【神道シリーズ・シーズン2】第38回・光格天皇と古儀復興

【神道シリーズ・シーズン2】第38回・光格天皇と古儀復興

明和8年(1771年)、皇位継承直流より7親等離れた閑院宮典仁(すけひと)親王の第6子として生まれた祐宮(さちのみやや)親王は、21歳という若さで崩御された第118代天皇の御桃園帝の皇位継承者として白羽の矢があたるが、当時4世襲宮家の一つであった閑院宮が本流より離れていたことや、実母の身分が低かったことや、そして何より既に天台宗の寺院・聖護院に入寺して皇籍降下をしていたことなどから様々な異論は出ていたものの、直流よりはるかに離れすぎた伏見家本流の王子による継承は考えられず、結局9歳にして、御桃園前天皇の実の娘である欣子(よしこ)内親王に養子縁組する形で119代天皇の地位を継承することとなった。9歳で即位した光格天皇は、11歳の頃より学者肌の公家たちを講師として「論語」や「孟子」「中庸」「大学」などの儒教の教育を徹底して受けることになり、これを通じて次第に儒教的君主論における天子としての自覚を深めて行った。その光格天皇が17歳の時、長引いた天明の大飢饉の中困窮する京都の庶民たちが御所の千度参りの際に御所の周りに集まった6万人にも及ぶ民衆が直訴の内容を書いた紙で賽銭をくるみ投げ入れたことから天皇が幕府に民衆救済を申し入れたことが禁中並び公家諸法度に違反するとして問題となったが、事情が事情だけにやむを得ないとし、幕府側は天皇を諫めなかった一部の公家たちを処分はしたものの、緊急米として1500石を京都庶民に放出することなった。また、同年に、5年前に京都大火で焼失した京都御所の復興において光格天皇は平安時代の復古調の御所の再現を要求したが、幕府の予算の関係で建材を倹約した状態での紫宸殿と清涼殿の復古調復興は認めたが、神嘉殿の復興は認められず、仮御所をその代用にするように命じられた。新嘗祭や大嘗祭など応仁の乱以降中絶していた朝廷儀式は、徳川幕府が始まってからその朱子学的な天子君主論の建前から幕府が中心となって復興されてきたが、その後また何度か中断され、光格天皇の時代になり、新嘗祭が本来の神嘉殿で行われるよう完全復興を目指したが、結局、仮御所を神嘉殿として見立てて復興することとなった。しかし、天皇とはならなかった実父の閑院宮典仁親王を上皇にしたいという尊号一件の問題については幕府に押し切られ、要求したこととの罰として大量の公家たちが幕府により処分されることとなった。光格天皇は様々な朝廷古儀の復興を目指したが、それは必ずしも宮中儀礼だけではなく、宮中真言院、つまり、亡くなられた前天皇の後七日供養を行ったり、歴代天皇が真言密教形式の天皇灌頂という皇位継承の儀式を行う宮中の建物の復興や石清水八幡宮の臨時祭放生会、つまり仏式の儀礼などの復興も同時に求めていた。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm39089507