には十六羅漢像が安置されるそうです。
2020年6月 再訪。 梅雨の合間に参詣 記録
詳しい方のお話では昔は、周防安国寺だった柳井市伊陸の高山寺の末寺の筆頭だったらしいですね。
普賢寺伝雪舟 枯山水 sm37174525
普賢寺周辺(普賢菩薩対面の松、早長神社、御旅所、みたらい湾) sm37253466
普賢寺周辺〜海商通りと象鼻ヶ岬(2019年) sm35457880
普賢寺(2019年) sm35414670
妙見宮鷲頭寺 (お隣の街〜山口県下松市中市) sm35565588
臨済宗建仁寺派 峨眉山・普賢寺(海難除けの守護仏の普賢菩薩堂と伝雪舟作 枯山水庭園)光市室積
普賢寺(普賢禅寺)は伝では、書写山の性空上人開基とされ、境内寺歴の解説によれば一条帝の御代 寛弘3年(1006年)開基。開山は大林玄侑和尚という方らしい。
元は天台宗でのちに臨済宗に代わった古刹です 御本尊は漁師により海中より引き上げられた普賢菩薩像であり海の難除けの守護仏の寺とされる。ちなみにご開帳は50年に一度だそうです (´・_・`)> 私は絶対拝見できないですね。
伝説では普賢菩薩を拝す願いを持った上人が、夢告に導かれ周防國熊毛郡の室積に来て、海中より引き上げられた普賢菩薩像にまみえ、草庵を建て祀り、後に寺院や普賢堂が建立されたというもの。
性空上人の最晩年の史実と寺伝は境内の解説版でも違っておりその辺は不明。
毛利氏の祈願所として御手普請の寺として寺格も高かった。
現山門(仁王門)は寛政十年(1798年)建立で仁王像と楼上には十六羅漢像が安置されるそうです。
庭園は室町時代の作とされ、大きな正方形の平庭で、三尊石組みの中心にした立石存在感がある。 峨眉山の樹木も取り込んだ庭で、山口県でも最古層になるの枯山水庭園とされるそうです。夏に再訪したら蚊に襲われました注意w
室積の中心の山の峨眉山(樹林は天然記念物)や半島部の先端、周防橋立とも言われる。象鼻ケ岬は
かつて島で、伸びた砂州がつながっり陸繋島となって半島になっている。室積の街並み自体が砂州の上にあるようです。*長くなるので 街並みや、神社や古跡、海の景色は別の機会つくろうかな。
最近参詣した寺院の中でもピカイチでした。
訂正 字幕 お参りの時唱える真言→おんさんまやさとばん です(なおってなかったわw)
普賢寺伝雪舟 枯山水 sm37174525
普賢寺周辺(普賢菩薩対面の松、早長神社、御旅所、みたらい湾) sm37253466
普賢寺周辺〜海商通りと象鼻ヶ岬(2019年) sm35457880
普賢寺(2019年) sm35414670
妙見宮鷲頭寺 (お隣の街〜山口県下松市中市) sm35565588
奈良県 大和小泉 「慈光院」( jikou in ) 片桐石州建立の寺
石州流=徳川幕府公式茶道の一つ 武家茶 大名茶。
茶道石州流 流祖片桐石州公(大和小泉藩主)が、父の菩提を弔うために創建
臨済宗大徳寺派の禅寺 重要文化財 高林庵茶室などあり
茅葺の屋根は茨木城の城門を移築し茅葺に仕立てたもの。
山門入った動画部分いらなかったなあw 動画はあれしか撮ってないもんでしかし上手く映ってない^^;
訂正:三代家光茶道師範X(家光公の頃は小堀遠州) →四代家綱公の茶道師範。
2013年9月の厳しい残暑の頃に駅から迷って地元の人に聞きながらようやくついた思い出。
拝観して書院でお抹茶をいただきました^^;
鷹の羽の交差した片桐家の家紋の形のお菓子が美味しかったですw(落雁に餡が入ってる感じ)
買って帰りました^^
あと油入らず麺の 石州麺も美味。
所在 奈良県大和郡山市小泉町( koizumiTown yamato kooriyama City)
大名茶人片桐石州(katagiri sekisyu= tea ceremony master) 建立(Built)の 禅宗寺院 慈光院参詣記。
茶人片桐石州建立のお寺で、茶の趣向で満ちたお寺。茶室に広間 借景の庭もすばらしい。茨木門は茅葺で詫びた感じ(旧茨木城の門だったとか)
慈光院には石州公の木造なども祀られていた(写真残ってないんですけど)
石州は小堀遠州を継ぎ、四代将軍家綱の茶道師範的な位置にあった大茶人の一人。
幕府の公式の主たる茶の湯流派の石州流開祖。石州は全国に伝播され様々な派生した派を生んだ。清水派、イ渓派、鎮信派、伊佐派、不昧派などなど。
文献に石州三百箇条(石州公がまとめた書で武家茶の祖的古田織部の著作などからも引いて残してあるらしい)などがある。
石州流は、千道安の茶の湯の系統を引いているそうです。(千道安〜桑山宗仙(旗本)〜片桐石州)
sekishu Faction of tea ceremony
Zen Buddhism jikoin Temple wabi sabi(japanese mind)
【VOICEROID朗読】よみきかせ禅問答
「ひじき祭」初参加です。
「禅問答」という言葉は知っていても、どんなお話があるのかは知らない…。
そんな あなたのため、きりたんに禅問答を読み聞かせしていただきました。
禅問答の(ときとして不条理にも思える)世界をご堪能くださいませー。
なお、解説や考察などは一切ありません。ただ淡々と読み聞かせるだけの動画です。
この動画を視聴しても、禅や禅語の知識はまったく深まりませんので、ご注意を。
拙い動画ですが、楽しんでいただければ嬉しいです。
〈今まで作ったもの→ mylist/55836433 〉
彗狐Z_yutさん、APさん、毒菜さん、広告ありがとうございます!
【鎌倉仏教シリーズ】特別会・仏教関係者座談会6-3
約2年間、特別会を含めば100回近くとなったこのシリーズも今夜の仏教関係者座談会をもって完全に終わりとなりますが、今回は鎌倉仏教系および密教系の現役の僧侶さんたちを迎えて日本仏教全般についてのトークショウーとなります。日本仏教が日本人の気質に与えた絶大な影響から、今日および将来の日本にとって日本仏教はどう関わっていくのかを多方面から中身の濃い話し合いをします。何が飛び出すかは放送の中でのお楽しみです。
【鎌倉仏教シリーズ】特別会・仏教関係者座談会6-1
約2年間、特別会を含めば100回近くとなったこのシリーズも今夜の仏教関係者座談会をもって完全に終わりとなりますが、今回は鎌倉仏教系および密教系の現役の僧侶さんたちを迎えて日本仏教全般についてのトークショウーとなります。日本仏教が日本人の気質に与えた絶大な影響から、今日および将来の日本にとって日本仏教はどう関わっていくのかを多方面から中身の濃い話し合いをします。何が飛び出すかは放送の中でのお楽しみです。
山本玄峰 老師
山本 玄峰(やまもと げんぽう、慶応2年1月28日(1866年3月14日) - 昭和36年(1961年)6月3日)は、和歌山県本宮町生まれの禅僧。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。
【鎌倉仏教シリーズ】第55回・臨済宗⑱臨済宗の葬儀・年中行事2-2
今回で18回に及んだ臨済宗の最終回になりますが、臨済宗はもともと明確な浄土観は持っておらず、あくまで現世に生のあるうちに「悟り」に達することを目的として座禅や公案禅(禅問答)などの修行を行う「看破(かんな)禅」を特徴としています。しかし、衆生は仏教的な葬儀や死生観を必要とする為に他宗派と同様の葬式儀式や年中行事を行います。臨済宗では釈迦牟尼仏を本尊として祭る宗派が多く、読誦するお経としては般若心経や観音経(法華経)のほか、白隠禅師坐禅和讃も使われます。臨済宗は14派ありますが、その信仰や修行形式は白隠(江戸時代)の頃から全派統一されて今日に至ってます。
【鎌倉仏教シリーズ】第55回・臨済宗⑱臨済宗の葬儀・年中行事2-1
今回で18回に及んだ臨済宗の最終回になりますが、臨済宗はもともと明確な浄土観は持っておらず、あくまで現世に生のあるうちに「悟り」に達することを目的として座禅や公案禅(禅問答)などの修行を行う「看破(かんな)禅」を特徴としています。しかし、衆生は仏教的な葬儀や死生観を必要とする為に他宗派と同様の葬式儀式や年中行事を行います。臨済宗では釈迦牟尼仏を本尊として祭る宗派が多く、読誦するお経としては般若心経や観音経(法華経)のほか、白隠禅師坐禅和讃も使われます。臨済宗は14派ありますが、その信仰や修行形式は白隠(江戸時代)の頃から全派統一されて今日に至ってます。
【鎌倉仏教シリーズ】第54回・臨済宗⑰林下(大徳寺と妙心寺)2-1
大徳寺と妙心寺は、京都・鎌倉五山に属さない「林下(りんか)」と呼ばれるもっとも代表的な臨済宗のお寺ですが、この両寺からは一休宗純、沢庵宗彭(大徳寺)や、盤珪永琢、白隠慧玄(妙心寺)などの歴史に残る高僧を輩出しており、公家(皇室)や武家から熱烈な加護寄進を受けて数度の焼失にも拘らず再建を続け、こんにちでも臨済宗の最高峰を君臨しています。どちらも14世紀初頭から半ばにかけて花園天皇から離宮を寄贈されて宗峰峰超が開山に関わり創建されています。この二寺を抜きに日本の臨済宗は語れないのでシリーズに加えました。
【鎌倉仏教シリーズ】第53回・臨済宗⑯京都・鎌倉五山巡り3-3
現在に繋がる日本の代表的文化のほとんど(わびさびを中心とした造園、枯山水、水墨画、能、狂言、茶道、華道、石庭、俳句、日本画などおよそ日本的と思われるもののすべて)はこの日本臨済宗が生み出してますが(「神道」は無関係)、中でも雅の中に禅的な趣向を取り込んだ京都および鎌倉五山と南禅寺を今回は背景説明をしつつツアーをしたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第53回・臨済宗⑯京都・鎌倉五山巡り3-2
現在に繋がる日本の代表的文化のほとんど(わびさびを中心とした造園、枯山水、水墨画、能、狂言、茶道、華道、石庭、俳句、日本画などおよそ日本的と思われるもののすべて)はこの日本臨済宗が生み出してますが(「神道」は無関係)、中でも雅の中に禅的な趣向を取り込んだ京都および鎌倉五山と南禅寺を今回は背景説明をしつつツアーをしたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第53回・臨済宗⑯京都・鎌倉五山巡り3-1
現在に繋がる日本の代表的文化のほとんど(わびさびを中心とした造園、枯山水、水墨画、能、狂言、茶道、華道、石庭、俳句、日本画などおよそ日本的と思われるもののすべて)はこの日本臨済宗が生み出してますが(「神道」は無関係)、中でも雅の中に禅的な趣向を取り込んだ京都および鎌倉五山と南禅寺を今回は背景説明をしつつツアーをしたいと思います。
【鎌倉仏教シリーズ】第52回・臨済宗⑮鈴木大拙と即非の論理2-2
鈴木大拙は明治以降戦後の昭和に至るまで世界中に禅の思想を広めた功績を持つ人で、本人は円覚寺に参禅し、東京帝大(東大)を卒業後、米イリノイ州の通信社に11年務め、その後、学習院大学や真宗大谷大学で教授として教鞭を取る一方、欧米の大学で講演をしたり講義をしたり、また、多くの著作を残し(半数以上は英語による)、「即非の論理」と言う般若経の弁証法を発表し、欧州の弁証法と対比しながら禅に基づく日本の思考様式を世界に伝えました。
【鎌倉仏教シリーズ】第52回・臨済宗⑮鈴木大拙と即非の論理2-1
鈴木大拙は明治以降戦後の昭和に至るまで世界中に禅の思想を広めた功績を持つ人で、本人は円覚寺に参禅し、東京帝大(東大)を卒業後、米イリノイ州の通信社に11年務め、その後、学習院大学や真宗大谷大学で教授として教鞭を取る一方、欧米の大学で講演をしたり講義をしたり、また、多くの著作を残し(半数以上は英語による)、「即非の論理」と言う般若経の弁証法を発表し、欧州の弁証法と対比しながら禅に基づく日本の思考様式を世界に伝えました。
【鎌倉仏教シリーズ】第51回・臨済宗⑭儒教(朱子学)+禅宗=武士道3-3
朱子学は、源頼朝が将軍だった頃に、真言宗泉湧寺派の僧侶・俊芿(しゅんじょうが宋より朱子学の書を持ち帰ったのを始めとし、その後鎌倉時代に中国(南宋)から来日した臨済宗の僧侶たちによって朱子学が伝えられ、南北朝時代になると、天台宗の僧侶・玄恵(げんえ)が後醍醐天皇に朱子学を教え、天皇はそのマニアとなり、多くの悲劇(忠臣たちの犬死)を生むことになる。秀吉の慶長の役の時、朝鮮より連れてこられた姜沆(きょうこう)は、臨済宗僧侶の藤原 惺窩(ふじわら せいか)最新の朱子学を伝え、その弟子の林羅山は家康に仕え、朱子学で幕藩体制の思想的根拠を築きます。
【鎌倉仏教シリーズ】第51回・臨済宗⑭儒教(朱子学)+禅宗=武士道3-2
朱子学は、源頼朝が将軍だった頃に、真言宗泉湧寺派の僧侶・俊芿(しゅんじょうが宋より朱子学の書を持ち帰ったのを始めとし、その後鎌倉時代に中国(南宋)から来日した臨済宗の僧侶たちによって朱子学が伝えられ、南北朝時代になると、天台宗の僧侶・玄恵(げんえ)が後醍醐天皇に朱子学を教え、天皇はそのマニアとなり、多くの悲劇(忠臣たちの犬死)を生むことになる。秀吉の慶長の役の時、朝鮮より連れてこられた姜沆(きょうこう)は、臨済宗僧侶の藤原 惺窩(ふじわら せいか)最新の朱子学を伝え、その弟子の林羅山は家康に仕え、朱子学で幕藩体制の思想的根拠を築きます。
【鎌倉仏教シリーズ】第51回・臨済宗⑭儒教(朱子学)+禅宗=武士道3-1
朱子学は、源頼朝が将軍だった頃に、真言宗泉湧寺派の僧侶・俊芿(しゅんじょうが宋より朱子学の書を持ち帰ったのを始めとし、その後鎌倉時代に中国(南宋)から来日した臨済宗の僧侶たちによって朱子学が伝えられ、南北朝時代になると、天台宗の僧侶・玄恵(げんえ)が後醍醐天皇に朱子学を教え、天皇はそのマニアとなり、多くの悲劇(忠臣たちの犬死)を生むことになる。秀吉の慶長の役の時、朝鮮より連れてこられた姜沆(きょうこう)は、臨済宗僧侶の藤原 惺窩(ふじわら せいか)最新の朱子学を伝え、その弟子の林羅山は家康に仕え、朱子学で幕藩体制の思想的根拠を築きます。
【鎌倉仏教シリーズ】第50回・臨済宗⑬俳句と臨済禅2-2
五七五七調を基本とした和歌(短歌)は7世紀から8世紀にかけて収集され編集された万葉集や10世紀に公家や知識人の詩歌を納められた古今和歌集の時代から存在していたのですが、この短歌や長歌が室町時代には連歌として流行し、江戸時代中期に現れた松尾芭蕉は、臨済宗の仏頂禅師の教えを受けて、わびやさびの概念を作句の根幹に添え、以後、今日に至るまで日本の俳句は、わびさびの趣きを持った作風が俳句そのものへと定着していきました。(ちなみに、万葉集や古今和歌集は日本独特の575調の短歌なのですが、これらは「神道」とは一切関係ありませんので(笑)。これらの中に古事記の神々を崇拝する句は一切出てきません)
【鎌倉仏教シリーズ】第50回・臨済宗⑬俳句と臨済宗 2-1
五七五七調を基本とした和歌(短歌)は7世紀から8世紀にかけて収集され編集された万葉集や10世紀に公家や知識人の詩歌を納められた古今和歌集の時代から存在していたのですが、この短歌や長歌が室町時代には連歌として流行し、江戸時代中期に現れた松尾芭蕉は、臨済宗の仏頂禅師の教えを受けて、わびやさびの概念を作句の根幹に添え、以後、今日に至るまで日本の俳句は、わびさびの趣きを持った作風が俳句そのものへと定着していきました。(ちなみに、万葉集や古今和歌集は日本独特の575調の短歌なのですが、これらは「神道」とは一切関係ありませんので(笑)。これらの中に古事記の神々を崇拝する句は一切出てきません)
【鎌倉仏教シリーズ】第49回・臨済宗⑫茶道と臨済宗2-2
日本人の伝統文化で現在にも伝わり、世界中で認知されているものと言えば、茶の湯(茶道)、生花(華道)、和食(懐石料理・煎茶料理・会席料理)、和菓子などですが、そのすべてが禅宗(臨済宗・黄檗宗)から生まれてることは銘記すべきだと思います。(「神道」の影響はゼロです)能、狂言、日本庭園(石庭、造園)、水墨画、枯山水、漢詩文、俳句など日本を代表する文化もすべて禅宗(臨済宗)から誕生し、盆踊り(時宗)、歌舞伎(浄土真宗)、漫談・漫才(時宗)、地方信仰(密教系修験道)から生まれたことを考えると日本の精神文化の100パーセントは仏教からということになります
【鎌倉仏教シリーズ】第49回・臨済宗⑫茶道と臨済宗2-1
日本人の伝統文化で現在にも伝わり、世界中で認知されているものと言えば、茶の湯(茶道)、生花(華道)、和食(懐石料理・煎茶料理・会席料理)、和菓子などですが、そのすべてが禅宗(臨済宗・黄檗宗)から生まれてることは銘記すべきだと思います。(「神道」の影響はゼロです)能、狂言、日本庭園(石庭、造園)、水墨画、枯山水、漢詩文、俳句など日本を代表する文化もすべて禅宗(臨済宗)から誕生し、盆踊り(時宗)、歌舞伎(浄土真宗)、漫談・漫才(時宗)、地方信仰(密教系修験道)から生まれたことを考えると日本の精神文化の100パーセントは仏教からということになります。
【鎌倉仏教シリーズ】第48回・臨済宗⑪わび・さびと北山・東山文化3-3
室町時代に入ると、臨済宗は公家や武家の間に広範に広がり、多くの帰依者を出す中で、その信仰だけではなく、臨済禅の思想は、建築様式、美術、文学、食事、茶礼、能や狂言などの芸能から生活様式にまで広範に日本人の精神世界にまで広がり定着していきます。わび(侘しさ)とさび(寂しさ)というネガティブな観念も、臨済禅の影響で「わび・さび」という止揚した形でポジティブな創造的観念と変化し、それは今日にまで続く日本の精神文化の一番の核の部分となります。(「神道」は関係ないです(笑))
【鎌倉仏教シリーズ】第48回・臨済宗⑪わび・さびと北山・東山文化3-2
室町時代に入ると、臨済宗は公家や武家の間に広範に広がり、多くの帰依者を出す中で、その信仰だけではなく、臨済禅の思想は、建築様式、美術、文学、食事、茶礼、能や狂言などの芸能から生活様式にまで広範に日本人の精神世界にまで広がり定着していきます。わび(侘しさ)とさび(寂しさ)というネガティブな観念も、臨済禅の影響で「わび・さび」という止揚した形でポジティブな創造的観念と変化し、それは今日にまで続く日本の精神文化の一番の核の部分となります。(「神道」は関係ないです(笑))
【鎌倉仏教シリーズ】第48回・臨済宗⑪わび・さびと北山・東山文化3-1
室町時代に入ると、臨済宗は公家や武家の間に広範に広がり、多くの帰依者を出す中で、その信仰だけではなく、臨済禅の思想は、建築様式、美術、文学、食事、茶礼、能や狂言などの芸能から生活様式にまで広範に日本人の精神世界にまで広がり定着していきます。わび(侘しさ)とさび(寂しさ)というネガティブな観念も、臨済禅の影響で「わび・さび」という止揚した形でポジティブな創造的観念と変化し、それは今日にまで続く日本の精神文化の一番の核の部分となります。(「神道」は関係ないです(笑))
【鎌倉仏教シリーズ】第47回・臨済宗⑩葬式仏教化(以心崇伝)2-2
以心崇伝は、臨済宗の高僧でありながら、彼の活動は宗教活動よりも「黒衣の宰相」として徳川家康やその後の徳川幕府に参謀としての才能を発揮した政治家と言えるかもしれない。関ケ原の戦いに勝利した家康は、豊臣残留勢力を討伐する為の口実を求めていたところ、方広寺の「国家安康」という鐘に刻まれた銘に因縁をつけること以心崇伝に助言され、それを口実に大坂城を攻めて落城させ、幕府が開かれると、禁中並諸法度や寺院諸法度、武家諸法度など朝廷や寺院の活動を規制し、檀家制度(寺請制度)を確立することにより、日本の仏教諸派を布教仏教から葬式仏教へと変化させていきました。
【鎌倉仏教シリーズ】第47回・臨済宗⑩葬式仏教化(以心崇伝)2-1
以心崇伝は、臨済宗の高僧でありながら、彼の活動は宗教活動よりも「黒衣の宰相」として徳川家康やその後の徳川幕府に参謀としての才能を発揮した政治家と言えるかもしれない。関ケ原の戦いに勝利した家康は、豊臣残留勢力を討伐する為の口実を求めていたところ、方広寺の「国家安康」という鐘に刻まれた銘に因縁をつけること以心崇伝に助言され、それを口実に大坂城を攻めて落城させ、幕府が開かれると、禁中並諸法度や寺院諸法度、武家諸法度など朝廷や寺院の活動を規制し、檀家制度(寺請制度)を確立することにより、日本の仏教諸派を布教仏教から葬式仏教へと変化させていきました。
【鎌倉仏教シリーズ】第46回・黄檗宗(華厳、天台、浄土混淆禅)2-2
日本の臨済宗は鎌倉時代初期に栄西が宋へ行って臨済義玄の臨済宗黄檗派の禅宗を日本に持ち帰ったのが始まりですが、江戸時代になると、臨済宗黄檗派とは流れを異にする臨済宗楊岐(ようき)派の流れを汲む臨済禅を明代末期の禅僧・隠元が来日し、日本で黄檗宗を名乗る新たな禅宗の宗派を開きます。この宗派は、混淆禅と言って、臨済禅に華厳や天台や浄土などの信仰を採り入れ、独特の中国風の禅宗の様相をなし、宗派のお寺や読経、祭祀はまるで中国の仏教であるかのような錯覚を起こさせます。しかし、4代将軍徳川家綱や御水尾天皇らの帰依を得て、今日に続く法統を築きます。