金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜

金胎寺から笠置寺に行幸の後醍醐天皇が渡った「祝橋」・休まれた「養生の芝」・女官が産気づいた「産坂」〜京都府和束町〜

今回は元弘の変で御所を脱出した後醍醐帝が東大寺・春日大社を経て金胎寺へ遷幸、その後笠置寺へ遷られる際に京都府和束町の知られざる秘境に伝わる逸話を、現地の方から現地取材。楠公研究会賛助会員で、京都府和束町で「和所美土里屋」オーナーでもある和所氏にご案内頂いた。金胎寺から笠置寺へ遷幸される際に、村人が祝橋という橋をかけた。橋の用材として使われた木は和束町内に鎮座する八坂神社のご神木が用いられた。今回は八坂神社調査の目的もあり、某神社のベテラン神職で、楠公研究会賛助会員でもある伊藤氏も同行。なぜ、八坂神社の御神木を祝橋の用材としたのか、その知られざる意図を知る事ができた。また、道中に腹痛を起こされた後醍醐天皇が暫し休息をとられた「養生の芝」へもご案内頂いた。ここは金胎寺のある鷲峰山山麓の茶畑の真ん中にあり、地元の方の案内無しでは辿り着けない地である。「養生の芝」は、新たに和束町長となられた馬場正実町長にお教え頂いた後醍醐天皇ゆかりの地である。地元でしか知り得ぬ貴重な情報をご教示頂いた馬場町長に感謝です。歴史書では語られぬ南北朝動乱前夜の真実の歴史がここにある。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm42875084