朱儁が掲げた董卓征伐の旗

朱儁が掲げた董卓征伐の旗

≈西暦191年3月孫堅が落伍者を集め、太谷陽人(現在の中国山西省呂梁市臨県)を占領し、軍の立て直しを行う。孫が太谷陽人に入った事を聞いた董卓は、以下2名を任命し、5,000名の歩騎で孫の軍を攻撃させた。①胡軫(大督護)②呂布(騎督)しかし、胡は傲慢且つ短気で、部下の信頼も薄く、呂との折り合いも悪かった。胡は「今こうして軍を進めているが、とどの詰まり、青綬を帯びる太守を一人斬れば静かになるのだ」と言い、呂以下の諸将は不快に感じた。胡率いる軍が陽人城から数十里離れた広城に到着した。夜の遅い時間であり、疲労が溜まっていた為、休息を取る必要があったが、呂以下の諸将は胡を嫌っており、作戦を成功させたくなかった。そこで呂達は「陽人城中の敵兵は逃げてしまった。早く追撃しないとチャンスが無い」と言って胡に出撃させる様誘導した。胡が軍を率いて陽人城に到着したが、守りが堅く、奇襲が成功する見込みは無かった。また、兵達は飢えと喉の渇きにより士気が低下しており、武装を解いて休んでいた。そこで呂は軍の中に「孫が将兵を率いて夜襲を仕掛けてくる」とデマを流し、内部は戦わずして混乱し、兵達は鎧・馬・鞍を捨てて逃げ出した。孫はこれに乗じて胡の軍を撃破し、董の帳下の都督であった華雄を斬首した。孫はこの戦により名声を上げた。袁術は、この孫の勝利を聞いた人間から「孫が洛陽を占領し、勢力を伸ばせば、抑える事は難しくなる」と進言を受け、孫の勢力が大きくなり過ぎる事を恐れ、食糧を送らなかった。孫は100里余り離れた魯陽に一夜で駆け戻り「私が我が身を投げ出すのは、上は国家の為に、下は袁の家門の仇を報じる為です。それなのに貴方は陰口を信じて、私を疑うのですか?」と、袁を激しく責めた。袁は恥入り、直ぐに孫に食糧を手配し、孫は前線に戻った。宇宙一元化 公式HP http://universe-centralization.com/top.html

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42404839