西暦1,195年4月23日東大寺大仏殿の落慶供養が盛大に執り行われ、以下の人間等が参列する。①後鳥羽天皇②九条兼実③源頼朝(大檀越)④北条政子⑤佐々木経高8時、後鳥羽天皇の行幸により、乱声と笛が響き渡った。後鳥羽天皇を乗せた神輿は西の回廊から壇上に登った。後鳥羽天皇は下御し、大床子に着座した。続いて公卿と文武百官が着座した。東南院の寝殿に居た源も駆け付けた。乱声と振鉾の後、供養が開始された。殿上人が名香を大仏の前に立て、大仏殿上には彩幡・華曼を掛け、上下二層の四隅には宝幢を吊るし、南の庇の西3ヶ所の中央柱の南に天井を付けた仮屋を設けて、天皇の御座所と大宋の屏風を張り巡らし、蔵人達の休憩所も合わせて設置された。大仏殿の内では仏前に香華を供え、7つの大花瓶に造花を刺し、中央柱の北に八脚の供花机を設けて證誠の座を設けた。仏前中央には長床を置いて唄師の座と定め、南東西第3間より西に広筵を敷いて公卿の座を設けた。正面の左右には2脚の礼盤と高座を置いて、講読師の華厳経講讃の座とした。大仏殿前の庭上には、天平落慶の如く舞楽台を大燈篭の南に組み上げた。その様な状況下で、和舞と東舞が舞われた。その後、以下等の京都・南都の供養僧1,324名(内東大寺の僧457名)が入場した。重源は此の中には加わらなかった。重源はこの日の供養に向けて、僧侶達への布施等の経費の準備を行なっていた。①導師②呪願師③引導④散華奈良時代の東大寺大仏開眼会に於ける華厳経講説に倣い、僧達は「金字華厳経」の題名を称揚した。導師と呪願師が舞台の礼盤に着座し、礼仏した。九条以下官人が起座する中、願文・呪願文を奉った。続いて金鼓が有り、背に鳥の羽を付けた4名の童が舞った。再度金鼓が有り、唄が歌われた。12時過ぎから大雨となり、春雷も発生した。14時には地震も発生した。南大門脇の隅の座敷で式を見守っていた重源は「大雨の法会も悪くはない。式が引き締まる」とした。また、この日の未明から以下2名を始めとする源の配下の御家人が平家残党の襲撃を警戒して、数万の兵を率いて警備に当たる姿に貴族達は圧倒された。①和田義盛②梶原景時重源は「公家や寺家の時代は終わり、これからは武家の時代になるのかのう」と独り言を言った。また、門内に入ろうとした見物の僧兵達が御家人と乱闘を起こした。梶原景時がそれを鎮めようとするが、その態度が傲慢無礼だとして一触即発の事態となった。源は結城朝光を呼んで事態を収拾する様命じた。結城は僧兵達の前で跪き「前右大将家の使者である」と言った。続けて「この東大寺は平清盛の為に炎上し、礎石ばかりを残して灰塵と化してしまいま...一元化 公式HP https://uc-4.com/